前の記事に「小学校の授業参観」のことを書いたのですが、
2010年6月13日の記事
それでちょっと思ったことを。
昨日、「いかにも学校の授業らしい授業が展開されていました」と書いたのですが、いかにも、というのは「学級単位での管理がされている子ども達」という意味で、自分自身が子どもの頃に経験した「学級」や「授業」とほとんど変わりがない気がしました。
先生が話す。
先生が黒板に書く。
先生が質問を投げかける。
先生が注意する。
子どもたちは聞く。
子どもはノートに書く。
子どもたちは答える。
子どもは注意されて反省する。
ごくごく当たり前の光景です。
そして、「学級単位での管理がされているなぁ~」と思ったのは、例えば、こんなことです。
<例1>
先生と子ども達の質疑応答
先生の質問に対して、発言したい子、解答したい子はまず手を上げます。先生に指名された子は、代表して(しているかのように)発言します。
先生は、すぐに正解とも不正解とも答えず、他の子たちに
「どうですか、合っていますかー?」
と声をかけます。すると他の子ども達は口を揃えて「正解でーす」とか「違いまーす」などと答えます。学級全体が参加する質疑応答です。
発言した子にしたら、クラス全体から「正解でーす」と言ってもらえるのは、かなり「気分のよい」経験なのではないか?と思いました。先生と1対1ではなく、常にギャラリーに賞賛(?)される授業なのですから。
もちろん、子ども一人ひとりの内面はわかりませんが・・・。
<例2>
忘れ物チェック
授業の前に出欠確認を兼ねてなのか、各人に忘れ物の申告をさせていました。
先生が名前を呼ぶと、各人が
「はい、揃っています」
もしくは
「○○を忘れました、すみません」
などと教室の全員が揃う中で申告をします。
ちょっと驚いたのが、忘れ物をする子が非常に少なかったことでした。
娘のクラスは小学3年生にして、ほとんど忘れ物申告が無かったのです。
いや、忘れ物をしない子のお母さんからしたら「しないのは当たり前でしょ、何で驚くの?」と思われるかもしれませんが、粗忽者の私からしたら「子どもが忘れ物をしない」というのは大変な驚きでした。
で、忘れ物をしない理由として考えられるのは、ひとつは
「親がしっかり躾けている」
ということでしょうが、(もしかしたら授業参観の日なのでいつもより念入りにチェックがあったかも?)
別の理由として
「学級の中で他人の目を意識させる教育が、功を奏している」
ことかもしれない?とも思われました。
忘れ物をした子に対して、先生は全く叱りませんでした。でも先生が叱らなくても、クラスメイトの大半が忘れ物をしない中、一人か二人だけしか忘れ物をしなかったら、どんな子でも「恥ずかしい」という気持ちになるのではないでしょうか。たぶん、先生から叱られるよりずっと防止効果が大きいと思われます。実際、私も「こりゃ、親も一緒にチェックしてやらないと、娘が可哀想だなあ・・」と思ったくらいです。
うちの娘が、ときどき「明日は○○を持っていかなきゃいけなかったのに、用意を忘れていた!」などと大泣きをすることがあるのですが(=さっさと用意をすればいいいだけなのに、すぐにパニックを起こすのです)、こういう忘れ物チェックのプレッシャーのせいかもしれないなーと合点がいったのでした。
*
で・・・今の教育制度がどうこうという大きな話にするつもりは無いのですが、私は、この
「いかにも学校らしい学校のやり方」
に、実は息苦しさを覚えてしまいました。
自分の子ども時代もそうでしたし、学校は最初から「そういうもの」ですから、当時はイヤだと思ったことも無かったのですが、
しかし、大人になって、学校以外の場で過ごすようになると、この「学校」や「学級」という管理形態が息苦しく思えてなりません。
Yahoo百科事典で「学級」を引くと
Yahoo百科辞典「教育・研究・学校一般」>「学級(学級)」
「現代では学級の社会生活そのものに、より重要な教育的意義があると認められている。」
という一文も見えました。
その教育的意義が「良い」のか「悪い」のか、判断が分かれると思いますが、「学級」というのは単なる「単位」ではなく「機能」の面が非常に大きいのだよなぁ・・・と強く思った授業参観でした。
学校の目的は「教育」であって、「学級」は手段のひとつだろうと思うのです。
「学級」が目的にならないことを祈るのみです。
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