我が家から伊那市、そして飯田市の近くの妻の実家まで久しぶりのロングランだった。それにしても伊那市までの道のりを「長い」と感じたのは走行速度によるものだ。制限速度以下で走る時間が長かった。これって当たり前のことなのだが、制限速度以下で走っているとイライラしていた時代を経ている者には、やはり当たり前だとなかなか思えないものだ。それってわたしだけの歪んだ意識なのか、と運転しながら思ったりする。車社会の当たり前は変ってしまったとも言えるのだろうか。地方における四半世紀前の車社会と現在の車社会を比較して見なくなった景色がいくつかある。ひとつは追い越しである。制限速度以下で走っている車があれば、そこには追い越しという景色が必ず見えたし、稀ではなく頻繁に見られた景色である。それが今は追い越しの姿を見ることじたい稀である。統計がもちろんあるのだろうが、かつてなら追い越しによる違反がそこそこあっただろうが、今はきっと激減しているはずだ。その最たる理由はこれほど道路が整備されて追い越せる道が増えたにもかかわらず、実際はかつてのような白いセンターラインはちまたからほとんど消えてしまったことによる。もちろん安全対策によるもので、白かったセンターラインがイエローに塗り替えられていった時代には「つかまらなければ」と白い時代を思い出しながら追い越しをかける車が多かった。しかし、白いセンターラインがちまたから消えたとともに、追い越しはしないもの、というのが当たり前になったとも言える。かつてなら抜くという意識が頭のどこかにあったわたしも、今ではかなりスローな走りでもなかなか抜くという意識が浮かばなくなった。習慣病の変化である。それはわたしだけではなく、車社会の意識変化にもなった。
スローな走りであればそれほど速度の変化がなく、一定した時速で走るようになるかと思えばそうではない。道路の状況変化に合わせて運転をできなくなった、これもまたかつてとは違う景色ではないだろうか。例えば起伏の激しい場合、登りならアクセルを事前に踏み込んでいく、下りならギアを落として速度調整をする、当たり前のことなのだが、それを意識的に行わないからスローなペースでも坂になると減速してしまうことが多い。明らかにマニュアル車がちまたから無くなったことによる運転のメリハリのなさである。アクセルだけで速度調整するオートマなら、よりアクセル操作にメリハリが生まれるような気がするのだが、走行速度と道路状況を考慮するとアクセルワークは明らかに事前ではなく事後対応になってしまっている感が否めない。こんなに暇になってしまって、人々は運転しながら何を考えているのだろう、などという余計な心配をしてしまう。
年配の方の運転が多くなった。それもまたスローな車社会を演出している。ますますその傾向は高まっていくのだろう。それにしても伊那市から飯田市へ向かう夕方。混雑していた道がしだいに空き空きになっていって車の姿さえまばらになっていったのは時間帯がしだいに夜に向かっていたことにも起因するのだろうが、いつも電車に乗って混雑していた空間が我が家のあたりに来るとまったく人影もなくなってしまうのと似ている。高齢化社会になれば、夜とともにいっきに動きがなくなるのは当たり前のことなのだが、まだ午後7時前だというのに、ただ灯かりだけが点灯している店先に車が1台も停車していない店があまりにも目に入って、地方の景色もまた、これからどんどん変わっていくのではないか、そんなことを意識させられたロングランであった。
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