泰阜村では「泰阜村柿の里」計画と銘打って、村内における原料柿の生産拡大に乗り出すらしい。学校の統廃合は今に始まったことではなく、昔から繰り返されてきたこと。「学校がなくなる」ということは地域にとっては大きなことで、わたしの住む町でも来春には小学校が1校廃校となる。地域校の利用方法は多々あるのだろうが、この廃校になる学校に対してかつて日記でも触れたことがあった。親の論理として生徒数の少ない学校に通わせるよりも大勢いる学校の方が将来的に良いという意識は歴然としていて、結局小さい学校はますます生徒数減少が進み、廃校とならざるを得ない。致し方ない流れであることは言うまでもないが、もう少し違う視点があるだろうに、と思っても親の論理にはかなわない。
冒頭の「泰阜村柿の里」計画の拠点となるべく整備が進む場所が、平成22年をもって廃校となった泰阜北小学校の跡地である。すでに旧校舎を利用して村内にあるヌーベル・ファームという会社が柿をつるすための加工施設として活動を始めている。学校といえばグランドという大きなスペースがある。このグランドにトマト工場が造られるという。工場といってもトマト栽培のハウス棟であるが、高級トマトの生産をするのだろうか。そんな工場造成に絡んで仕事で学校跡地を訪れた。泰阜といえば平地がなかなかないわけであるが、学校といえば峰の上を欠いて平らにした、そんなところに立地することが普通だ。天竜川東岸、いわゆる「竜東」にある学校は立地が共通している。2年前に小学校が統合のために廃校になったが、そもそもここは泰阜北中学の跡地だった。飯田の学校に通ったわたしのクラスには泰阜北中学と、泰阜南中学と、両方の中学の出身者がいた。当時もそれほど人口の多い村ではなかったが、「二つも中学があるのか」と驚いた記憶がある。40人規模のクラスで、高校だから出身校が多様になることはあたりまえなのだろうが、出身校別にみて最も人数が多くても飯田下伊那で大規模校と言われていた中学からやってきていた4人程度だった。同程度の学校が複数あったが、ほとんどは1人だけで、出身校は20校余にのぼった。それでも市町村別にみれば誰もいない村がいくつもあった。その泰阜北中学がやはり統合のために廃校になったのは、跡地に残る石碑によると平成5年だったという。昭和22年に開校したというからほぼ半世紀の歴史に幕を閉じた。
グランドには子どもたちの残したものが今でもたくさん残っている。かつて「ドラえもんと土管」で触れたことがあるが、ドラえもんに登場するいわゆる“土管”を利用した遊び場が懐かしさを醸し出している。まさに“土管”ではなくヒューム管である。噂によるとこれらは残されるともいうが、果たして1年後にはどんな景色になっていることか…。
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