Trips with my RV.

RVでの小旅行。

浄瑠璃寺・岩船寺・当尾磨崖仏巡り+

2017-03-25 22:20:52 | アウトドア?
たった1日だけの休日でも気兼ねなくくるま旅に出かけられるのがキャンピングカーの利点である。そろそろ5000Km点検に向けて走行距離を稼ぎたいので、奥様の思し召し通りに浄瑠璃寺・岩船寺・当尾磨崖仏巡りにお連れする事にした。ここ木津川市加茂町は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良の平城京や東大寺からも非常に近い。

金曜日には定時帰宅して早く出発するツモリなのだが、今回も定時帰宅は適わず。現地至近での車中泊は断念し、今回も京田辺パーキングエリア(上り線)で車中前泊をする事になった。(今回も、としたのは平等院鳳凰堂等を訪ねる際には毎回お世話になっているPAだから)余談だが、ここ京田辺PAは計画当初はハイウエイオアシスとして商業開発する筈だったのだが、景気後退を受けトイレと自販機のみのパーキングエリアとなっている。PAの食べ物の自販機は超高額設定だ(・・・が、高速バスのバス停があるので、チョット高速道路外に出れば徒歩圏内でもファーストフード店やコンビニには事欠かない。銭湯は数キロ離れるので自転車が無いと入浴は難しいそう?)。

土曜日の朝8時半に起床し、先ずは浄瑠璃寺を目指す。京田辺PAから約30分で浄瑠璃寺に到着した。朝早すぎて観光駐車場が開いていなかった位だ。トレッキングシューズに履き替えたり準備をしていたら、最寄りのJR加茂駅からのコミュニティバスが到着して沢山の観光客を吐き出した。

ボチボチ歩いて先ずは浄瑠璃寺の浄土式庭園の散策から。バスから降りた善男善女の皆様は写真マニアの方々が多いらしくジックリとアングルを決めて最高の写真を撮る事に一生懸命なので、他の観光客も旅の記念に画像撮影をする事には配慮されない傾向が強い様だ。他の方の画角には平気でズカズカ進入して来る癖に、マニアの方の画角に写り込まない様に配慮しろと咳払いをして人払いをした癖に、他人が何人待機していても拘泥しないで自分のシャッターチャンスを待ち続けられるタイプの人が複数居て、奥様はお冠(オカン無理?)だった。

本堂に9体の阿弥陀如来像を安置する九体寺(くたいじ)は平安朝時代の流行で、浄瑠璃寺本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重な存在である。阿弥陀如来像を9体安置するのは、『観無量寿経』に説く「九品往生」の考えに基づくもの。(恐らく、藤原道長建立の無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)等、既に失われた多くの九体寺では阿弥陀如来は9種類の印相を結んでいたとされるが)ここ浄瑠璃寺では、中尊は右手を挙げ左手を下げる来迎印、脇仏は8体とも腹前で両手を組む、「弥陀の定印」となって居る。この九品の教えにある上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)が、現在俗にいわれる上品・下品(じょうひん・げひん)の語源とされている。私など下輩生想(げはいしょうそう)な下品下生(善業をせず悪をなした)な者は『臨終の時に善知識に遇い、仏の微妙なる法を聞いて、仏を念じようとしても、苦しみに喘ぎ念じることができない、ただただ十念を心から具足して阿弥陀の名号を唱える(称名念仏)と、念々に80億劫の生死の罪業を滅除し、金の蓮華を見て往生することができ、12大劫を経て蓮華が開敷し、観音や勢至の説法を聞いて、無上の菩提心を起すという。』で、同じ下品でも下品上生は『僧侶がお経を読んでいるところへ、三尊仏が迎えに来る』とか、下品中生は『仏・菩薩が迎えに来る』とか云われるが、下品下生は特に誰も迎えには来ないのだそうだが、乗り物として金蓮花が用意されるのだそうだ。過去記事に書いた筈だが、亡父は金色の何か植物の模様が入ったエスカレーターに乗って登って行った(往生したと、云う夢を見たのだが)、その模様は金蓮花を画像検索したら当に金蓮花だったので、ちょっと鳥肌が立った。

過去記事には変わった唐草模様と書いてしまったが、当に金蓮花模様の近代的なエスカレーターで往生して行った(風な夢を見た)。亡父には誰も迎えは来ていなかったので、恐らく、私にも誰も迎えには来ないと思うので、せめて金蓮花模様のエスカレーターで往生を遂げるべく有難いお経を葬式では唱えて戴きたいモノだ。


浄瑠璃寺パンフレット









途中で見掛けた料理屋さんは散策の後に立ち寄る事にして、岩船寺まで当野の石仏巡りを開始する。







約2万歩程歩いて岩船寺に到着した。ここは山門で入山料を支払うスタイル。







岩船寺パンフレット


御朱印を頂戴して居たら、御朱印を認められる御住職から寺の由来や御本尊である木造阿弥陀如来坐像の詳しい説明や展示物の解説を御丁寧にお話下さり感激した。又、アジサイの頃に再訪したいと思った次第。

その後は道を変えて、再び浄瑠璃寺まで当野の石仏巡りである。




浄瑠璃寺まで戻ったので、門前の料理屋さんで昼食を


本日の目的は達したのだが、時間も早いのですぐ近くの東大寺を再訪してから帰宅する事にする。

余談だが、下品下生である私がお情けで極楽に行けたとしても、12大劫の期間が成仏に必要だとされていて、1小劫=約800万年・1中劫=2小劫・1大劫=80中劫なので、15,360,000,000年・・・153億6千万年掛かるので、少しでも現世で修行を積んで極楽での修行期間を短縮しておいた方が良いとなる。ま、凡人には無理だろうが上品上生なら1週間以内、上品中生で1小劫(800万年)となるそうだ。この教えを信じれば7〜80年の人生の中で魂の階梯を高める事が最も有利になるのだろうが・・・、一般人にはなかなか難しいのだろう。これが大乗仏教・・・出家せず俗世間で生活しながら、どんな人でも(例え、悪人でも)信仰さえあれば最終的にはブッダに成れる云う仏教の最大の弱点でもあると思う。そして、実際は153億6千万年の修行を行わなくても、弥勒菩薩の到来(釈迦入滅の56億7千万年後の未来)で、この因果宇宙(太陽系)に存在する全ての生命の魂を救済する事が定められて居る。この事は、我々の母星である寿命100億年と云われるG型恒星である太陽が晩年の赤色巨星化をする時期とされていて、この因果宇宙に存在する全ての生命が完全な解脱を迎える事となるので、我々下品の民は弥勒菩薩の到来(太陽の赤色巨星化)を待つだけで解脱が完遂する。しかし、我々の因果宇宙は、巨大な虚数平面にこそ本体があるので、あらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり及び宇宙空間を統べる毘盧遮那仏=「摩訶毘盧遮那仏」(大毘盧遮那仏、Mahāvairocana(マハー・ヴァイローチャナ))=大日如来を東大寺にお詣りに訪ね縁を深めた次第。

私の仏教観に基づくと、下品下生である私の死後は、取り敢えず153億6千万年修行コースにお情けで迎えて頂いて、母星が赤色巨星化する56億7千万年を待って客体の解脱を果たし、別因果の主体である複素平面は大日如来にお守り頂きながら、宇宙が新しい因果を紡ぎ出さず客体である時空連続体を無限に再生を繰り返すに任せる事である。だが既に、全宇宙は無限に再生を繰り返す3D記録映像に成り果てて居るのカモ知れない。そうなると10の67乗とも100乗とも云われる長さの全宇宙の記録映像がただ単に繰り返し再生されて居るダケの3D記録映像の一瞬の登場人物に過ぎないのカモ知れない。この中で私は一瞬の登場を無限回繰り返していくダケなのだ。この釈迦の編み出した哲学の恐ろしき深遠さは、釈迦入滅後の弟子達には到底理解されないのだろう。




東大寺を充分堪能したらお腹が空いた。前回の奈良来訪時に満員で入れなかった釜飯屋さんに立ち寄っていた。今回も行列が出来ていて待ち時間は小1時間との事だったが、折角なので待って食べて見る事にした。



食べ終わった頃には既に行列は消えていた。



奈良公園をブラブラ歩いて駐車場に戻る。



駐車場に戻ると、車は数台しか残っていない。



(入り口ゲートは閉じて居るが、出口ゲートは解放されていて・・・17時営業時間後には出口ゲートは開きっ放しなのカモ?もし、そうなら・・・営業開始前迄に車中泊させて頂く事は可能なのだろうか?)

既に日没を過ぎたが、ノンストップ3時間チョイで無事帰宅した次第。こうして金曜夜出発で深夜現地周辺着で前泊を入れれば京都奈良方面なら休日1日だけでも充分観光射程圏内とする事が出来るなぁ〜
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