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スピリチュアルな力を持つメンタル・カウンセラーeRi
★顔・心・体を通じて魂の成長をサポートする活動と日常のできごと。

True Colorsを見つけるためのセッション


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自分に付けるタイトル

2016年01月30日 | 日常のできごと

伯父が亡くなりました。

菊の花が大好きだったそうです。

お正月に古い写真を整理していたとき、彼の屈託のない笑顔の写真が目に留まりました。

そしてなぜだか、目を離すことができませんでした。

私が生まれる前の、若い頃の彼。

まだ20代だったのかな。

それから数えきれないぐらい色々なことがあったであろうけれど、彼を思い出すときにはいつもこの笑顔しか思い浮かびません。

私と同い年の男の子がいたけれど、10歳を迎える頃に闘病の末、亡くしました。

そんな経験をしてもなお、またあの笑顔で人と接することができたのは、彼の強さであり、哀しみの表れだったのかもしれません。

 

 

2週間程前。

入院先の病院で体調が悪化し、医者から「ここ2-3日が山です。覚悟をするように」と言われたと、伯母から電話がありました。

集中治療室に入っていて、家族であっても面会が出来ない。

もうお坊さんも手配したから。

だからお見舞いは来なくていいよ、と。

 

 

連絡をもらって2日後。

「今日なら会える!」

朝からそんな予感がして、両親と叔父・叔母を伴って病院へ向かいました。

すると、まだ予断は許さないけれど、面会も可能とのこと。

ベッドに横たわり、眠っている伯父。

みんなに「話しかけてあげて」と促し、思い思いに声を掛け始めると、反応が見られました。

少しだけ首を動かし、懸命に目を開けようとする。

何か言いたいのか、顎を動かすけれど声にはなりません。

私は見舞っている間、彼の肩に触れてヒーリングを行いました。

ドクドクと、ものすごい勢いでエネルギーが流れていき、次第に頬に赤みがさしてきました。

「もっと生きたい」という反応なのかな?

そう思うと同時に、「もう逝きたい」と思っているとしたならば、私はヒーリングしていいのだろうか?と疑問も湧きました。

特に伯父のガイドに聞いてみようという気持ちにもならず、ただ姪の立場として「生きて欲しい!」と願った私は、帰ってからも遠隔でエネルギーを送りました。

 

 

それから2日後。

伯母から電話があり、伯父がすっかり元気になったと朗報を聞きました。

よかった。

眠っているよりも、彼には断然笑顔が似合う!

彼の屈託のない笑顔は、周りもつられて笑顔になってしまうほど。

笑顔の力は大きい。

 

 

しかし、また突然体調を崩した伯父は、伯母に見守られながら天国へ旅に出たのです。

 

 

折りしも先週。

(毎度おなじみ)並木先生の個人セッションがあったので、ヒーリングについて聞いてみました。

「伯父にヒーリングしたのだけど、そうしながら、もしかして、もう逝きたいと願っているんじゃないかって思ったの。そういう人に対して、私はヒーリングしてよかったのかな?」。

並木先生の答え。

「ヒーリングは、(※ヒーリーの)最善を引き出すためにするんだよ」。

※癒しを与える側をヒーラーとした時、ヒーリーとは、癒しを受ける側。

 

 

 

私は自分で言うのもなんだけど(笑)、卓越したヒーリングの力を与えられたと思っています。

そしてこの力は、神様からのギフトだと思っています。

今まで数えきれないぐらい大勢の人の心身のケガや病気の治癒に努めてきたけれど、この力がどこから来て、どのように作用しているのか、今まであまり考えたことはありませんでした。

私はただ力を使うだけで、考えるのは私でなく神様の方だと思っていたから、深く考える必要性を感じていなかったのです。

ただ漠然と、ヒーリーの自然治癒力を高めているのだろう、と思うぐらいで、作用の仕方はヒーラーが意図するものでなくヒーリーが決めるものとし、無心でエネルギーを送るのを好んでいました。

でも並木先生の「ヒーリングは最善を引き出す」という一言は、これまで私がうやむやにしてきたヒーリングの行為に、確固たる目的を与えてくれたように思います。

 

 

このように日常の行為や、自分の信念、価値観など、自分にとっては当たり前の事をあえて『言葉』にすることはとても重要です。

無意識のものを意識化するのです。

言葉にすることで、まず誰かに伝えやすくなり、理解や共有化するのに役立ちます。

また意識化するとそれがきっかけとなり、進まなかった思考や行動が動き出すことに繋がることもあります。

こうして無数の目に見えないものを言語化した集大成に、『自分』というものが確立するのかもしれません。

 

 

私の伯父は、『底抜けに明るく、笑顔の人』でした。

明るく振舞えないときも、笑顔になれないときもあったでしょうけれど、結局のところ、彼の本質を取り上げることはできなかっただろうと思います。

この先、何年経っても、少なくとも私は彼をそう呼び、讃え続けると思います。

この言葉(タイトル)は、彼の生き様であり、彼が生きた証です。

亡くなってもなお、彼の笑顔は私を楽しい気分にしてくれるのですもの。

出会えたことに感謝します。

おじさん、ありがとう。

 

 

さて、あなたはこの人生をどのように生きますか?

あなたの生きる様がタイトルになるとしたら、あなたは何と呼ばれたいでしょうか?

呼ばれたいように生きてみる。

これもまた真理であろうと思います。

 

 

え?

私?

「変わらず、変わり続ける人」かな。

それとも「生き生きと、チャレンジをやめない人」?

今夜、寝ながら考えてみようと思います。

 


これまでのやり方を変えることは、自由になるということ

2015年10月14日 | 日常のできごと

長きにわたってブログをお休みしておりました。

いつも楽しみにしていてくださる皆様、お待たせ致しました♪♪

季節はすっかり秋に変わりましたね。

自宅の建替えのため、仮住まいに転居して1カ月。

準備から引っ越し、その後の片付けなどで忙しい日々を送っておりましたが、ようやく・ようやく落ち着いてきました(泣)

来年春には自宅の一部をつかって、地域に開かれたコミュニティ形成の場をオープンする予定です。

そこでカウンセリングをしたい。

ヨガをお教えしたい。

料理教室を開きたい。

起業する人たちがチャレンジするためのスペースを提供したい。

地域で埋もれている、才能や趣味を持った人が活躍する場をつくりたい。

そして自分の人生を肯定し、生き甲斐の創出に繋げたい。

孤食児童、孤食高齢者等がみんなで料理を作ったり、一緒に食べる場をつくりたい。

趣味の料理をみんなにふるまいたい。

横浜産の新鮮な採れたて野菜を、ご近所さんにお分けしたい etc.

 

 

提供したい事がありすぎて、何年かかっても事業計画がまとまりません(笑)

しかし、いよいよそうも言っていられなくなってきました。

設計士さんに、「そろそろ考えをまとめて頂かないと・・・」と何度目かの催促のお言葉をいただいております。

さてさて、どうしたものか・・・。

 

 

一方で、来年忙しくなる前に、もう一度心理学を学んでおこうと思うに至り、某協会のセミナーのアシスタントとして関わっております。

数年前、自分が受講生として学んだ時には耳に入らなかった細かな解説や、講師のプラスαの言葉が、とても大きな気付きを与えてくれます。

対人援助の道に進んだとき、最初はヒプノセラピー(催眠療法)を通じて心理学を学び、その後メイクセラピー(化粧療法)で学んだわけですが、ちょうど時同じくして、図らずともスピリチュアル・カウンセラーになってしまった私には、両者が全く真逆に位置するようなものと思ってしまいました。

心理学に基づく心理カウンセリングの、そのベースにあるのは傾聴です。

私のセッションは日本で主流の『傾聴によってクライアントさん自身がやがて気付きを待つやり方』ではなく、カウンセラーが積極的に『クライアントさんの潜在意識へと介入するテクニックを駆使する』方法をとっていますが、それでも最終的に問題を解決するのはクライアントさん自身です。

一方でスピリチュアル・カウンセリングというのは、「ガイドがこのように言っています」と、カウンセラーが答えを差し出すもの。

この真逆であるがゆえのギャップが相容れず、そうは言えど、両方無ければ私のセッションは成り立たず・・・と、長年にわたってすっきりしない気持ちで疑問を維持してきました。

 

しかし今、アシスタントという立場ではあるけれど、再度聴き直す心理学の授業では大きな発見でいっぱいです。

というのは、人が抱える問題には幾つか層があり、このタイプの問題はこの層。

このタイプの問題は次の層・・・と、カウンセラーが問題を焦点化し、それにあったアプローチをしなければ効果的な援助はできない、と明確になっているのです。

現役で受講していたときに聴いていただろうに、すっかりスルーしてしまっていた。

さらに、問題のトップはこの層にあり、これにはこういうアプローチをせよ、と講師は言います。

問題のトップ。

それは「スピリチュアル」な部分。

スピリチュアルと一言に言っても、いろいろな意味や使い方がありますが、私が扱うのはオカルトや神秘という意味ではなく、あくまでその人自身の世界観や哲学に触れるようなところ。

それを霊能力を用いて介入するというのだから、ちょっとややこしい話ですね。

いま学んでいる心理学のスピリチュアルな部分へのアプローチは、私がセッションでガイド達から授けられる”たった一言で現実を180度変えてしまうような”高次元から見るメッセージと同じであることに気付いてしまいました。

この発見?(解釈)により、私が相反するような二つを繋いでいたと思い込んでいた独自のアプロ―チが、全く自然な一つの流れであり、且つ効果的なものであることを確信したのです。

 

 

もとより心理学は、オカルトや超常現象、目に見えない心や気持ちを解釈するために生まれた学問。

日本で広まったユング心理学などは、ヤバいぐらいスピリチュアルなのに、上手に不可思議なところに触れずに学問として定着したもの。

心理学だけでなく、科学や物理もそうですが、突き詰めていけば証明や解釈ができない世界に触れるのは明白なのですよね。

 

左脳人間の私は、周りで起きる不思議な現象や世界を、多くの人に、できるだけ分かり易く説明したいと願うあまり、「ただ起きていること」を、「いかに起きているか」の視点に変換してしまうクセがあります。

しかし良く考えれば、「いかに起きているか」等と考えることは、「ただ起きていること」を説明するには幾ら言葉を用いても、まったく説明に不十分である気がします。

私もそろそろ自分で作ったしがらみを解いて、徹底的に右脳人間に戻る時なのかもしれません。

余談ですが、こうして今までプラスに働いていたやり方や価値観は、上手く作用しなくなったときには作り変える事ができます。

例えば昼間寝て、夜に勉強する方がはかどると思っていた人が、近頃は夜中に眠くなって勉強が進まないと悩み出したとします。

これまで夜勉強する方がうまくいっていた訳ですから、それはいいアイディアだったわけです。

しかしその手法がうまく働かなくなってきたと言うならば、夜は睡魔と闘うのを放棄して、いっそ早くに寝てしまってもいいのです。

その代わりに早朝起きて勉強するも良し。

昼間しっかり勉強するも良し。

あるいは長時間勉強する習慣をやめて、短時間に集中するやり方を選んでもいい。

悩んでいる時には解決策など無いかのように思いがちだけれど、ひとたび目を向ければ無限の別な策がある事を知っておく事は自分を楽に、自由にしてくれるものです。

 

さて私。

社会で生きていくために身につけた左脳的な考え方をするクセ、それをとっぱらって右脳人間に戻ることを認め始めています。

折しも今月末から、私が愛してやまない並木良和さんのワークショップが開催されます。

理詰めでなく、右脳で体験する喜び。

そちらを選択してみようかな。

そうするために、いっそメモをとるのをやめてみようかしら。

 

ワークショップは、チャネリングの仕方を人に教えるためのマスタークラス。

来年春にオープンする自宅の”何でも屋のスペース”で、みなさまにもシェアできるかもしれません。

しっかり学んでこなくちゃ!!

・・・いやいや、楽しむんだった(笑)


子供の感性から学んだ夜

2015年03月30日 | 日常のできごと

昨夜テレビを点けると、3.11の地震と津波を経験した中学生にスポットをあてた番組がやっていました。

3.11があったとき、生徒達はまだ小学生。今は中学3年生になりました。

担任の先生が「命と向き合う教室」と名付け、生徒は作文を書きます。

みんなに知らせてもよいと承諾を得て、先生が一人の生徒に、自分が書いた作文をクラスみんなの前で読むよう促しました。

その生徒(仮にA君とします)は津波によって、目の前でお母さんとお姉さんを亡くしました。

お姉さんがお母さんを助けようと懸命になっているとき、自分は足が動かず何も出来なかっと作文の中で打ち明けました。

津波で家族を失った事を、A君はクラスメートに話していなかったそうです。

彼はこの4年の間に、「死んだのがお姉ちゃんでなく、自分だったら良かったのに」と繰り返し考えてきたと言います。

自分は生きていても、誰の役にも立てない、というビリーフ(思い込み)を作ってしまったのです。

 

 

観ていて、私は涙が止まりませんでした。

今は中学3年生となったとは言え、私から見れば彼らはまだ”小さな子供”です。

その小さな心でいったいどれだけの苦痛を味わい、悲しみを受け入れ、そしてどのようにして涙を拭き日常に戻ってきたのだろうと考えると、胸が張り裂けるような思いでした。

私は対人援助者の道に進み、3.11の後には無料でカウンセリングする等、出来る事で貢献しようと励みましたが、他にすべき事があったのではないか?

大人よりも子供をケアすべきだったのではないか、と一抹の後悔の念を抱きました。

阪神大震災があったとき、私はまだカウンセラーではありませんでしたが、災害時のメンタルケアについて興味を持ち、独自に著書やレポートを読んでいました。

その後カウンセラーとなって学ぶうち、子供のトラウマは大人のそれとは異なる構造を持って形成されることを知りました。

今でも忘れられないインタビューがあります。

阪神大震災で母親と弟を亡くした(当時)小学校高学年の女の子は、数年経った後のインタビューで初めて心の内を吐露しました。

地震があった前夜、彼女は弟と、些細な事で兄弟喧嘩したそうです。

そして仲直りする前に、地震に遭ったのです。

インタビューで泣きながら彼女は答えていました。

「私が悪い子だったから、天罰が下ったんだ。私のせいでお母さんと弟が死んでしまった」と。

子供はこうして、大人から見れば理不尽とも言えるストーリーを作り上げ、自分を責める形で原因と結果を結び付けしまう傾向があります。

また子供は心の内を説明するに十分なボキャブラリを持たないこともあって、そばにいる大人さえも気付いてやれない苦悩を抱えていることがあります。

だから心のケアは、大人に対するものと子供に対するものとでは全く違うアプローチが必要なのです。

 

 

 

A君が作文を読み上げた後で、その感想をクラス全員が作文に綴ります。

そして次の「命と向き合う教室」で、今度は別の生徒が自分の書いた作文を読み上げました。

 

 

「A君ちに遊びに行った時の帰り道、一緒に行った友達と、A君にはお母さんがいないんじゃないかって話しました。

遊びに行ったとき、お母さんが出てこなかったし、仏壇に、お母さんらしき人の写真があったからです。

でも僕はそれをA君に確かめることはできませんでした。

なんだかわからないけど、A君に申し訳ないような気持ちがしたからです・・・」

 

 

ここでまた、私は号泣。

子供は子供なりに、最善と思える配慮をして友達と接しているのです。

人の思いやりや気遣いは、いつから育まれるものなのでしょうか。

精一杯の気遣いと思いやりでA君に接している生徒の姿に、私は感動しました。

 

 

 

一方で、両親を津波で失った女子生徒。

祖母に引き取られ、明るく元気に活発に過ごすが、教師達が話をしようとすると「大丈夫」と言って、心に触れられるのを拒否し続けてきた生徒。

A君の作文に触発されて、初めて心の内を作文にぶつけます。

繰り返し、両親が夢に出てくること。会いたくてたまらないこと。

人知れず、一人で泣いてきたこと。

誰にも助けて、と言えなかったこと。

助けを求めることは、迷惑をかけることだと思っていること。

人に迷惑をかけるのは絶対嫌と思っていること。

 

 

 

彼女を見ていて私が思ったことは、「強さは脆(もろ)さの裏返しである」という事。

表面的な立ち振る舞いや言動だけで人を判断することは、とても危険であるという事。

これまた余談ですが、カウンセラーの資質で私が最も大事にしていることは『自己一致』です。

ネットで引けば、もっともらしい文章で説明されていますが、知識として理解できていても実践できている人はごく僅かです。

簡単に申せば、「あるがままの自分」を認め、尊重できているか、という事。

本来、人は一人であるからして、ただ一つの人格で構成されていると思われがちですが、「本音と建て前」に代表されるように心の内側は複雑です。

「ペルソナ仮面)」とは、社会に適応するために役割に応じた姿で、母としての自分、妻としての自分、嫁としての自分など、その時々に合わせて自分を使い分けて表現していることを言いますが、そこからも見えるように、私たちはとても器用で、良くも悪くも計算高くもあります。

20年以上も前に読んだ中に、『24人のビリーミリガン(ダニエル・キース著)』という本がありました。

今で言う「解離性同一障害」、昔で言う「多重人格」ですが、幼少時の虐待を機に一人の肉体に24人もの人格が出来上がっていったという実際にあった話を物語にしたものです。

24人の人格の中には、男性あり、女性あり、大人あり、子供あり、国籍もバラバラ、話す言語も異なり、趣味や特技さえ異なります。

解離性同一障害は実に興味深いもので、複数の人格はまるで電気のスイッチをON/OFFするかのように切り替わり、切り替わった時には、他の人格を記憶していないのが一般的です。

様々な言語や趣味、特技を持つことは、ビリー本人さえ知らないうちに(別の人格のときに)学習されたものです。

ただしカウンセラーのサポートで治療を続けていくうち、”すべての人格について知っている人格”が存在していることが明らかになる事があり、その人格を見つけるのが治療の第一歩であると言うのが20年前の定説でした。

ビリーの場合には、24人を統括する人格は、アーサーという男性だったように記憶しています。

治療には、アーサーがカウンセラーに協力する形で、人格の統合が進められました。

・・・と、だいぶ脱線しましたが、自己一致とは、このアーサーになり得るようなものだと言っても良いかと思います。

 

 

色々なペルソナや、本音やら建て前やらある中でも、それらを自分の意思で作り出したり、演じている事を理解し、必要とあらばそれらをコントロールすることもできる。

つまり、絶対的な自己理解を持って、行動することが自己一致です。

ただしこれはあくまで3次元の世界での振る舞い。

もっと高い次元から見れば、その時々で使い分ける事も必要なく、自己は一致させるものでなく、唯一の自己として存在するよう促すのがアセンションの流れかと思います。

 

 

「命と向き合う教室」では、他にも「死にたい」と思っている女子生徒の作文も紹介されました。

両親が離婚し、新しいお母さんがいる家の中に自分の居場所が無いと言うのです。

そして家に自分がいることが迷惑をかけていると。

霊視してみると、それは彼女の思い込みであるのがわかりました。

両親の離婚が子供に与える影響が大きい事は言うまでもありませんが、だからと言って死を選ぶことは乖離した解決の方法です。

深い悩みを持っているときには、黒か白かといった両極端なところに意識が向かいがちですが、その間にある灰色のグラデーションの濃淡の数だけ解決のバリエーションがあることを私たちは知っておく必要があります。

言うまでもなく、離婚を思いとどまる事が最善策でもありません。

 

 

とても感慨深く感動的な番組で、もっといろいろシェアしたいところですが、今日はこのあたりでとどめておきますが、最後に1つだけ。

私が日本人にあればいいのに・・・と思うこと、それはハグです。

「命と向き合う教室」でも、子供たちや先生から「なんと声を掛けてあげればいいか分からない」「言葉が見つからない」と聞かれました。

気持ちを言葉にするのはとても意義のある事ですが、言葉は発した瞬間から、受け取った人の感性でキャッチされるもの。

発した側の意図が伝わらないケースもままあります。

もちろんその逆もあるわけですが。

「なんと声を掛けていいかわからない」。

だから声を掛けない、とあっては、伝えたい気持ちが行き場を無くしてしまいます。

そんなとき、ただハグするだけで伝わる場合があります。

ハグするのが気恥ずかしいのであれば、手を握る、目を見てうなずく、背中の中心を上下にさすってあげる、といった事もできます。

またその瞬間には出来なくとも、あとで気持ちを伝えることもできます。

時を逃して今更言いづらい、と思いがちですが、心を伝えるのに時間は関係ないと思います。

相手を思う気持ちを優先したいものです。

そうそう、こちらの番組のエンディングは生徒の卒業式でした。

両親が離婚し、死にたいと言っていた女子生徒も映し出されていましたが、そこには新しいお母さんもお祝いに駆けつけており、女子生徒自身もとても嬉しそうでした。

 

 

子供の心が成長していくように、私自身も心を成長させていきたいと願う49度目の春です。

 


並木良和先生の本に、神道映利も載りました♪

2015年03月01日 | 日常のできごと

読みました、先生の本。

「ほら 起きて!目醒まし時計が鳴ってるよ」。

読み進めていたら、私の事も書かれていてビックリ!

ちなみに73ページ(^^)

「僕の友人の女性がある試験を受けようとしていました。数カ月先の試験だったので、どうしたらいいか尋ねられました・・・」の下り、これは私の体験です。

並木先生を通じて天使に聞いていただくと、「準備が間に合わないから次の機会にチャレンジした方がいい」と言う答えでした。

実はその試験、本には”数カ月先”と書かれていましたが、実際は”10日後”だったんです。

競争心の無い私は、自分を追い立てる事は無い性分なのですが、後にも先にもあの時だけは、何かメラっと火が点いて、「頑張る!」と決意したのです。

そして1週間、猛勉強して無事に合格!

あれ以来、私は時々ガイドを頼ってアドバイスを聞いた上でそれに従わない、自称「ガイド破り」を楽しむようになりました。

別にガイドへの反抗期という訳ではないのですが、最後の決断は自分でしたい、とも思うようになったからです。

え? それなら最初からガイドに相談などしなければいいのに、って?

本当、その通りですよね(^^;)

ガイド、ごめんなさい!!

やっぱり反抗期かも(笑)

・・・と冗談はさておき、並木先生の本に戻りましょう。

先生曰く、未来がどうなっていくかをガイド(守護霊や天使たち)に尋ねた時、彼らは今のタイムラインで一番可能性の高い流れを話してくれる、というのです。

私も未来を視た時には、幾つかのビジョンが現われます。

私の場合には、頭の中にその情景が静止画でポンポンポンと浮かび、それが何を意味するかは既に知っている知識としてもたらされます。

並木先生はマルチな能力をお持ちなので、おそらく画像と、音声と、知識等があいまってリーディングされているのだと思います。

余談ですが、情報量が多い方がリーディングの確実性が高まるのだと思います。

これが霊能力の差となるのでしょう。

なお「タイムライン」というのは、現状のまま進んだ先に見える未来の事です。

私たちの人生は、唯一のタイムラインを歩いている訳ではなく、数えきれないほどの幾つものタイムラインを選択しながら進んでいます。

夕飯にカツ丼を食べるか、蕎麦を食べるか悩んだ時、カツ丼を食べるタイムラインが生まれると同時に、蕎麦を食べる自分のタイムラインも出来るのです。

以前、友人のY子さんから、このような話を聞いたことがあります。

Y子さんのご友人が、とある霊能者に未来を視てもらった時、それはもう素晴らしい未来を約束されたそうです。

ところが、現実にはその未来はやってこなかった。

そうなると霊能者の力を疑ってしまうところですが、並木先生にその話をしてみると、その霊能者は、その人の最もドラマティックな未来をリーディングしたのでしょうね、と言われたそうです。

ご友人が、もしその未来を選択して進めば、間違いなくドラマティックな展開を迎えたのであろうと思います。

しかしそのタイムラインを選ばず、もっと平凡な道を選んでしまった。

 

並木先生の本に出ているのは、まさにそういう話です。

私はガイドのアドバイスに従わず、10日後の試験に合格するために必死に勉強する道を選んだのです。

そして(奇跡的に)合格することができました。

本には、「(ガイドに次回チャレンジした方がいいと聞いて、)自分でもそう感じているけど、そう言われたら、逆にその未来を変えたくなった」と私。

そして私は、このままいくと一番可能性の高いタイムラインを行くのではなく、意識と行動を変えて、違うタイムラインに移行したのだ、というお話でした。

 

 

そう、タイムラインは変えられるのです。

どんな未来が待っているのかを期待するのでなく、まして不安になるのでなく、自分が未来を選択する決定力を持っていると分かっている事が肝心だと思います。

 

 

先週、こんなことがありました。

知り合いに、私とは全く違うタイプの霊能力者がいます。

霊能者ではなく、霊能力を持った人という意味で、霊能力者としておきます。

彼が沖縄に旅行し、そこでビジョンを告げられたと言うのです。

どんなビジョンかは聞いていないけれど、それにより彼は、何か新たに始めなければならない事ができたのだそうです。

彼の視たビジョンが間違っていると否定はしません。

けれど私とガイドとの関係は双方向のもので、彼とガイドのように絶対的に服従しなければならない関係とは異なります。

私はこれまで、彼のようなタイプの霊能力者を見てきました。

繋がった先のガイドが高次元の存在である時には良いのですが、時に高次元の存在になりすました低次元の存在であることもあります。

低次元であろうと、霊能力自体は発揮するので、そこがまた怖い。

繋がった先のガイドが、あるとき低次元の存在であることがわかり、ついにコントロールされて自ら死を選択するようになった人もいました。

自分の波動が低い時に繋がったガイドは、その低い波動に同調して忍び込んできます。

だから他者へ影響力を持つ”霊能者”は、自らを鍛錬しておく必要があるのです。

これは霊能力を持っている・いないにかかわらず共通したものです。

自分の波動が低い時には、絶望感だったり、支配感だったり、強迫観念を持っていることがありますね。

そんな時、あなたがいるだけで周りの人のエネルギーを汚染しているのです。

逆に波動が高い時には、幸福感だったり、安堵感だったり、癒しのエネルギーを携えているものです。

そんな時、あなたがいるだけで周りの人のエネルギーが引き上がるのです。

だからこそ、付き合う人を選ばなければなりません。

一緒にいて気持ちが暗くなるような人とは、一線を画しましょう。

今まではポジティブなエネルギーを持っていたのに、近頃ネガティブに傾いてきた、という人もいるでしょうが、その安定感の無さは、やはりあなたを幸せにはしないでしょう。

ご縁があって、そこに一緒にいる学びがあって出会ったけれど、いずれそのように両者のエネルギーの流れが変わってしまうことがあります。

それに気付いたら、あなたはそっと距離を置き、もっと自分を高めることに専念すればよいのです。

ことさらに別れを告げたりしなくても、あなたが高い次元へ進めば、自然と相手が一緒にいられなくなります。

相手の立場からみても、あなたと一緒にいても以前ほど服従させられなかったり、依存し合ったり、一緒に愚痴をこぼしても楽しくなくなって、一緒にいる事が楽しくなくなってくるのです。

だからこの宇宙の仕組みを知ったあなたから離れてあげる事が、相手にとっても良い事なのです。

そして相手の幸せを願い、いつか相手があなたと同じところまで成長してきたら、その時にまた迎え入れてあげましょう。

 

ところで、73ページに書かれたエピソードには続きがあります。

ガイドから、次回の試験にチャレンジした方がいいと言われた私。

「今回の試験に受かるよう頑張る!」と奮起したことは、並木先生には伝えておりませんでした。

試験に合格して次に会ったとき、「実はあの時、自分で未来を変えたいと思ったの」と告白しました。

すると並木先生。

「うん、知ってる。」と、いつものセリフ。

何もかもお見通しだった、というわけです。

キャー、恥ずかしい!

さらに思うのです。

もしかしたら私のガイドは、「次回にチャレンジした方がいい」と言えば、私が奮起することを知っていたんじゃないかって。

のんびり屋の私に、やる気を出させるための演出だった!?

事の真偽は確認しておりませんが、いずれにしても私は自分にとって正しい事を選択していき、その選択が、少なくともその時にはベストと思える選択であったと自信を持って生きていこうと思います。

そしてその後に訪れる結果は、それもまた自分の責任において選択したタイムラインであると受け止めていこうと思うのです。

 

並木先生の生き方から多くを学び、ワークショップ等でもたくさんの事を学んできました。

でもそれを上手く表現する事ができずに、こちらのブログで紹介できなかった数々。

それがこの本の中に詰まっています。

自分ではアクセスできない宇宙の真理を、並木先生らしく、やさしい雰囲気と親しみやすい言葉で、サラリと著してくださいました。

私が宣伝などしなくても売れる本ですが、ぜひ多くの方に、私が読んでほしいのでご紹介しました。

本には、どのようにしたら波動を上げていけるのか等、ワークショップで教えて頂いた事もたくさん掲載されています。

どうぞお楽しみください。

 

そしてお気づきかもしれませんが、73ページに私は「友人の女性」と書かれており、神道映利の名前は出ておりません。

でもいいんです。

先生の本に載る事ができて、嬉しー(^^)♪


届いたー!!並木良和先生の本!

2015年02月28日 | 日常のできごと

キャー・キャー・キャー!!

愛する並木良和先生の本が届きましたー!!

意図したわけではないのに、明日は完全OFFを目論んでいた私。

一日かけて読書にいそしもうと思います♪

あー、でも、今夜中に夜なべして読んじゃうかなー(^^)

 

 

遠慮深い並木先生は、私が「帯を書こうか?」「挿絵を描こうか?」「パラパラ漫画を描こうか?」という全ての申し出をやんわりと断って(笑)、しかし立派に本書を書き上げられました。

 

 

まだ読んでいないけれど、この本は並木良和を物語るように、慈愛に満ちた内容であると思います。

私が今在るのは、並木先生が私を発掘してくださったからです。

先生に出会わなければ、霊能者として生きていくことも、心理カウンセラーを職業とすることもなく、ついてはブログを通じた皆様との出会いも、クライアントさんとの出会いもなかったであろうと思います。

彼のサイキック能力は、並大抵のものではありません。

よく冗談で言うのですが、彼に比べたら私の力など、ちょいキック!

それでも彼は言います。

「えりりんにしか癒せないクライアントさんがいるんだよ」と。

それが私のモチベーションの源泉であり、プライドです。

自分自身を高め、善意と慈愛を発揮するのが自分自身の役割と承知して活動に励みます。

私にとって第2のステージは並木先生との出会いから始まり、そして段階を経た今も、彼の支え無しにはいられないというのが正直な気持ち。

スピリチュアルカウンセラーとして、自分の前を歩き、導いてくれる存在がいることは何よりの幸運です。

心理カウンセラーとして、私には前を歩いて導いてくれる存在はいません。

それは役割としても、考え方としても、手法としても、従前にある方法でなく、独自のやり方だから。

疑問に感じたり、不安に陥ったとき、アドバイスを与えてくれる存在がいないということは、時に絶壁を、目隠しして歩くようなもの、ギリギリな自分との闘いでもあります。

並木先生と出会ってしばらくの間、私は師匠が欲しいと言い続けていました。

ヨギー(ヨガ修行者)とマスター(師匠)の関係は絶対的なもので、わからない事に行き当たったとき、質問したら、すぐさま答えを与えてくれて、知識欲と平常心をもたらしてくれるような存在がいてくれたら、躊躇せず探究の道を進んでいける。

しかしそのたびに、「今世は、えりりん自身がマスターとなるんだよ」と並木先生に諭されたものです。

知らない道を歩むのが不安ならば、知っている道を歩めばよいのに。

それなのに、私はいつも知らない道を探究したくなって、そのたびに立ちすくみ、やがてその現状を打破すべく開拓したくなる。

しかしそのような時も私を励まし、道を照らしてくれるのは並木先生の存在です。

何か相談するでもなく、電話するでもなく、会うでもなく、それでも先生の存在自体が私の居るべき所を教えてくれるように、私にとって並木先生はランドマークみたいな人。

どうにもならなくなったとき、先生がいてくれれば何とかなる!

・・・と、一言で言えば他力本願(笑)

ところがその卓越した力を持つ先生も、過去にはもう少し人間らしい未完成な一面を残していて(?)、共に笑い、共に泣く場面もありました。

しかしこの3年ほどで、まったく太刀打ちできないほどに力の差がついてしまった。

いや、元々同じラインに立っていたと思うのが幻想でしょうか(^^;)

彼はもはや人間レベルのアドバイス等求めるに足りず、一緒にいても物理的にはすぐ近くにいるのに、存在自体は違う次元にいるような印象さえあります。

かと言って遠い存在でもなく、出会った頃と変わらない礼儀正しさと、愛すべきヌケ感を持って、何ものにも縛られない自由さを放っています。

私はそんな、もはや人間を卒業して3次元を抜けた彼の背中を見ながら、それでも何か落し物をした時にはすぐさま拾って届けたいと思いつつ、出番が無いことにガッカリしながら後を追っています。

本書で私は彼からまた多くを学べることでしょう。

この幸運を胸に、読書に戻ります。