盆といえば盆踊りがどこでも行われたものだが、例えば今わたしの住んでいるところにそのようなものはない。かつてあったのかそれとももともと無かったのか聞いてもいないが、わたしの生家のあたりでは今から40年ほど前は、地域の中心で必ず盆踊りというものをしていた。いつごろからその盆踊りが行われなくなったか知らないが、盆に里帰りした人たちが顔を合わせる機会がそこにはあったのだろう。
この22日、阿南町新野ではウラボンの盆踊りが行われた。このウラボンであるが、いわゆる盂蘭盆と思いがちであるがどうもこの場合のウラボンは違うようだ。盆のことそのものをふつう盂蘭盆という。これは中国の盂蘭盆会からきているもので、過去、現在、未来を見通す能力を得た釈迦の弟子の目連が、亡き母が餓鬼となって苦しんでいるのを知り、飯を鉢に盛って供え救おうとした。しかし、飯は火炎となって亡き母は救われず、なお苦しみから逃れることはできなかった。目連はそのことを釈迦に訴えて教えをこうた。釈迦は目連の母は罪が深く、お前1人の母に対する超能力をもってしても救うことはできない。また梵天帝釈といえども救えないものなのだ。ただひとつ可能なことは、十方の衆僧が年に一度自恣する7月15日に、百昧の飲食を分器に入れて衆僧の供養をすることだ。そのことによって母だけではなく、7世の父母も救われるであろうという話が起源である。盆の起こりであるが、新野でいっているウラボンのこととは違うことが解る。ちなみにウラボンという呼称が長野県内で使われているのかとみてみると、北信では7月30日や31日のことをウラボンと言っているところがある。これは盂蘭盆の入るに日を意味しているようで、長野市若穂岩崎では「7月31日から8月13日までをウラボンという」と言っているように盂蘭盆を示していることになる。また東信でも中信でもほとんどウラボンという呼称の例はなく、あっても盆の期間のうちの一日を指してそう呼ぶ程度である。ようは新野のような盆の終わったあとにウラボンが存在する例はないのである。そして南信にいたると新野だけではなく、阿智村前原で「8月23日、24日をウラボンという」とか同じ備中原で「8月23日をウラボンという」といった事例がある。事例はあるが希少なもので、この場合のウラボンは裏の盆という印象が強い。24日といえば地蔵盆の日であるが、ここでは同じ日をウラボンと呼んでいるわけである。
そんなウラボンの踊りを長野県民俗の会例会で訪れた。久しぶりの新野であった。13日から17日の朝まで行われる本番の盆踊りとは異なり、地元の人たちが中心の素朴な踊りの日である。盆の間はお客さんが来るため、とくに女衆にとっては踊りをする余裕がなかなかない。踊りへの思いが強い地域だけに、踊りを踊りたい人たちのために24日のウラボンに一日だけ盆踊りをするのだという。実はこの24日に踊りをするというのは少し前にはあまり知られていなかった。今でこそポスターにもウラボンの踊りが記載されるようになったが、そもそも地元の人たちだけの楽しみの踊りの日であったわけである。毎年決まった24日では人が集まりにくいということで、昨年から第四土曜日に日程が変更されたという。とはいえ、かつて昭和60年代に訪れた時と今年をくらべてもそれほど人出に変化はない。さすがに本番の踊りとは輪の大きさが違う。午後9時に始まると、50人ほどの踊り手の輪ができる。時計が翌日になるころには、標高800メートルを越える新野の夜は「涼しい」ではなく「寒い」に近い。最初は小さな子どもたちがたくさん輪に加わっているが、しだいに輪からはずれていく。それでも思いの強い子どもがいつまでも踊りたいと親の説得に拒否したりする。そんな光景が何度か見られた。午前1時ころになるとずいぶんと人も少なくなるが、それでも午前6時までずっと続く。音頭とりの台には中学生が代わる代わる上り、延々と続く踊りの担い手となる。とても朝まで見続ける体力はなくそのあたりでお暇するが、朝まで踊り続けた仲間の話によれば、もっとも少なくなったのは午前5時前の20人くらいだったという。最後は再び50人ほどの輪となって、午前6時を迎えたという。朝方、宿泊した旅館の家の者が控えている部屋に子どもたちが雑魚寝で何人も眠っていた。この日ばかりは最後の夏を楽しむ徹夜のひと時だったのだと感じた。
参考に「新野盆踊り」について触れたわたしのモノクロ写真のページがある。 また、「音の伝承」に平成4年8月24日の録音が置いてある。
すごいですよね。でも聞いていると睡魔が襲います。あれはやばいです。来年が楽しみです。
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