「伊那」と「飯田」の違い(それぞれの地域を行き来して) 前編より
先ごろ仕事の関係の宴会の席でこんな話があった。かつて大病で病院に行くと言うと昭和伊南だったが、今は伊那中央だと。最近怪我をされたという駒ヶ根市内に住む方は、救急車を利用するのが嫌だったといい、自家用車で無理をして昭和伊南病院に行ったという。ところが「ここでは処置ができない」と言われ、伊那中央病院に行くことに。そんな話題になった際に「昔は反対だったのに」という会話に至ったわけだ。わたしの記憶の中でも、昭和伊南といえばかつては地域の中核的病院だったという印象がある。ところが伊那中央病院が伊那インターからほど近いところに移転した後、伊南から伊那中央へと病人の足は変わった。昭和以南が救命救急センターとしての役割を担うようになったのは1979年のこと。伊那谷の中核病院といって差し支えない存在だった。ところが医師の減少もあったのだろうが、伊那中央や飯田市立が整備されるとともに、その存在は薄れ、県が昭和伊南にセンター指定の「自主返上」を要請したのは2005年のこと。もちろん地元が反対したのは言うまでもないが、それ相応の体制が取れなくなっていたのも事実。これをきっかけに伊南病院が経営的にも厳しくなっていった。かつて「赤穂町に行く」と言ってよく行った駒ヶ根市内広小路の姿は、かつての賑わいなど嘘のよう。もちろん同じことは飯田市丘の上にも言えるし、おそらく伊那市のかつての入舟から通り町といった街にも言えるのだろう。が、とりわけ駒ヶ根市の例は顕著だ。
「マチが移る」という言葉には値しないかもしれないが、昭和から平成にかけて「マチは消えた」のかもしれない。しかし大きな枠で捉えると、かつてのマチが移った、あるいは分散した、もっといえばマチらしさがなくなり機能分化したとも言えるなか、その中心的位置づけまでも消えてしまったわけではない。いまだ上伊那の中心は伊那であり、下伊那の中心は飯田である。そして一極集中ではなかった上伊那には南に駒ヶ根、かつての赤穂町というマチが存在した。そもそもこのあたりから「伊那」と「飯田」の違いが始まる。地域性の背景に江戸時代が影響しているとまでは言わないが、まったくないわけではないだろう。上伊那においては江戸時代には幕府直轄領と高遠藩という大きく分けるとふたつの領域があった。同じように下伊那にも幕府直轄領と飯田藩という大枠があった。しかしここに「伊那」という現在の地域の中心地は影が薄い。これは飯島代官所が直轄領を支配していたことによる。「伊那」ではなく「飯島」というところにそれはあった。明治になって廃藩置県が実施された際、数年のことではあるが「伊那」の中心が飯島に置かれたことは、「伊那県庁」が飯島にあったことでも解る。もちろん廃藩置県であるからかつての藩にも県が置かれたわけであるが。ちなみに飯島代官所から分かれた中野代官所支配地は廃藩置県の際に「中野県」とされた。その後いろいろあって中野県から長野県に変わって、善光寺のお膝元に県庁が移ったのはよく知られたこと。飯島代官所は「飯島県」とはならなかった。ここから解ることは「伊那」という行政の中心は必ずしも現在の伊那にあったわけではない時期もあったということ。それに比較すると「飯田」の中心は長く丘の上にある。どれほどマチが廃れようが、今もって市庁舎は丘の上だし、県の出先機関のほか、主要な施設はいまもって丘の上にある。地域の中心であるという自負は、変わらず人々の中に育まれたといってよい。地域エゴのようなものがあることは地方では当たり前のことで、今もなお行政施設の引き合いをするように、過去にも顕著な例は少なくない。県庁所在地で長野と松本が引き合いをしたのはもう過去の話ながら、いまだその対向意識は人々の心の中にある。
こう考えてみるとあくまでも個人的な印象に過ぎないが、「飯田」は飯田を中心に全てがある。しかし「伊那」は変容していくことに寛容にならざるを得ない歴史があったと言えないだろうか。この意識が空間形成にも影響しただろうし、もちろん地域意識、あるいは視野にも影響していると思う。かつては伊那谷の中心が飯田にあったといっても良い。ところが明治以降の歴史によって意識は分散化していった。かつての中心には許されざる地域意識があって不思議ではないのである。
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