ブリヂストンA工場で働いて、私が見たもの、私がしたこと、私に起きたことを発信します。

「ない」ものの代理補充

2021-08-26 | 症状とともに生活する

音楽プレイヤーを置く位置 の続き。

 

私は今うつ病とPTSDの症状を抱えていて、色んなことができなくなったり

非常に困難になっているから、できるように助けを施しています。その一例が、

色んな場所に音楽プレイヤーを置いて、作業をする時にBGMを流すことです。

うつ病やPTSDなどの症状を抱えながらの暮らしには、ただ○○する だけのことが

フラッシュバックのトリガーになったり 耐え難いものになったり頻繁にするので、

ただ○○するだけにも 様々な回避策や注意の誘導、ほっといたら必ず嵌る穴に

嵌らないようにする対策が必要になります。

 

以前は、料理をするだけ、洗濯物を小屋で干すだけ、○○するだけなのを

そういう助けを借りないとできないという状態を否定する考えを内面化していました。

「ばかじゃないの ○○するだけじゃないか」っていう、誰かの「合理的な」声。

 

でも、今ではこういう助けになる工夫をすることは、(精神症状の対策に限らず

すべての人にとって)とても大事なことで全く蔑ろにするべきものではないと思っています。

これを上手く書くのは難しいけれど。

それは、ただ○○するだけじゃないか という「○○する」が、例えば昔は当たり前だった状況と、

現代の、しかもその人個人の今の状況とでは、天と地ほど違うからです。

 

::::::過去記事:1つ変わると全部変わる不思議 より抜粋::::::::


また、私は家に引きこもっていて、このことをよく思う。

心理学者の河合隼雄氏が講演で語っていたけど「同じに見えて全く同じじゃない」。

取り巻く環境、文脈が今と昔で違っているから、「昔と同じことをしてい」ても

全然同じじゃなくて全く違う。講演は子育ての話だったのですが、

”幼い子どもの自分をダンボール箱に入れてほったらかしていた”と言う親と同じことを

我が子にしている親に、それはまずいよと言ったエピソードが出てきました。

農業をする両親がいつでも見える畑、田んぼの傍で、ダンボールに入れて幼児を

放っておくのと、家の一階で親が仕事をしている間、別の部屋で幼児をダンボールに入れて

放っているのとでは全く違うよと。前者は親と子が互いにいつでも見えて、子どもには

トンボが近づいてきてアメンボや入道雲や鰯雲、とんびや隣の田んぼの夫婦が見えて、

子どもの声、スプリンクラーやトラクターの音、農業用水路を勢いよく流れる水の音がして、

「放っておかれて」いない。でも後者は、子どもは別室で孤立させられて放っておかれている。



Free Images : river, pond, stream, green, vehicle, blue, waterway,  drainage, body of water, pipes, water feature, valve, fluent, pusher  4288x2848 - - 1331602 - Free stock photos - PxHere   近年手動で井戸水を汲み上げる「手押し井戸ポンプ」が国内外でも再ブレイク中?! | 井戸ポンプ情報局

 

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場合によっては、昔と同じAということを、当時と全く異なる現代の状況下ですればする程に、

引き起こされる結果は見事に反転したり。昔の文脈なら いいことだった状態、

誰もが羨む贅沢な状態も、今の日本の文脈上ならとてもまずい状態、危険な状態だったり。


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例えば、昔は核家族ではなくて家族がたくさんいたり、近所のつながりがあって

色んな人がきさくに出入りして、醤油を切らしたから分けて貰ったり分けてと言われたり、

留守の間に夕立が降っていて干していた布団が軒下に移動していたりするような

日常の中で、家で晩ご飯の支度をする状況だったのと、そういうのがない中で、

孤立し閉鎖された状況でするのって全然違うとか。

 

だから、「ない」けどそのこと自体に気づかれないものを補う為に、音楽をかけたり

することは、尤もな代理補充なのだと思うのです。なにが「ない」かはわからないけど

なにかが「ない」から、音楽をかけたいと思うのは、非常に合理的な欲求なのです。

不自然だけどなにが不自然なのかはわからないその状態を改善、緩和するための

代理改善、代理緩和も同じで、その欲求と対策は本当に精密で的確です。

 

ただ、そういう対策をして辛いことを辛くないようにして暮らすのは大事だけど、

根本的な「ない」ものの問題は放置されたままだから、そういう「ない」中での代理補給を

自助的にすれば解決することではないことですが。

 

私は、自分を含めた「発達障害」の人を見たり話したりしていると、

「発達障害」の人って、なにが「おかしい」かはわからないけどなにかが確実に「おかしい」

状況の中で、平気でタフにやることができなくて、「おかしい」ことを多少解消する補正、

埋め合わせをせずにはそれをできないように見えます。つまり、世の中が歪んでいたり

なにかが決定的に失われていることへの補正の欲求がとても切実な人達に見えます。

そして、その補正の欲求は、本当には尤もなものなのに、表層的にしか物事を見ない人達には

その補正行為が「奇妙」とか「異常」とか「我儘」とか「障害」に見えるのだと思います。

私は、あるADHDの男の子としゃべった時にも感じたんです。その人の感じていること

本当に的確です。でも、多くの人々はそのおかしな中で何でもないように生きています。

彼は、その歪みの補正への必要性がとても高いのだと思いました。


また、なにかが決定的に「おかしい」状況に生来誰よりも合わない性分なのに、その状況を

当たり前のように強いられている生き辛さのあまり、過剰適応して極端な形を呈して

しまっているような人も、強迫性症状を抱えた人にはいます。強迫神経症の人は、

本来、最もそれと遠い性質をもっていたのではないかと感じることがあります。

生来もって生まれたみずみずしい感受性が当然のように否定され踏みつけにされて

きた結果、本来の自分と真逆の強迫神経症を反動的に極端な形で発症した。

 

 


(その他の関連記事: 条件付け:conditioning     コミュニケーション不全?  

         抑制の利いた「 間 」    構造主義②  etc...)

 

 

 


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