■男たちの残照 /綺羅星のごときチャンピオンたち - 3 - V 番外編 /スリラ・イン・マニラその後
引退を勧める周囲の声を振り切り、フレイジャーは翌1976年6月にフォアマンとの再戦に挑み、5回TKO負けに退き引退を表明するが、コーナーには変わらずファッチが厳しい表情を見せていた。
ウェイトは224ポンド超まで増えて、フォアマンとほぼ同じ。クロスアーム・ディフェンスを強化し、ビッグ・ジョージの豪打をまともに食わないことを優先したが、濛々とした煙を吐きながら前に出続けてこそのスモーキン・ジョー。
スモーキンを止めてしまえば、そこに居るのはただのジョー。老いて衰えた1人のボクサーに過ぎない。
※フォアマンの豪腕をひたすら耐えるスモーキン・ジョー/リベンジは成らず
アリに敗れたフォアマンは、1年以上休んで76年1月に再起したが、あの豪腕を恐れることなく果敢に打撃戦を挑むロン・ライルにいきなり強烈なノックダウンを奪われ、あわやKO負けの大ピンチに追い込まれている。
決死の覚悟で反撃に転じ、ダウンを奪い返して持ち応え、さらにもう1度づつダウンを応酬した末、5回KOで決着して何とか生き残りはしたものの、相手をひと睨みで震え上がらせた神通力は消え失せていた。
※写真左:真っ向勝負で打ち合いを挑むライルの右強打をまともに浴びるフォアマン
写真右:ライルとバチバチにしばき合い2度目のダウンを喫するフォアマン
怪物的な強さを誇った王者が、思わぬ諸さを露呈して一度び敗れると、その後の対戦相手は過度な恐れとリスペクトを抱かなくなる。東京ドームでバスター・ダグラスにKOされたマイク・タイソン然り、ヘビー級からL・ヘビーに出戻り、アントニオ・ターバーに瞬殺されたロイ・ジョーンズ然り・・・。
フレイジャーに引導を渡した後、二線級の中堅選手を3タテしたが、1977年3月17日、アリに挑戦して3-0の判定に屈したジミー・ヤングとプエルトリコのサンファンで対決。
最終12ラウンドに痛烈な右を浴びてダウンを奪われ、明白なユナニマウス・ディシジョンに退くと、ドレッシング・ルームで「神を見た!」と叫び、28歳の若さでリングを去る。
※写真上:アリの「ロープ・ア・ドープ」を思わせる戦術でフォアマンの攻勢をしのぐヤング
写真下:フォアマンの疲労を待ち隙を狙い続けたヤングは最終12回遂に右をヒット/ビッグ・ジョージはロープを掴んで支えようとしたが耐え切れずに崩れ落ちる
丸々10年を経て38歳でカムバックにトライし、ホリフィールドとトミー・モリソンに喫した敗北にも臆せず戦い続け、45歳で奇跡の復活を遂げて全世界を落涙させたが、それはまた別の機会に。
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引退後はフィラデルフィアのジムでトレーナー業に励む傍ら、音楽業界に本格的な殴り込みをかけたフレイジャー。世界王者だった1969年に最初のシングルをリリースし、「ノックアウツ(The Knockouts)」と命名したファンク・バンドとともにツアーも敢行。
1978年にはビール会社のCMにも起用されるなどしたが、残念なことに成功には至らず活動は(永遠に)休止。最終的にシングルを8枚出したが、いずれもビッグ・ヒットを飛ばし、「チャンプの余技」の評価を覆す夢を果たすことはできなかった。
ラストファイトから5年半。37歳になったフレイジャーは、1981年12月3日シカゴのインターナショナル・アンフィシアターで、"ジャンボ"の愛称で呼ばれたフレッド・カミングス(殺人罪で服役中にアマチュアの選手となり76年ミュンヘン五輪代表候補を経てプロ入り)と対戦。
コーナーにファッチの姿は無く、プロ・デビューしたばかりの息子マーヴィス(幻のモスクワ五輪代表候補/米国最終予選で敗退)が代わりを務めた。
多くのプロボクサーが、心身の限界を思い知ってリングを降りながら、経済的な事情や現役を諦め切れずに再起する。かつて一緒に戦った選手に頼まれ、断ることができずにコーナーに入るトレーナーもいるが、ファッチは「これ以上戦うべきじゃない」と判断した選手をサポートすることはなかった。
フォアマンとの再戦で100万ドルの退職金を得た筈のフレイジャーは、イリノイのローカル・プロモーターが提示した8万5千ドルのギャラを得る為、260ポンド超まで肥えた(らしい)身体を30ポンド絞り、10ラウンズをフルに戦ってマジョリティ・ドロー(0-1)の結果を聞くと、今度こそ本当に引退する。
※写真左:ファイティングポーズを取りレコーディングに備えて練習するフレイジャー
写真右:ステージで歌うフレイジャー
◎フレイジャー初のシングル:「If You Go, Stay Gone」
※1969年/キャピトル
◎5枚目のシングル:「My Way」
※1971年/ノックアウト
◎7枚目のシングル:「First round knockout」
※1975年/モータウン
けっして悪い声ではないが、乾いた声質と話す時の滑舌を思い出して、正直大丈夫かと思った。ところが、想像以上に発音がはっきりしていて音程も正確。カセットテープで初めて聴いた時は、「やるじゃないか」と驚いた。
フランク・シナトラの超有名なエヴァーグリーンを、アップテンポなソウル風味で味付けした「My Way」は、曲がいいだけにちゃんと聴ける。アレンジとサウンドがいかにも古めかしいのは仕方が無い。ただ、売れるか売れないかの話になると・・・
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一度は引退に傾いた気持ちを押し止め、1976年2月にプエルトリコのサンファンでオランダのジャン・ピエール・クープマンを5回KOに下したアリは、4月30日にメリーランド州ランドヴァーでジミー・ヤングに15回3-0判定勝ち。
※ヤングがフォアマンに勝つのは半年後
5月24日にはミュンヘンまで飛んで、ランク3位の欧州王者リチャード・ダン(英)を5回でストップ。休む間も無く東京に飛来すると、6月26日に武道館でアントニオ猪木との疑惑の15ラウンズ(?)を消化。
流石のアリも、この頃になると頻繁に引退を口にするようになってはいたが、言葉とは裏腹に戦いは続く。
「ドン・キングとボブ・アラムを始めとするプロモーターは勿論、アリのマネージャー(ジャビール・ハーバート・モハメッド)とバックに控えるブラック・モスレムにとって、アリは大金を産み出すライフラインそのものだった。本当に壊れて動けなくなるまで、止まることは許されないんだ・・・」
そうした類の記事をこれまでヤマのように見てきたし、大筋として当ってもいるのだろうが、イスラム教の普及浸透をライフワークに掲げたアリ自身、モスクの修復や新築等々の支援を続ける為、莫大な資金を必要としたことも確かだろう。
※写真上:ケン・ノートンとのラバーマッチを目前に控えて神に祈りを捧げるアリ(1976年8月)
写真下:ギザの大ピラミッドとスフィンクスを背にラクダならぬ馬に乗ってゆっくり進むアリ(1964年にカイロを訪れた際のひとコマ)
そして1976年9月28日、3万人超を集めた旧ヤンキースタジアム(ライヴゲート:350万ドル)で、ケン・ノートンとのラバーマッチに応じる。
いわゆる"アリ・キック"のダメージが原因で、猪木戦直後にアリが1ヶ月近く入院したとか、以降フットワークが使えなくなったとか、次の防衛戦(ノートン第3戦)を延期(あるいは中止)したとか言われたが、すべてプロレス側とプロレス・メディアから出されたデマで、アリは韓国への訪問を予定通りこなし、ノートン戦も予定通り行われた。
※ヤンキースタジアム(旧)でプロモーション用の撮影に臨むアリとノートン
この興行を手掛けたのは、ドン・キングではなくボブ・アラムで、アリには600万ドルの最低保障+50%のインセンティブ(米国とカナダで300ヶ所に設けられたクローズドサーキット+ライヴゲート)を提示。ノートンは100万ドル+インセンティブ5%で、アラムに対して「どうしてフレイジャーより低いんだ?」と不満を漏らしていたが、「チャンピオンになってすべてひっくり返してやる!」とモチベーションに変える。
アリとの第2戦で微妙な惜敗を献上した後、ノートンはプロ入り直後の1968年から指導を受けていたファッチと別れて、同じロサンゼルスに拠点を置くビル・スレイトンをチーフに招き、チームを変更していた。
※写真左:左からエディ・ファッチ,ノートン,フレイジャー(60年代末)
写真右:ノートンとビル・スレイトン
新体制の船出となる筈だったカラカスでのフォアマン戦で、誰もが眼を疑う惨敗を喫してしまい、アリとのリマッチに続く連敗となったが、ジェリー・クォーリー,ロン・スタンダー(政権末期のフレイジャーに挑戦した中堅選手),ラリー・ミドルトン(多くの著名選手と戦ったボルティモアの中堅ヘビー級)を含む7連続KOで復調。ランク1位の指名挑戦者として、三度びアリの前に立ち塞がる。
ファッチと鍛え上げたクロスアームの基本形(構え)は変わらず、長身のノートンには最適とは言い難かったボビングもほぼそのままで、スレイトンは既に出来上がっていたノートンのスタイルをあれこれいじり回したりせず、従来通りの戦い方で打倒アリを目指した。
そしてこの第3戦でもノートンは大善戦を貫徹したが、2-1のスプリットでまたもや涙を呑む。辛くもベルトを守り、対戦成績を2勝1敗で勝ち越したアリは、専門記者とファンの手厳しい批判を浴びる。
※いいパンチを応酬し合うアリとノートン
ノートンの勝利を支持する声は多く、地元サンディエゴの支援者たちは、「たとえ複数回のダウンを奪って圧倒的な差を付けても、アリ贔屓のジャッジはきっとドローにする。」と嫌味を言った。
※主審アーサー:マーカンテ:6-8(ノートン),副審ハロルド・レダーマン(後にHBOのアンオフィシャルジャッジ兼アナリストとして活躍):7-8,副審バーニー・スミス:7-8
ノートン戦を終えたアリは、ベロニカ・ポルシェとの3度目の結婚(ベリンダ夫人との離婚)もあり、76年はこれを打ち止めにして休養と私生活の整理に努め、77年は5月のアルフレド・エヴァンヘリスタ戦(15回3-0判定勝ち/メリーランド州ランドヴァー)と、9月29日のアーニー・シェーバース戦(15回3-0判定勝ち/N.Y. MSG)の2試合だけとなった。
そしてシェーバース戦を終えたアリに、MSGのボクシング興行を担当するテディ・ブレナー(1918年~2000年1月7日/1993年殿堂入り)は、「今回が君にとって最後のMSGになる。私がここにいる間は、MSGが君の試合を組むことはない。」と告げる。
※写真左:左からトゥーゾ・キッド・ポルトグェス(40~50年代のミドル級を賑わせたプエルトリコの人気選手),ランディ・サンディ(ディック・タイガーとエミール・グリフィスに勝った長身の黒人アウトボクサー/N.Y.ゴールデングローブス王者,1953年)
写真右:カス・ダマトとブレナー(1950年代半ば頃)
第2次大戦の後、アーヴィング・コーエン(ロッキー・グラツィアノのマネージャー)の依頼を受け、マッチメイクを手伝ったことがきっかけとなり、ボクシング興行の世界に足を踏み入れたブレナーは、1947年からMSGで仕事をするようになり、一度離れて50年代に復帰した後、マッチメイクの責任者として長く活躍。
1978年にハリー・マークソン(1930年代にスポーツ記者からMSGの非常勤広告宣伝担当に転身/力を認められてボクシング部門の統括責任者になった)の後任に抜擢されたが、ドン・キングの扱いを巡ってオーナーのソニー・ワーブリン(N.Y.ジェッツのオーナーで著名なスポーツ・エグゼクティブ)と衝突。
キング寄りのオーナーに叛旗を翻してクビを切られたが、アラム率いるトップランクに三顧の礼を持って迎えられた(1980年/肩書きは最高顧問)。
「晩節を汚すな(もう潮時だ)」と、ブレナーは遠回しに忠告をした訳だが、上述した通りチーム・ドクターのパチェコは、医師として直接的に引退を勧告せざるを得なくなり、同意を得られずチームを離れることになる。
アリやダンディとの関係はその後も続き、本当に気まずくなったのはホームズ戦(絶対にやるべきじゃないと猛反対した)の時らしいが、「本当ならマニラでフレイジャーに勝った後、すぐに引退すべきだった。ノートン戦も含めて、あれ以後の試合はすべて余計なキャリアだった。」とホゾを噛む。
アリのパーキンソン病が、例えばファッチの忠告を無視して現役を続けたフレディ・ローチのように、外傷性(現役時代のダメージに起因/ローチ本人が認めている)だと断定するのは難しい面もあるというが、アリを見続けたパチェコも記者もファンも、蓄積したダメージのせいだと確信している。
試合が終わって大分経ってからになるが、ホームズ戦に向けたトレーニング中と、試合後の短いインタビュー映像を見て慄然とした。アリの喋り方がスローモーになり、滑舌がおかしくなり出している。
◎ホームズ戦を前にしたショートインタビュー
映像のタイトル:Muhammad Ali vs Larry Holmes "The Man in the Mirror" HD
◎ホームズ戦後のショートインタビュー
映像のタイトル:Muhammad Ali on losing to Holmes
若い頃のアリがいつもマシンガン・トークだった訳ではないけれど、明らかにおかしい。歴史に「たら・れば」は有り得ず、何をいくらどう言おうがせんないことだが、アリはフレイジャーとのラバーマッチを最後に引退すべきだったと、心の底からそう思う。
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以下の記事へ続く
※チャンピオンベルト事始め Part 3 - 3 番外編 - 綺羅星のごときチャンピオンたち - 和解に触れなかったドキュメンタリー -