True Colorsを見つけるためのセッション
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誰かに「嫌われたい」と願っている人は、何か特別な理由を除いては、そうそういないのではないかと思います。
どちらかと言えば、「嫌われたくない」と思うのが一般的でしょう。
今年知り合ったGさん(30代)は、私がこれまで生きてきた中で、もっとも純粋と思える男性です。
やや天然なところもあるので(そういう私も、同じく天然と言われておりますが)、自分の持ち味に気付いていない可能性もあります。
そのGさんと一緒に料理をする機会に恵まれました。
お喋りしながら進めていたその時、「人に嫌われたくないんですよねー」という発言がありました。
彼の口からその言葉を聞くのは二度目でしたので、少しお話してみる必要があるのかな、と思った私は、「厳しいことを言うようだけど、それはエゴかなー?」と申し上げました。
そして「相手が自分を好きになる権利があるように、嫌いになる権利もあると思うのよ。それを奪っちゃわないで」と続けました。
一瞬考えた後で、彼は「そうか・・・。おー、ありがとうございます。スッキリしました」と言ってくださいました。
あまりに早い理解だったので、私の方が少し心配になり、「大丈夫?」と聞き返しましたが、「大丈夫です、もう一瞬で楽になりました」の返答。
Gさんのそういう、人の話を至極当然のように受け止めていく垣根の無さが、本当に純粋だなーと思うところ^^
人は準備が出来ているとき、小さなきっかけを『変わるチャンス』に活かす事ができるもの、と思います。
ところであなたにとって、他人のこういうところが許せない!というところはどんなところでしょう?
気遣いがない?
不親切?
嘘つき?
えらそうなところ?
優柔不断なところ?
何か一つ挙げてみて、それから続きを読んでみてください。
↓↓↓
心理学の中に、『他人は自分を映す鏡だ』という説があります。
今あなたが挙げたものは、実はあなたの中にある部分。
自分の中に無いものは、他人が見せてきても気付かずスルーしていくもの。
けれどスルーせずに引っ掛かってしまうのは、自分の中にそれがあることを認めたくない葛藤の表れ。
「あの人の××なところは、本当にイライラさせられる!」・・・と思ったら、この記事を思い出してみてください。
そして自分の気持ちを、より正しく理解し直す機会としてほしいのです。
さてその相手は、本当にあなたをイライラさせようとして行動しているのでしょうか?
いいえ。
相手の行動に触発されて、あなたがイライラしているだけのことなのです。
それはなぜか?
あなたが大事にしたいと願う信条や価値観を相手にも求め、何の権利があってか自分の都合のいいよう強要したいとしているからです。
あなたが大事にしたいものがあるように、相手もまた自分が大事にしたいものを持っています。
あなたはそこに敬意を払わずにいて、どうして相手ばかりを責めることができるのでしょう?
私たちはそうやって、他者との関係の中で、自分を見つめ直すチャンスをもらっています。
自分とは異なる世界観を感じる事があったならば、相手を責める前にこう思えばいいのです。
「なるほど。この人は、私とは違う世界観を持っているのだな」。
そして「違う世界観を持つもの同士が上手くやるためには、どうしたらいいのだろうか」、と考えてみてください。
また、こんな風にも考えることができます。
「なるほど。今まで無意識だったけれど、私はこういうところを大切にしたいと願っているのだ」。
そして「大切にしているこの価値観を、どうしたら相手に理解してもらえるだろうか」、と考えてみるのです。
もちろん、上記はご自分が試してみたいと思ったら・・・の事。
私が強制することはできません(笑)
ただ私の経験から申せば。
この真理を理解することは、悟りへの大きな一歩となる事でしょうって事。
ヨーガによれば、悟りは唯一無二のものでなく、荒い悟りから精妙な悟りまで幾つもの段階があるのですが、これがその一つである事は紛れも無い事実、と考えます。
自分に自信が持てない人にとって、往々にして自分の世界観よりも相手の世界観を優先してしまう人が多いと思います。
かつての私もそうでした。
アサーションというコミュニケーションのテクニックがあるのですが、それが目指すところは、"You are OK"/"I am OK"です。
あなた(・あなた達)もOKだし、私もOKという状態。
それが私の場合には、"You are OK"/" I am not OK"の状態だったのです。
しかし心理学に出会い、意識的に自分自身の世界観を認めようと働きかけるうち、いかに自分が受動的に生きているのかが分かってきました。
自分の人生なのに、主役が自分じゃないなんて!!
逆に、"You are not OK"/"I am OK"という人達も、世の中には多く存在します。
その手法が攻撃的であろうと、ソフトであろうと、他者を自分の思う通りに従わせようとしたならば、それはまた健全な状態とは言えません。
相手の人生だと言うのに、自分が主役になってやろうだなんて可笑しいでしょ?
「嫌われたくない」と思う人は、かつて嫌われた(と自分がジャッジした)経験が、無意識に制限を創っているのだろうと思います。
もうそろそろ、そんな自分を自由にしてあげてはいかがですか?
そして相手が誰を好きになろうと、嫌いになろうと、それは相手の自由であって、自分にそれをコントロールする必要も、権利も無い事を知ってほしいと思います。
『他人は自分を映す鏡』とは本当によく言ったものと、思いませんか?
鏡に映したあなたの顔に、穏やかな笑顔がありますように・・・!
映利
タイでは9割以上が仏教徒。
といっても、私たちが慣れ親しんでいる仏教徒は全く異なる世界観を持っています。
日本で一般的に知られる仏教(大乗仏教)は、出家せずとも在家信者の誰もが悟りを開けるというユニバーサルなもの。
対してタイの仏教(上座部仏教)は、出家し、あらゆる執着を断った者だけが救われるといいます。
出家は、最大の功徳を積むこと。
しかし出家せずとも、タイ人の信仰の深さは日常生活から窺い知ることができます。
駅を降りて数分歩くと、ビルの合間に忽然と現れる神様。
こちらはエラワン祠。
エラワンはインドラ神を乗せる三頭の像の事ですが、こちらでは四面神のブラフマーが奉られています。
裏に見えるのはエラワンホテル。
こちらを建設しているときのことです。
事故が多発し、建設がままならなかったときに占星術師の勧めでブラフマーを奉ったところ、無事に工事が進んだとか。
インド神話によれば、ブラフマーは宇宙を創造した神様です。
この土地に新たな息吹を起こしたのでしょうか。
そのご利益あって、以後は《願いを叶えてくれる》パワースポットになったそうです。
エラワン祠だけに限らず、祠(ほこら)の前には無数の花売りの屋台があり、そこでは線香や生花、花飾りが売られています。
花飾りは『プアン・マーライ』といって、ジャスミン等の花をビーズのように糸に通して作るそうです。
これらのものを手にとった通行人が、ふらりとやってきては参拝します。
こちらは並木良和先生。
ひときわ熱心に祈祷されています。
お役目中なのです。
祈る姿が美しい☆
エラワン祠の一角には、インド舞踊を踊る女性が常にスタンバイしています。
こちらで願いを叶えられた人が、そのお礼にと、ブラフマーに舞を捧げる依頼をするそうです。
またそこから少し歩くと、今度はガルーダ(霊鳥)に乗ったヴィシュヌ神が。
インターコンチネンタルホテルの前に、まるでオブジェのようにありますが、こちらも祭壇です。
私たちの他に参拝者の姿は無く、それだけに気が乱れていないので心地よい。
思わず、「あー、ここ、好き♪」と声に出してつぶやきたくなる場所でした。
上座部仏教におけるヴィシュヌの働きはどのようなものなのでしょうか?
私はヨーガを通じてインドの神様に慣れ親しんでいるのと、食に興味を持った頃から彼のサポートがついた事もあって、ヴィシュヌとガルーダが大好き。
一緒に行った仲間からも「ここ、なんか好きー」という言葉が聞かれました。
なんだか不思議な場所です。
こちらはラクシュミ。
美と豊穣・幸運を司る女神。
ヴィシュヌの奥様です。
背景をご覧になってもお分かりの通り、こちらも意外な場所にあられます。
ゲイゾンプラザという、ショッピング&オフィスビルの4階。
お手製のドレスに、ときどきお召し替えしているようです。
私が籍を置く『日本ヨーガ学会』では、キールタンと言ってインドの讃美歌のようなものを唄います。
「♪ラクシュミ・マー、ラクシュミ・マー、ラクシュミ・マー、ラクシュミ・マー・・・」と、音階をつけ、ただお名前を繰り返すだけだったりもしますが、お名前こそが最高のマントラ(真言)とも言って、パワーのある音です。
ここでのラクシュミのエネルギーは、優しくも温かく、それでいて気持ちを陽気にしてくれるものでした。
なんだかテンションが上がってきました!!
お供えの蓮も美しい^^
さて、その後もガネーシャに参拝するなどして、タイの1日目はガイドから仰せつかった場所に訪れては参拝し、チャネリングして・・・と過ごしました。
こちらの写真でもお気付きかと思いますが、参拝する場所は人が集まるショッピングモールやホテルなどに点在しているのがバンコクの特徴です。
あえて足を運ばずとも、たとえばバスで前を通り過ぎるときに手を合わせるなど、タイの人にとって信仰は生活の一部です。
この手軽さ、何かに似ている・・・と思ったのですが、それは私がガイドや天使とコンタクトをとるとき。
時々、「どうやって天使などに話しかけますか?」と聞かれるのですが、私の答えは「ねー、ミカエルー(大天使)」です。
チャネラーの中には、『まず手を清めて瞑想し、グランディングを行う。
その後、気持ちが静かになったら「大天使ミカエル様、どうぞ私の御前にお越しください」と願い出る』という指導をされる方もいらっしゃるかと思います。
それは間違えではないし、むしろ正解なのかもしれない。
でも現に「ねーねー」と話しかける私のところへミカエルはやってきてサポートをしてくれますから、私のやり方もあながち間違えではないかと思います。
とは言え、私も常にそんな感じかと言えばそうでないときもあります。
例えば人様のために天使の力を借りるときなどには、タメ語を改め、律して向き合います!!
それは天使のためというよりも、その方が自分がやり易いからという理由ですけれどね。
さて街中から離れ、タクシーで移動しました。
最初に訪れたのは、ワット・ベンチャマボピットのご本尊。
幻想的で美しい仏様でした。
ワット・ベンチャマボピットは大理石寺院と呼ばれ、クラシックなたたずまいはヨーロッパの影響を受けているそうです。
実際、大理石自体はイタリアから運び入れたとか。
美しい寺院の前で仲良く2ショットを撮ったつもりでしたが、並木先生の背後に何者かが(?)写りこんでいましたね(笑)
その後は王宮(グランドパレス)へ。
途中、スコールの洗礼にあい、傘など役に立たないと判断して菩提樹の中へ逃げ込みました。
喧騒を忘れて瞑想でもできるかな・・・と思ったのも束の間。
激しい雨粒が地面に跳ね返って、サンダル履きの足はふくらはぎまで砂だらけになりました(T_T)
すぐにも止むのかと思った雨。
いつまでたっても止まず、このまま樹に絡めとられて、こんな風になっちゃうのかしら・・・と頭をよぎり始め・・・
・・・なわけ、ないか(^^;)
ほどなくして一行は王宮を横目に、ワット・ポーへ。
こちらには有名な涅槃仏がありますね。
期待を裏切らない大きさです。
どのぐらいかと言えば・・・。
このぐらい。右下のカメラを構える女性が小さいでしょ。
お足元まで来ると、こんな感じ。
足の裏側から拝見すると・・・・
足の裏には宇宙が広がっています。
曼荼羅ですね。
せっかくなので裏側へ回り込み、
うなじ、です。
(画面の下中央、光っているのが右の肩甲骨です。)
全長46mあるそうです。
実はご紹介した以外にも参拝して回った場所があったのですが、一番のお気に入りはこちらのワット・ポーでした。
ワット・ポーはバンコクで最も歴史のある寺院。
アユタヤ王朝の末期に建立されたそうです。
ちなみに「ワット」が前に付くのは寺院を表し、アンコール・ワットのように、「ワット」が後に付くのはお墓を表すそう。
本堂のブッダ。
とても煌(きら)びやかで荘厳です。
でも(申し訳ないことに!)私が気に入ったのは何箇所かで見られる門の前の石像。
中国人をかたどったユニークな石像が門番のように配置されているのですが、まるで彼らに案内されるかのように押し進んでいくと、場所場所でエネルギーが変わるのです。
写真の中のみなさまは、ヨーガ(ルーシーダットン)をされているところです。
さて朝・昼とタイ料理を楽しみましたが、夕飯にはフカひれをご馳走になりました。
西影さん、ありがとうございました。
またいつでも、よろしくお願いしますm(_ _)m 笑
つづく。
いかがお過ごしでしょうか?
公私にわたり、悩みを打ち明けられる日が続いています。
率直に言って、嬉しいです。
問題はOnenessへの道。
ピンチはチャンスですから。
一緒に成長への道を進もうではありませんか^^
私、友達の年齢層が広い方かもしれません。
上は27歳年上、最年少では20歳年下です。
先日、その最年少の彼とLINEでチャットしている時、「サイさんは心を許せる数少ない一人」と打ち明けられました。
サイさんとは私のこと。
私、徳の高い事を言ったりすると、手の平を中心に、体中に金粉?が表れます。
そこから「サイババ」というニックネームが付きました(笑)
私に心を許してる?「わー、そんな風に思っていてくれたんだー?」と、ちょっと嬉しくなりましたが、それを機に考えることがありました。
サイさん(笑)に心を許していると言う彼は、いつも誰かの『顔色を見ながら』人と接しているのだそうです。
彼の『心を許せる人』とは、『顔色を見ずに、恐れずにコミュニケーションをとれる人』に結び付くようです。
思いがけず怒られたり不機嫌になられると、もう次からは安心して接することができないから、慎重に相手の顔色を見ながら、
「ここまでは許されるか?」、
「この先はどうか?」と段階を追って反応を試すと言うのです。
なぜここまで詳細に分かったかと言うと、
彼に「心を許しているって、どういうこと?」と確認したからです。
私は職業柄か、こうした言葉の一つ一つを聞き流さずに、その人特有の言葉の”定義”を確認するのが癖になっているようです。
これはとても大きなミス・コミュニケーションに繋がります。
話を聴いた一時は問題なくやり過ごせるかもしれないけれど、それが後々、大きな価値観の差となる危険性をはらんでいるのです。
どんなに近しい関係性の相手でも、多くの場合においてミス・コミュニケーションは発生しています。
それが問題となるか、その時には問題とならずにスルーされるかの違いだけと言ってもいいでしょう。
多くの人が、コミュニケーションの主役は自分であると考えているのではないかと思います。
「自分の考えをどう伝えようか?」
「なんとか上司とうまく付き合いたい」etc・・・
しかし私は、コミュニケーションの主役は自分ではなく、相手であると考えます。
どんなに自分が言葉を尽くしても、言葉の定義が人によって違う以上、自分の思いを100%伝えることは不可能だと思うのです。
だから私が心を配るのは、
「どうしたら相手に自分の考えが伝わるか?」
「上司と率直に話し合うために、どんな方法があるか?」となります。
心理学ではコミュニケーションに占める大きな要素として、言語情報・聴覚情報・視覚情報を挙げています。
それぞれの割合は、言語が1割、聴覚が4割、視覚が5割です。
意外にも、何をどう話すかは僅か1割であり、それよりも話し方や表情、雰囲気等の方が大きな意味を持っている事になります。
昨今、雑談の仕方や、会話が途切れないように、と言ったハウツー本が売れているそうですね。
読んでもいないのに異議を呈すのは早急かもしれないけれど、コミュニケーションに本当に必要なのはそういったテクニックでは無い事を皆さまには知ってほしいと思います。
雑談よりも本筋の話が重要であり、会話が途切れたと言って、それにどんな問題があるのでしょう?
ましてや『雑談』や『途切れない会話』が得意でない自分が、”ダメな人間”であると思う必要などないし、
そうした人を見た時に”あいつはダメな人間”だ、と身勝手にジャッジするような真似は避けるべきでしょう。
とは言え、コミュニケーションの主役を相手とするのは、自分が決めた事に他なりません。
相手から強要されるものでは無いのです。
私の友人は、心を許せるかどうかは相手次第だと思っている節があるのが気にかかります。
でもそれは正しいとは言いがたいですね。
前回のブログで、『物質社会というのは、自分がスクリーンに映し出している幻』であると書きました。
相手の反応と思っているものは、自分が勝手にそう思い込んでいるだけの事なのです。
もし彼が何らかの意図をもって、ごく限られた人とだけ(彼が思うところの)安全に交流していきたいと願うなら話は変わりますが、心を許すかどうかの決定権を持っているのは自分だけです。
彼にとって私が安全なわけではなく、彼自身が安全でいられるのが私の前であるということですね。
数ヶ月前、NHKで『空気が読めない人』について取り上げている番組がありました。
脳の発達障害が起因していると言う事でしたが、仮にそれが正しいとしても、心当たりのある人はそれで諦めてほしくない、と思いました。
私はコミュニケーションについても教えていますが、円滑なコミュニケーションは、知識と技術と練習の結果なのです。
小学生の時に漢字の書き取りをしたり、算数の計算を繰り返ししたように、コミュニケーションもまた誰もが身につけられるものです。
自称・空気が読めない人は、聴覚情報や視覚情報を受け取るのが苦手なのではないか、というのが私の自論です。
日本人は欧米諸国の人に比べ、言いにくい事は『言外に匂わせる』と言われます。
それゆえ快・不快を、それとは気付かれない程度に口調や表情にほのめかすのが日本人の常套手段ですから、それをキャッチするのは、高等テクニックと言えるかもしれません。
空気が読めないと誰かを責めるよりも、空気が読める人を讃えるべきなのかも(笑)。
そうとあれば空気を読む事にエネルギーを消費するよりも、積極的に言語情報を用いてはいかがでしょうか?
あなたが相手の気持ちが分からないように、相手もまたあなたの気持ちは分からないのですから、そこは言語をフル活動してみましょう。
相手が怒るかもしれないと怯えながらコミュニケーションをとるよりも、
相手が喜ぶことをした方が双方にとって有意義でしょう。
したくも無い雑談をするよりも、話したい事を話しましょう。
「早速ですが」と本題を切り出した方が時間の節約となって良いかもしれませんし、
「最近はいかがですか?」と、相手の話したい事を引き出す事で、自分からネタを提供する事態を避けられでしょう。
会話が途切れたのは、その瞬間、自分も話していないけれど相手も話していないと言うこと。
自分だけが悪いと引き受ける必要はありません。
時に言葉は人を傷つける事もありますが、たった一言で誰かを幸せにする事もできます。
自分が相手を傷つける意図を持っているならば、そうしたくなった気持ちを正直に話せばいいのです。
でも意図せず相手を傷つけたならば、それは相手が勝手に傷ついただけの事。
傷つける気持ちは無かったけれど、どうやら相手が傷ついたように見えたのならば、
どうして欲しかった?と、相手の要望を聞くことはできます。
しかしそれを全面的に聞き入れるかどうかは別な問題。
あなたにも自由な意志があるのですから。
相手を大事にするのがコミュニケーションであり、それは自分の意志で行うことを忘れないでください。
自分の意のままに相手を操作するのでなく、双方が歩み寄る事が関係性を良好に保つ秘訣です。
ご参考になれば幸いです。
今日も読んでくださってありがとうございました。
神道映利
『物質社会というのは、自分がスクリーンに映し出している幻』。
4月12日に行った、並木良和先生と行ったトークイベントで、並木先生が仰った言葉です。
前々回のブログでご紹介しました。
物質社会というのは、一般的に言われている「現実社会」と言えばいいかな?
私達一人一人が認知(知覚)しているところの「現実」です。
(1)天気が悪かった。
(2)可愛い子犬が生まれた。
(3)夫と口論して落ち込んだとか、そういうもの。
でも、それがなぜ『スクリーンに映し出した幻』なのでしょう?
それは出来事と共に、自分の内面を重ね合わせているからです。
自分の内面とは、思い込みや感情、自分に都合のいい(または、都合の悪い)解釈などです。
出来事とは客観的な事実で、誰が見ても明らかなこと。
上記の例で言えば、
(1)雨が降った
(2)子犬が生まれたとか
(3)夫と話した、という部分です。
そこに自分の内面が重ね合わされると、無意識のうちに解釈が加わってしまいます。
それが『映し出した幻』です。
(1)雨を心待ちにしている人にとって、雨は「悪い天気」とは思えません。
(2)犬が苦手な人にとっては、子犬が「かわいい」とは思いにくいでしょう。
(3)夫にしてみれば、妻と心ゆくまで話し合いの場を持てた、と満足しているかもしれません。
大部分の人がこの仕組みを理解していないので、自分が映し出した幻によって、苦しんだり喜んだりしているのです。
(4)上司は私を嫌っているから、私の仕事ばかり入念にチェックする。
(5)あの人はいつも余計な事ばかりする。
(6)私が話し出すと、みんなのテンションが下がる。
これらも「出来事」と「自分の内面」を切り分けてみると、自分がどんな現実を映し出しているのかに気付くことができます。
(4)あなたの仕事は、残念ながらミスが多いのかもしれません。
上司はそんなあなたをカバーし、小さなミスが大きなミスに繋がるのを未然に防ごうとしてくれているのかも。
(5)あの人は、あなたとは違う価値観を持っているのです。
何を大切にするか、何を優先するか、それは単なるあなたとの違いです。
それに問題があるのならば、価値観を共有し、互いに善処する努力をすればいいだけのことでしょう。
(6)あなたの話し声が小さいのかもしれません。
それでみんなは聞き耳を立てる必要があるため静かになるのであって、テンションが下がっているわけではないのかも。
あなたの話をよく聞きたい。ただそれだけである可能性があります。
『映し出す現実』は、こうして自分の内面によって、全く違ったものへと変わります。
何もかも、自分の都合のいいように変換しましょうと言うのではなく、出来事は「ありのままに受け取る」癖をつけていくことをお勧めします。
そうすることで、問題と思える事に遭遇しなくなってきます。
問題は、実は自分が作り上げたものだからです。
問題の無い生活にシフトすると、自分の内側の平安に繋がります。
あなたが平安でいる事は、あなたの周りの人にも伝播します。
あなたの存在が、誰かの癒しへと繋がるのです。
こうして過ごすことで、自分の感情が無くなるという訳ではありません。
楽しんだり、喜んだり、怒りたくなったり、悲しくなったり、それらは失われません。
ただ、それまでの激情的な反応とは異なるでしょう。
自分の中に平安があるときには、自分がとても大切に感じられます。
それは何にも変えがたいギフトであり、Onenessに一歩近付く、霊的な成長の過程だと私は考えます。
Oneness(ワンネス)とは、辞書で引くと
『単一性,統一(性),同一性,不変性』『(思想・感情・目的などの)一致,調和』とあります。
宗教でも、神と自分は同一のもの、と説いているようです。
神と呼ぶのか、創造主と呼ぶのか、サムシンググレートと呼ぶのか、呼び方はそれぞれ異なるでしょうが、言ってみれば『源』の存在で、それを『宇宙』と呼ぶ事もあります。
私は宗教について明るくないので、ヨーガから説明したいと思います。
ヨーガはそれ自体が、1つの哲学を持つ宗教のようなもの(=生き方の指針)です。
一般的に知られるアーサナ(ポーズ、坐法)は美容や健康促進の為のものと思われていますが、それは過程であって目的ではありません。
アーサナを通じて悟り(サマディ)を開く事、それがヨーガの目的であり、悟りとは源と一致する事にあります。
神と一致するための方法はアーサナだけにあらず、瞑想(ディヤナ)や他にも方法が示されていますが、現世は生まれてきた事自体が修行ですから、何もヨーガをしなくても、宗教に傾倒しなくても、日々の生活によってOnenessへの道はすべての人に開かれています。
やってくる問題は、それ即ち、試練だと思うのです。
試練は、乗り越えられる時にやってくるのだと私は考えています。
だから試練はやり過ごすのでなく、正面から向き合うべきなのです。
私はこれを、『ピンチはチャンス!』と呼んで、ブログのタイトルにもなっています。
前半に書いた、『映し出す幻』を意志の力で変えていく事もまた、0nenessへの道です。
幻の世界の中にいたまま解決していこうと思えば、それは残念ながら一時しのぎにしかならないでしょう。
本当に問題が解決した時には、1つの問題だけでなく、一見すると無関係であると思った問題まで、時には問題であることに気付いていなかったものまでもがふわ~っと昇天していくものです。
「1つの問題が片付いた。しかし、まだまだ他にも問題は残っている」という事にはなりません。
数年前に並木先生のリーディングを初めて受けたとき、「あなたは悟りを開いた」と言われたのを思い出しました。
その時にはスピリチュアルな生き方についても、ヨーガも学んでいなかったので、
「すごい!私、悟ったの!?お釈迦様みたい!」と、内心ドキドキしながらほくそ笑んだものです。
しかしヨーガを学ぶにつれ、それはぬか喜びだったと知りました(笑)
悟りにも、幾つもの段階があるのだと今は分かります。
最初は、粗い悟り。
次第に精妙な悟りへと成長し、上限はない。
上限が無いと知ったときには、果てしなく遠い未来を見たようでガッカリしましたが、そう思う事自体が粗い気付きである事も、徐々に分かってきました。
上限が無いということは、どこまでも進化する可能性を秘めているという事です。
進み甲斐があるってものです!
ただ、「粗い」とか「精妙」という意味が良く分かりませんでした。
でもチャクラについて勉強するうち、それも理解が進みました。
チャクラは・・・。
・・・ごめんなさい、どこまでも話が広がっていきそうなので、この話は今日のところはやめておきましょう。
私がカウンセラーをしているのは、前述の通り、日常の問題が悟りを開くチャンスであることに気付いたからです。
試練を(本当の意味で)乗り越えるとき、誰かの導きや、後押しがある事は大きな力となります。
そして私は、人が試練を乗り越える事によって様変わりしていくのを見るのが極上の喜び。
小説とか映画とか、フィクションの物語では得られない感動があります。
そしてこの仕事が、今世の私のテーマでもあります。
ガイドからもたらされる叡智やクライアントさんから教わるたくさんの事を、私の知識と経験を通して、これからもブログやワークショップでシェアしていきたいと思っております。
この2年程は『食』への興味から、カウンセリングやワークショップから遠ざかっていましたが、またこちらへの比重を増やしていく予定です。
お知らせしていませんでしたが、ヒーラーの活動も再開しています。
本も出したいのですが(そしてガイドも出版するように言ってくれているのだけど)、なぜか立ち行かずにいます。
何度か出版社の方からメールは頂くのですが、営業色が濃く感じられてピンと来ないのです。
私が、私の今世の仕事を成し遂げていく上で、(協力だけでなく)手伝ってくださる方がいらっしゃいましたら、どうぞご連絡くださいませ。
カウンセリングの申し込み、ワークショップのリクエスト、ヒーリングのご依頼、本の出版 etc・・・。
何ぶん、思いやアイディアは豊富にあっても、形にする事や実行する事が苦手な性分です。
ワークショップは、
★心理カウンセラーとして
自分と他者を理解するための心理学/コミュニケーションの技術/グループ・カウンセリング/催眠療法/メイクセラピー(化粧療法)/メイクアップ・レッスン
★スピリチュアル・カウンセラーとして
チャネリングの仕方(天使やガイドと繋がる方法)/オラクルカード、ペンジュラム、パワーストーンの使い方/女神のアチューンメント(ガイドに、二人の女神を追加)/お話し会
★ヨーガ講師として
ヨーガ(アーサナ、哲学等)/姿勢チューニング(オリジナルの姿勢改善)
★ヒーラーとして
エネルギー治療、心身・チャクラ・オーラのヒーリングの仕方/レイキヒーラー育成(アチューンメント)/アトランティス・ヒーリングの方法伝授
★ナチュラルフードコーディネーターとして
料理教室
・・・等を提供することができます。
一見すると、幾つもの職業を掛け持ちしているように思われるかもしれませんが、私の中では1つのもの。
すべてはOnenessを目指す人への、異なるアプローチです。
心理カウンセリングする上で霊能力を使わずにいる事は出来ないし、ヨーガをお教えする時にはガイドの言葉をチャネリングしながら行いますし、催眠療法も取り入れます。
料理をする時には、元料理人のガイドがアドバイスをくれるし、食材をヒーリングのテクニックで浄化したり波動調整も行います。
心理カウンセラーに相談してみたい、霊能者に会って守護霊からのメッセージを伝えてほしい、ヒーリングに興味がある、ヨガもやってみたい、料理も好き・・・という方は、あちこち行かずとも、Oneストップでお望みを叶えられるかもしれません(笑)
さて、最後はお願いとなりましたが、今日も読んでくださってありがとうございました。
このGWに、あなたに最善の贈り物がありますように。
神道映利
今日も前回の記事の続きです。
『魂のテーマを再確認(2)』は⇒こちらからお願いします。
4年前、サイキッカー、並木良和先生のスピリチュアル・カウンセリングで、
「スピリチュアルなことを世の中に広めること」が今世のテーマだと告げられた私。
その1つとして、自分がサイキッカー(霊能者)であることを公表することにしました。
そして迎えた2012年12月21日。
地球は「アセンション」のスタートを切りました。
アセンションとは人類だけでなく、地球ごと、もっと高い次元に上昇することです。
これまでの世界は、二元論で語られてきました。
正と悪、男と女、勝つ・負ける、光と闇、与えてばかり、奪ってばかり・・・というように。
しかし私達は、元々は同じ一つのものであったと言います。
次元上昇していく過程で、私達は「分離」したものを「統合」していく生き方を学んでいきます。
これまでの男性性の強かった社会に慣れた私達にとって、これから創られていく女性性の強い社会へのシフトには様々なハードルがあり、その過渡期である今、色々な事件や出来事が起こっているかのように見えます。
しかしそれは一時のことであり、「統合」への道の途中であることを知っていれば恐れる必要はありません。
起こる事の解釈は、社会に任せるのでなく自分自身でしていく。
それも「統合」のプロセスかと思います。
私が人から「怪しい」と思われたくはないからと、自分が霊能者であることを隠すことは、自分の本質を眠らせること。
それは「分離」にあたります。
私達が今世を選んで生まれてきたのは、物質社会にいながら心(魂)を次元上昇(成長)させていくため。
私が霊能力を眠らせずに生まれてきたのは"スピリチュアルに生きる"ことを選択してきた結果だと思うのです。
そうであるからには、テーマ(=使命、宿命)を全うせねば。
けれど私、自分のことは棚に上げ、スピリチュアルに偏った人のテンションに付いていけないことがあります。
初めてお会いした自称・スピリチュアルな人に、「あなたとは前世でエジプトで会ったことがあるかもね!」などと言われると、「かも、って??」。
なぜ「会った」か「会わないか」断定できないの?と、いぶかしく思ってしまう。
また友人から、「ある人が、急に宇宙語を話し出したの!」と聞けば、「あなたはそれが、どうして宇宙語だと分かったの?」と、事実確認する事に心が動いてしまう。
ネットには預言者とか、神様の生まれ変わりと名乗る人が数多くあふれているようだけれど、知らない人の情報には興味が惹かれないし、自分で見たもの、信頼できる情報筋の話でなければ鵜呑みにすることはできない。
そんなことがあって、スピリチュアルな仲間からは「左脳派サイキッカー」とか「理論的サイキッカー」と揶揄される始末。
でも自分自身、そうでありたいと思っているのです。
私には物質世界と精神世界の両方が必要で、程よいところでバランスをとっていたい。
かと言って「スピリチュアルな事は、量子学で証明できる」といった事にも興味が惹かれません。
すべてを説明できるほどには科学は発達していないと分かるし、そもそもスピリチュアルな事象を、なぜ科学で証明しようとするのか、その理由がわからない。
とは言っても、並木先生の体験など、信用できる仲間の非日常的な話は信じますよ。
真実の話は聞いていると、自分でもありありとイメージできるんです。
それに疑問が湧かない。
フィクションはダメ。左脳が働き出して、心に入ってきません。
私の霊能力は霊知がメイン。
心に届く話は、「知ってる」という確証があります。
今週、その「知ってる」と強く思った出来事がありました。
それは並木先生のスピリチュアル・カウンセリングでの出来事。
並木先生のカウンセリングでは、最初に「ガイドさんにご挨拶しますね」とチャネリングするところから始まります。
そしてガイドからのメッセージを伝えてくれます。
「みんな、それぞれに(魂の)役割ってあるでしょ?
えりりんの場合には、”スピリチュアルなことを表現するために生まれた”ってガイドが言ってる」と並木先生。
「それも、スピリチュアルな事ってフッツーのことなんだって、表現することなんだって。」
フッツーの事って言うのは、普通の事という意味なのですが、スピリチュアルな事を表現するのに、スピリチュアル・カウンセラーになるとか、スピリチュアルな事をやっていますと、スピリチュアルな職業に就く必要はないそうです。
「もちろん、それがやりたければやってもいい。
どこで何をしていても、”スピリチュアルな生き方をしている”ことを実践してください。
そうしてあなたを見た人が、”なんだかステキな生き方だな”とか、”おもしろい考え方だなぁ”等と思って影響を受けたり、真似してみようと思ったり、相談に乗ってもらおうと思ったり、そういう存在で在るように」って。
4年前、会社を辞めようと思っているとき、並木先生に「私に向く職業は?」と相談したとき、「えりりんは何をやってもいい」と言われた意味が、最近ようやくわかってきたように思います。
何をしてもいいと言われると、かえって迷ってしまうものです。
選択肢は少ない方が楽だから。
けれど並木先生は、「えりりんの場合には、職業は一度に一つでなく、幾つも掛け持ちしてもいい」と仰います。
それに従ったわけではないけれど、現実に今、私は幾つもの仕事を掛け持ちし、自分自身を満たしています。
今週のカウンセリング。
並木先生の言葉は続きます。
「現実世界とスピリチュアルな世界を融合、統合する、と言った方がわかるかな?
それを聞いてどう思います?」と並木先生。
「ものすごく、納得です」と私。
先生は気付かなかったかもしれないけれど、私、名刺にも、このブログにも「心理カウンセリングとスピリチュアルな力の融合」と謳っているんです。
それはまさに、現実世界(=物質世界)とスピリチュアルの融合を指しています。
だって左脳派サイキッカーの私には、どちらも必要なことなんです。
物質世界に居続けることは、眠りながら生きる事だと聞いたことがあります。
でも3次元の物質世界に生きている私達が、足元の生活をないがしろにして、5次元、7次元、9次元を目指すだけの生き方を選択するのは早急すぎてはいないかと思います。
物質世界に生きながら、日々起こる経験を、3次元レベルから抜けた高次元レベルの解釈をしていくこと。
それこそが現代を選んで生まれてきた私達の”成長の進め方”なのではないでしょうか。
だから、「融合」なんです。
ただ1つだけ付け加えておきます。
これは並木先生の受け売りですが、"3次元にとどまって生きる人"と”高次元に移行しようとする人”がいるけれど、どちらか一方が劣っているわけでも優れているわけでもないのです。
優か劣か、そういう考え方も「分離」なんです。
”3次元にとどまって生きる人"は、それを選択して生まれてきています。
”高次元に移行しようとする人”もまた、それを選択して生まれてきているだけ。
魂のテーマに個性があるというだけのことなのでしょう。
私のブログを読みに来てくださっている方は、後者の魂です。
そうでなければ私のブログは無意味なものでしょう。
磁石のように私とあなたの波長が引き合うからこそ、このご縁が生まれました。
今世、魂の成長を目指している者同士です。
私は私にできることの一つ、ブログを書くことを通じて、自分のテーマをなぞっていきます。
また私には”ティーチャー”としての役割があります。
私が経験したこと、学んできたことをブログやカウンセリング、ワークショップなどでシェアしていく事がそれです。
私が使命を果たせるよう、どうぞ今後とも応援をいただければ幸いです(^^)
一緒に進んでいきましょう、スピリチュアル・ライフを!!