私は元々クラシック音楽をよく聴いていて好きなのですが、これがトラウマとリンクして
自分をフラッシュバックさせたり不安定にさせるものになってしまいました。
好きな物が、忌避すべき物、恐怖の対象に変わる… これ程哀しいことはありません。
本来とても好きな音楽が、自分に精神的苦痛を生じさせ、
トラウマと一切リンクしておらず安心して聴けるのは、軽快で商業的な音楽とかです。
以前は心から愛していたクラシックのアルバムが、自分を情緒不安定にさせるという
哀しい現象に気づき、聴けなくなって、商業主義的アルバムなどは安心安全に聴けます。
忌野清志郎のRCサクセションの「COVERS」など、色々と心に訴えてくる音楽も
好きだったのに、今現在は却って聴けなくなりました。その時には癒しになっても
その後、なんらかのメカニズムで聴けなくなることがあります。頭の冴えわたった人達や
ものの道理をクリアに見えている人達が、発信する核心をついた言論も、自分の胸を
斬り込んでえぐってきて、我が身に起きた出来事を頻繁にフラッシュバックして
とても苦しくなります。 関連:薬と刃物
精神性の高いもの、中身があるもの、揺さぶるもの、言葉にできなかったものを
言葉にしてくれるもの…は、人を救いもするし、心を血だらけに切り刻みもします。
やめて、やめて!となって本を閉じたり画面を閉じたり。胸が苦しくなって無理になる。
また自分がブリヂストンで晒され続けた惨状よりも、次元が随分ましに見えることに対して
(ブリヂストンのレベルが論外過ぎるのです)ひどいと呆れ返っている言論を見ても、
「じゃぁ私はどうなるの」となって苦しくてたまらなくなります。政治家が言っている詭弁を
悪質なものと批判しているのを聴いて、「じゃぁ吉田や竹下さんが言った詭弁はどうなるの」
となるんです。次元が違い過ぎる…かれら(言論人)はひっくり返ると思います。かれらが
呆れている悪質な詭弁の測定値が100としたら、吉田や竹下氏の言うことは針が振り切れて
測定器が発火するレベルでしたから。
SocialGoodな活動をしている組織内部でセクハラが起き、それをしたリーダーの男性は
謝罪して、お金を支払おうとはしているけれど、それが欺瞞に満ちていて本心ではない、
彼は理解していないと憤って訴え続けている女性などを見てもです。レベルが違い過ぎる…
真っ赤な嘘や壮大な屁理屈や、噴飯ものの詭弁を弄して1㎜も認めないブリヂストンの
加害者達(下図参照)をフラバして「じゃぁ私はどうなるの」と思って胸が苦しくなります。
例えるならば、こんな感じかな。嘔吐物を食品だとしてずっと食べさせられてきて、
これは「嘔吐物です」と上司に言うと「食品だ」「君の感じ方は間違っている」「被害者意識」
などと常に説教で返されてきた人が、お寿司に嘔吐物が混入していることを訴えている他人を見て、
とても哀しくなるような。
肥溜めに頭まで潜らされていて、助けてと言っているのにすべて自分の受け取り方がおかしいと
されて誰にも助けてもらえなかった人が、あるSocialGoodな組織に所属する他人がその中で糞を
顔にかけられて告発したらかけた人から慰謝料を提示されたがそれは欺瞞だ、本当には理解してないと
憤り訴えているのを見て、とても哀しくなるような。
次元が違い過ぎると、とても哀しくなるんです。
参考写真: