ネットオヤジのぼやき録

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絶対王者が絶対である為に・・・ /戦場に身を投じた王者がリング復帰 - ロマチェンコ VS J・オルティズ プレビュー I -

2022年10月26日 | Preview

■10月29日/MSGシアター N.Y./ライト級契約12回戦
元4団体統一ライト級王者/WBC・WBO1位  ヴァシル・ロマチェンコ(ウクライナ) VS WBC8位 ジャメイン・オルティズ(米)



テオフィモからカンボソス、そしてヘイニーへ。

標的とするタイトル・ホルダーは矢継ぎ早に変わったけれど、ベルトの奪還に意欲を見せる絶対王者が、およそ1年ぶりとなるリングに返って来る。そしてそれは、正真正銘,紛うことなき”死地からの生還”と表して間違いない。

一足早く8月にサウジアラビアへ赴き、完全決着とは言い切れないながらも、アンソニー・ジョシュアを返り討ちにしたオレクサンドル・ウシク(3団体統一ヘビー級王者)もまったく同様で、5月の半ば過ぎには両雄への海外渡航許可が出ていた。
※ウクライナは18~60歳の男性の出国を原則禁止している(総動員令を発動中)


6月5日にアウェイのオーストラリアへ飛び、テオフィモ・ロペスから統一ライト級王座を奪ったジョージ・カンボソス・Jr.に挑戦する手筈が整っていたロマチェンコ。実父アナトリー率いるチームともども、テオフィモ・ロペスにまんまと持ち去られた3本のベルト(WBA・WBO+テオフィモが保持していたIBF)奪還を確信していたに違いない。

歴史的との表現が適切か否かは別にして、テオフィモの勝利は紛れもない特大の番狂わせであり、リング誌による2020年度アップセット・オブ・ジ・イヤーの選出は、ファンなら誰もが納得する結末だった。

カンボソスを挑戦者に迎えた新王者の初防衛線。何を勘違いしたのか、試合前から過剰にヒートアップし続けたテオフィモは、対ロマチェンコ用に磨き上げたスキルフルかつ慎重にして丁寧な組み立て&駆け引きをかなぐり捨てて、力でねじ伏せようとする拙速なファイトで墓穴を掘る。



強引に接近しながらいきなりのパワーショットを雑に放ち、手薄になった隙だらけのガードをカンボソスの右カウンターで狙われ、まともに食らって先制のダウンを喫してしまい、失った流れを取り戻すことができないまま試合終了のゴングを聞く。カンボソスの勝利もまた、リング誌は2021年度No.1のアップセットに選んだ。

丸腰となったテオフィモは、以前から噂が絶えなかったS・ライト級への転出を表明。現・元王者2人の視界から消える。ロマチェンコを迎え撃つ筈だったカンボソスは、従軍を決断した絶対王者に率直な敬意を示すと同時に、「必ず無事な姿で戻って欲しい。緑のベルトと一緒に貴方を待っている。そして真のベストを決めよう。」とエールを贈ったが、WBC王者デヴィン・ヘイニーとの統一戦(6月5日メルボルン)に敗れてしまい、今月16日に同じメルボルンで組まれたダイレクト・リマッチも落とす。




王座復帰を確実視されていたオーストラリア行きを諦め、狂気に駆られたプーチンの蛮行を食い止めるべく、踵(きびす)を返して母国に戻ったロマチェンコが、ウクライナ南部の要衝オデッサ(オデーサ)近郊にある、生まれ故郷で結成された義勇軍(ビルホロド・ドニストロフシキー防衛大隊:Belgorod-Dniester Terror Defence Battalion)に入隊すると報じられたのは、今年の2月末~3月初旬にかけてのことだった。

いよいよ侵略戦争が勃発した2月24日、ロマチェンコはギリシャに滞在していたという。速やかに帰国の途に着こうとしたが、ウクライナへの直行便はすべてキャンセル。ブカレスト(ルーマニアの首都)経由で空路から陸路を乗り継ぎオデッサに入り、車を途中で乗り捨てて、黒海をボートで渡り生誕の地ビルホロド・ドニストロフシキーに到着。

翌日には義勇軍のキャンプを尋ねると、そのまま入隊を申し出たという。迷彩服に身を包んで肩から銃をぶら下げ、ヴィタリ・フラズダン(Vitaliy Hrazhdan)市長と並んで撮った写真を、2月27日(ロシア軍によるマウリポリへの侵攻から3日後)付けの公式フェイスブック上で公開している。

◎Vasiliy Lomachenko
The Belgorod-Dnestrovsky Territorial Defense Battalion has been formed and armed. In the territorial defense, boxer Vasily Lomachenko informed the mayor Vitaly Grazhdan.
https://www.facebook.com/VasylLomachenko/posts/521229669369603


この写真は、マイケル・ベンソン(talkSPORT.comに記事を寄稿する著名なボクシング・ライターの1人)のTwitter等で拡散され、あっという間に世界中のボクシング・ファンの知るところとなった。


Michael Benson/@MichaelBensonn
2022年2月28日




親ロシア派の重要拠点とされるドネツィク(ロシア語:ドネツク),ルハンシク(ルハーンシク/ロシア語:ルガンスク),ザポリージャ(ザポロジエ/ロシア語:ザポロージエ)ともに、戦況悪化による核使用への懸念が増すばかりのプーチンが、クリミアと同じく勝手に併合を宣言したヘルソン州(ロシア語も発音は同じ)の州都ヘルソンは、港湾都市オデッサと近接している。

オデッサ(実際の発音はオデーサ,あるいはアデッサのように聴こえる/ロシア語の発音ではアヂェッサになるらしい)は当初から最激戦区の1つになると見られていただけに、大切な家族の顔を思い浮かべ、ひたすら無事を祈るロマチェンコの心中は察するに余りがある。

そして、義勇軍への志願・・・。ロマチェンコのような立場だからこそ、家族を連れて脱兎のごとく逃げ出す訳にはいかないのだろうが、現実の戦場に自ら乗り込むとは・・・。


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年季の入ったボクシング・ファンなら、この一報を聞いてすぐに1人の偉大なチャンピオンを思い出す筈だ。

アーロン・プライアーとの再戦(1983年9月)に完敗を喫した後、祖国を二分する内戦にその身を投じたアレクシス・アルゲリョである。



アメリカの政治・経済及び軍事力をバックに、半世紀近く続いたソモサ大統領一族(親子二代)による独裁体制に叛旗を翻した「サンディニスタ民族解放戦線 (FSLN) 」が、旧ソ連の強力な後ろ盾を得て、10年近く続いた武力闘争の果てにソモサ政権の打倒に成功(死者4万人/難民数十万人)。

傀儡のソモサ体制維持が難しいと見た時のカーター米政権(民主党)は、反政府勢力と秘密裏に交渉を重ねており、新たな革命政権では極端な共産化(一党独裁+計画経済への移行)は行わず、革命軍が立ち上げる与党以外の結党(野党)を認め、あくまで混合経済に留まるとの言質を得た。

新体制への経済的な支援と引き換えに、ニカラグァの「キューバ化」が可能と判断したカーター政権はソモサ一派を見限る。

アメリカの妥協を引き出したサンディニスタは1979年7月に勝利宣言を行い、マルクス主義を標榜する極左から保守・中道派までを抱合する連合政権を樹立したが、程なくして原理主義的な改革に突き進もうとする左派と、旧ソモサ派を含む保守・中道右派が激しく対立。


1980年に発足したレーガン米新政権(共和党)は、密約(?)を反故にしようとする政権左派に対して、経済的支援の打ち切りと同時に制裁を発動。当然の結果とは言え、アメリカの政策転換がもたらす影響は大きく、さらにレーガンは旧ソ連との対決姿勢も露に、ソモサ派の残党と右派勢力の結集に動く。

新政府内の保守・中道派を取り込み、革命政権の樹立から僅か3年後の1982年、反革命政府軍「コントラ(Contra)」を組織した米政府は、ニカラグァ国内の主要な港湾と海軍基地に空爆を繰り返した。

ボクシングを通じて経済大国アメリカの現実を良く知るアルゲリョは、ごく自然な感情として保守・中道派の支持に回ったが、革命政府に邸宅と資産を没収されるに及び、民兵の1人として「コントラ(Contra)」への従軍を表明。


実際の戦闘にも参加したとされる一方で、英雄アルゲリョの人気と知名度を最大限に利用する米政府によるプロパガンダ説も根強く、「一度も戦場には出ていない」とする説もある。

現存するコントラで活動していた頃の写真は限られており、いずれも野営中のゲリラ兵そのものでリアリティを感じさせてくれるけれど、経済的な困窮から家族の生活を守る必要に迫られ、現役復帰を決断したアルゲリョは半年ほどで反革命政府軍を脱退。

1985年10月と翌86年2月(前WBC王者ビル・コステロとの対戦)に2試合を行い、見事なパフォーマンスで連続KO勝ちを収めたものの、「高いモチベーションを保つことができなくなった」ことを理由にあらためて引退をプレスリリース。

当時アルゲリョは33歳(奇しくもロマチェンコと同じ年齢)。ボクサーの高齢化が進んだ今現在の感覚なら「早過ぎる」と言われるだろうが、ニカラグァ最大のボクシング・ヒーローが16歳でデビューした60年代後半~70年代、プロの新人選手は休み無く毎月のようにリングに上がるのが常識だった。

17年を超えるプロ生活で、アルゲリョは80戦超をこなしている。近代的なフィジカル・トレーニングは勿論、様々なサプリメントや補助食品の類は影も形も無く、当日計量で世界戦は15ラウンズ。

王国アメリカは10ポイント・マスト・システムの推進をスタートしてはいたが、スコアリングは明確なダメージを伴うクリーンヒット重視で、ジャブ&軽打によるペースポイントなど望むべくもない。なおかつ、当時のプロは心身の限界まで打ち合う「完全決着」を容赦なく求められた。

20世紀のスタンダードで鍛え上げられたオールド・スクールのトップ・ファイターたちは、今日のトップクラスに比して、ボディ&フットワークを含めた基本的な運動量と手数が格段に多く、ウィービング,ローリング,スリッピング,ダッキングといったベーシックなディフェンステクニックの完成度が例外なく高い。


より攻撃的な分だけ被弾の確率が増すのは当然なのだが、バッティングは総じて少なく、あれだけ激しく打ち合ったアルゲリョも、まともに頭をガツンとぶつけられる(あるいはぶつける)シーンは滅多に見られなかった。

そもそもディフェンスがヘタクソで毎試合のようにボコボコに打たれるボクサーが、年平均5.4試合のペースを15年も続けられる訳がない。昔のボクサーの方が、攻防の技術は明らかに高い。

それでもなお、歴戦の疲労と相応に蓄積されたダメージの影響はあったに違いなく、年間2~3試合が当たり前になってしまい、タッチ&アウェイとクリンチ&ホールドが横行する今日のスタンダードで単純に推し量ることはできないし、判断を大きく誤ることに直結する。


サンディニスタの容赦ない仕打ちから逃れる為、家族を連れてマイアミに生活の拠点を移したアルゲリョは、運命的なプライアーとの第1戦(1982年11月)を同地にあるオレンジ・ボウル(7万5千人超の収容を誇るフットボール・スタジアム/老朽化で2008年に閉鎖)で行っているが、なんと本番当日、革命政府が放った刺客に襲われそうになった逸話はつとに有名。

その後、42歳を迎えた1994年夏に突如として再起。負け越しの無名選手を10回判定に下したまでは良かったが、翌95年の年明けに敢行した第2戦でアリゾナの中堅選手に10回判定負け。完全に現役を諦める。

同じ年の10月9日、ジョー小泉氏が手掛ける興行にスペシャル・ゲストとして招かれ、平仲明信とリック吉村を相手に2ラウンズの公開スパーリングを披露。スマートな体型は往時とほとんど変わらず、渋みを増した美男子ぶりにも磨きがかかり、オールド・ファンを大いに喜ばせてくれた。

ジョーさんはアルゲリョを口説いて、ヘンリー・アームストロング以来40年以上途絶えていた3階級制覇を、プエルトリコの天才児ウィルヘルド・ベニテス(1981年5月/アルゲリョは1ヶ月遅れの同年6月)とともに成し遂げ、世界中のファンと関係者を騒然とさせた技術を映像に残してくれている。
※「3冠王アルゲリョのボクシング・レッスン」


※90年代半ば当時のジョーさんとアルゲリョ

前WBC王者ビリー・コステロを4回で沈めた右ストレートのカウンターは、以前と変わらぬ高い芸術性と暴虐を併せ持ち、健在ぶりを見せ付けたかに思われた。完全に老け込む年齢ではないし、一旦は諦めた4階級制覇(当時の最多記録)に期待を持たせるには十分な出来と映ったが、アルゲリョ自身には満足の行く内容と結果ではなかったらしい。

タイトルを何1つ獲っていないにもかかわらず、関西人特有のお笑いのセンスに加えて、豪放磊落なイメージと「当たった者勝ち」の豪快な分かり易いボクシングで全国区の人気を得ていた”浪速のロッキー”こと赤井英和を7回KOに下し、合計2度の防衛に成功したブルース・カリーを10ラウンドでストップしたコステロは、1984年1月~85年8月まで緑のベルトを保持しており、元王者のソウル・マンビーとリロイ・ヘイリー,浜田剛史の初防衛戦の挑戦者として後に来日するロニー・シールズ(五輪代表候補の元トップ・アマ)から、3度ベルトを守った相応の実力者である。

4階級制覇の記録を作るだけなら、カリーかコステロのどちらかに挑戦していれば問題なく達成できていた筈なのに、140ポンド最強を自他ともに認めるプライアーに敢えて2度挑み、激しい打撃戦を繰り広げて壮絶に散った。


再起の目的は、J・ウェルター級の王座奪取以外に有り得ない。そして、狙った獲物はプライアーただ1人。ところが、アルゲリョとの再戦を制してWBA王座を連続8尾防衛したプライアーは、対戦を熱望していたシュガー・レイ・レナードにと同様、網膜はく離を発症。引退を勧告されてしまう。

眼疾が原因で米国内では容易にライセンスが承認されず、指名戦消化の目処が立たないままWBA王座をはく奪(1983年秋)され、止む無く引退を表明するも、設立間もないIBFから王者として承認を受けており、”新興マイナー団体”への乗り換えを選択。

その後のプライアーは深刻な薬物依存が明らかとなり、私生活でのトラブルが絶えずに自滅。プライアーへの雪辱が不可能となってしまった以上、現役に留まる意味もない・・・世界の最高峰を極めたアルゲリョの矜持をすべてのボクシング・ファンが熱く支持し、リングへの決別を惜しみつつ心からの労いと声援を贈った。

唯一の標的であるプライアーを失ったことも大きいけれど、17年を超えるプロ生活で80戦超をこなした勤続疲労に加えて、内戦による心身の消耗が重なったアルゲリョは、最盛期の強靭な心身を取り戻す為に必要不可欠な闘志を喪失。

結果論に過ぎないと言われればそれまでだが、プライアーに喫した連続KO負けで、文字通り止めを刺されたと評して間違いない。


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今を去ること40年近く前に、ロマチェンコと同じフェザー級~ライト級までの3階級を獲ったアルゲリョは、175センチ超のタッパと185センチ近いリーチに恵まれた大型の軽中量級だった。

長いブランクにもかかわらず、復帰したアルゲリョの強打と技術に明白な衰えや錆付きは感じられなかったものの、歴戦の疲労と母国の内戦による疲弊は想像以上に3冠王の心身を蝕み、ターゲットのプライアーを失ったことも重なって、すぐに実戦のリングから降りている。

アルゲリョと比較するまでもなく、170センチに届くか届かないかのロマチェンコは、「130ポンドがベスト」との発言でもわかる通り、140ポンドへの増量(4階級制覇/アラムがパッキャオ戦を模索した)は視野から消えて久しい。


プロでは18戦しかやっていないが、400戦近いアマキャリアを持ち、手術に踏み切った拳だけでなく、右肩の脱臼癖という古傷も抱えている。

類稀な機動力と縦横無尽にリングを使うムーヴィング・センス、絶え間なく放つ膨大な手数がそのまま鉄壁のディフェンスとして機能し、「ハイテク」や「マトリックス」と称される、独自の打たせずに打つスタイルを確立。

プロ2戦目での世界奪取を目論み、メキシコの荒法師オルランド・サリド(確信犯の体重超過も込み)のラフ&タフに後手を踏み、フィジカルの強度に高水準のスピード&アジリティを共存させたテオフィモ・ロペスに苦杯を喫した2度の敗北からわかるように、体力&パワーに押し負けること以外、これといって目を引くウィークネスはない。


8月17日にロサンゼルス入りしたロマチェンコは、戦時下での半年を越える過酷な状況に加えて、空路による長旅の疲れをゆっくり癒す間もなく、南カリフォルニアのオックスナード(米国内の活動拠点)で本格的なトレーニングを再開した。

<1>EXCLUSIVE! HE'S BAAAAACK! LOMA ARRIVES BACK IN THE UNITED STATES FROM UKRAINE TO BEGIN TRAINING CAMP
2022/08/17


<2>Camp Life: Vasiliy Lomachenko | FULL EPISODE
2022/10/20



これまでに公開されたトレーニング映像を見る限り、ロマチェンコの体型と動き,表情などには以前と大差がなく、ひとまず安堵してかまわないと思われる。

がしかし、例えば第二次大戦(太平洋戦争)中のアメリカのように、しっかりしたトレーニング環境(公式戦と同サイズのリングを含むプロ・レベルの設備&然るべきレベルのスパーリング・パートナー)を用意した上で、当たり前だが戦地へはけっして送らない。慰問と戦意高揚を目的とした、世界チャンピオンやスターボクサーたちの招集とは訳が違う。

尋常ならざる厄災とパンデミックに起因するブランクがもたらした心身へのダメージは、いつどんな形で健在化したとしても不思議はなく、慢性化した脱臼癖以上の懸念材料と捉えることもできるだろう。


旧ソ連のステート・アマ体制から出てきたトップボクサーたちの中には、アレクサンダー・ポベトキンのように、昔ながらの「山篭り」式のトレーニングを好む選手もいたりする。

だからこそ、ポベトキン(ムキムキのマッチョとは対極のアンコ型)のドーピング違反が発覚した時には本当に驚いたし、五輪金メダリストの栄誉を自ら汚したことへの失望も大きかった。

映画「ロッキーVI」の劇中、シルベスター・スタローン演じる主人公ロッキーが、宿敵でもあり戦友でもあったアポロの弔い合戦を決意し、ドラゴを追って東西冷戦末期のモスクワを訪れ、深々と雪に埋もれた首都郊外の山間地を懸命に駆け回り、宿泊小屋の梁にぶら下がって懸垂を繰り返し、縄跳びや腹筋に精を出す。

そして、大きな斧で太くて重い丸太を切っては、その丸太を持ち上げ放り投げるクラシカルな筋トレ。見当外れのアナクロニズムと笑う方もおられるかもしれないが、自然の中でやれることは少なくない。


ロマチェンコほどのボクサーなら、どれほど厳しい状況においても、豊富な経験とアイディアで設備の不足を補い、必要最低限の練習(体調とウェイトの維持)に取り組んできた筈だ。それでもなお、実父アナトリーとチームのサポートが得られず、リングを使ったスパーリングもままならない中、良好な状態を保っていたと考えるのは楽天的に過ぎる。

南カリフォルニアで行った2ヶ月余りのキャンプで、どこまで調子を上げられたのか。未知数は言い過ぎかもしれないが、一末では済まない不安を感じるのは私だけではないと思う。

米国 VS 旧ソ連の代理戦争と表すべきニカラグァの内戦に対して、ロシアによる一方的かつ理不尽極まる軍事侵攻。地域と背景こそ異なるものの、(30年以上前に終った筈の)東西対立=民主主義 VS 独裁体制,「NATO VS 旧ソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)」の基本的な構図、何よりも同じ民族(東スラヴ系)同士が血で血を洗う残虐と悲惨に何ら変わりはない。


およそ1年ぶりとなるジョシュアとの再戦を際どいスプリット・ディシジョンでしのいだウシクは、「ウクライナ領土防衛大隊(Ukrainian territorial defence battalions)」に入隊していた。

前日計量で秤が示したウェイトは、221.6ポンド。第1戦(221.25ポンド)とほとんど同じ数値だったにもかかわらず、自慢の足捌きとパンチはいつもの冴え,シャープネスを欠いていた。

当日の体重が分からない為断定的には言えないけれど、リング・インしたウシクの上半身が普段よりも厚く見えたこともあり、前戦に比べてリバウンドの幅も大きかったように思う。


第1戦(240ポンド)よりも重かった(244.5ポンド)ジョシュアだが、ウシクの相対的なスピード・ダウンに乗じる格好で適度にプレッシャーが増す結果となり、タイミングのいいボディ・ショットも決まって良い展開を作れていた。

ウクライナのアスリートたちが置かれた困難な状況に思いを馳せれば、厳し目の言動は慎むべきなのだろうが、1年前の初戦をヘビー級におけるウシクのベスト・シェイプとすれば、良く言って7割ぐらいの仕上がりではなかったか・・・。


ロマチェンコに限って調整をしくじるヘマはやらないだろうし、リミットをきちんと作った上で、十全に動くことが可能なコンディションまで持って来るに違いない。

対戦相手の知名度の低さのみならず、絶対王者の確固たるプライドとディシプリンを踏まえた(ヘイニー戦への期待値込み)結果ではあるけれど、直前のオッズは圧倒的な差が開いた。

□主要ブックメイカーのオッズ
<1>BetMGM
ロマチェンコ:-2000(1.05倍)
J・オルティズ:+900(10倍)

<2>betway
ロマチェンコ:-2000(1.05倍)
J・オルティズ:+700(8倍)

<3>Bet365
ロマチェンコ:-2000(1.05倍)
J・オルティズ:+900(10倍)

<4>ウィリアム・ヒル
ロマチェンコ:1/14(約1.07倍)
J・オルティズ:8/1(9倍)
ドロー:22/1(23倍)

<5>Sky Sports
ロマチェンコ:1/33(約1.03倍)
J・オルティズ:10/1(11倍)
ドロー:13/1(14倍)


果たして、ジャメイン・オルティズ(Jamaine Ortiz/ジャーメイン=Jermainではない)は、そこまで組し易い安全パイなのか。

拙ブログの勝敗予想とオルティズに関する情報は、この後アップ予定の「Part 3」で・・・。


Part 2 へ続く

Part 3 へ


◎ロマチェンコ(34歳)/前日計量:134.6ポンド
前WBA・WBO統一ライト級王者(WBA:V2/WBO:V1),前WBCライト級(V0),元WBO J・ライト級(V3),元WBOフェザー級(V3)王者
※現在のランキング:WBA4位/WBC1位/IBF3位/WBO1位
戦績:18戦16勝(11KO)2敗
(2013年10月デビュー)
アマ戦績:397戦396勝1敗(2敗,あるいは3敗など諸説有り)
2012年ロンドン五輪ライト級金メダル
2008年北京五輪フェザー級金メダル
2011年世界選手権(バクー)ライト級金メダル
2009年世界選手権(ミラノ)フェザー級金メダル
2007年世界選手権(シカゴ)フェザー級銀メダル
2008年欧州選手権(リヴァプール)フェザー級金メダル
身長:170(168)センチ,リーチ:166センチ
※Boxrecの身長(身体データ)がまた修正されている
左ボクサーファイター


◎オルティズ(26歳)/前日計量:134ポンド
現在のランキング:WBC8位/WBO12位
戦績:17戦16勝(8KO)1分け
アマ通算:100勝14敗
2016年リオ五輪代表候補(L・ウェルター級)
2015年五輪米国最終予選ベスト8
※予選:決勝でジャロン・エニス(25歳/29戦全勝27KO)にポイント負け
※本戦:準々決勝でエイブラハム・ノヴァ(28歳/21勝15KO1敗)にポイント負け
2015年ナショナル・ゴールデン・グローブス準優勝(ライト級)
※決勝でテオフィモ・ロペスにポイント負け
2015年全米選手権ベスト4(ライト級)
※準決勝でヘナロ・ガメス(27歳/10勝7KO1敗)にポイント負け
身長:173センチ,リーチ:175センチ
左右ボクサーファイター(スウィッチ・ヒッター)