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RVでの小旅行。

先天性眼皮膚白皮膚症について

2011-07-01 21:08:49 | 独り言
先天性眼皮膚白皮膚症は医学用語であり日常語ではアルビノと云うのだろう。アルビノは、メラニンの生合成に支障をきたす遺伝子疾患であり、未だ治療法は存在しない。その遺伝子疾患は、突然変異か、劣性遺伝で発症し、人種によって多少の差こそあれ2万人に1人の確率で発生するのだそうだ。「見た目」は兎も角、紫外線から皮膚を守る機能が殆ど無く、弱視を伴う事が多いのだが、日本では病気としては扱われない。障害者として扱われるべきか否かを当事者でもない私が云々すべきでは無いが、現実にアルビノである事で要らぬ差別を受け、健常者と比べて不便な生活を余儀なくされるのだから・・・何らかの公的な庇護(補助)も必要なのかも知れないと思う。

その方のお子さんは2人共がアルビノであるから、2万分の1が2回続く偶然よりも、父母双方からの劣性遺伝と云う4分の1が2回続く偶然の方が可能性が高いだろう。その方には申し訳ないが、その方自身も色白なのでチロシナーゼ活性は高くないのカモ知れない。アルビノには複数の型が有るのだが、私如き素人が聞いたとしても特段有益な情報は持ち合わせないのでお尋ねした事はない。(恐らく、お子さまの診断の過程で御両親の毛髪でチロシナーゼ活性検査は終えられているのだと思う)

兎に角、その方は、お子さんの将来の進路について悩んで居られて、色々考えて居られるのだ。尤も・・・、普通の子供をもつ親でも、その将来の進路には心を砕くのだろう。一般論として、子供時代に将来の仕事を決めている人もマレだろうし、実際に成人後に望んだ職業に就ける人もマレだろうと思う。親としては、ヤキモキさせられる事に成るのだが、その方のお話では、外見と視力障害から、差別を受けたり、就職で不利だったりするのだそうだ。

これはあらゆる障害に共通する事カモ知れないが、症状への理解が一般的ではない事が差別を助長していると云う意見もある。だが、アルビノに関しては、一概にそうだとは云えないカモ知れない。メラニン沈着組織の色素欠乏と、それに起因する症状が問題となる。外観上は、皮膚は乳白色か皮下毛細血管の呈するピンク色で、表皮のメラニンが乏しいので紫外線への耐性が著しく低い事。頭髪を含む体毛がメラニン欠如の為に白金色か金色で、長く伸ばすと紫外線で変色し黄色に見える。そして、脈絡膜および網膜色素上皮における色素欠乏の為に・・・視力が弱い。カメラのボディに該当する部分の色素が薄く光が透過してしまう事と、光感受色素自体が晴眼者に比べて少ない事が原因だが、デジカメに置き換えると光漏れがあるボディに低解像度のCCDと云う事になりS/N比が悪い画像データしか脳に送られない事から、物理的なカメラの性能も低く、幼少期から充分な視覚刺激を得られない事から脳の画像処理側も弱いと云う事になる。この弱視の度合いは、メラニン生成量の違いで現れ、矯正すれば運転免許取得に差し支えない視覚症状の軽いレベルから重篤なケースまで千差万別だ。眼に関する色素の不足から瞳孔の色や虹彩の色も外観上の問題とされる場合もある。又、眼のカメラ部の遮光が不十分である事から羞明(しゅうめい:光を非常に眩しく感じる)がある。視細胞も、体表の細胞もメラニンの欠乏から紫外線で破壊され易く・・・白人種と比べても有意に皮膚ガン発症率が高い。但し、これらは総て先天的症状で、非進行性であり尋常性白斑症等の後天性白皮症とは異なり症状は進行しない。遺伝疾患と云ってもメラニン生成と同沈着組織だけの問題で、その他の機能には影響は及ぼさない。一般的にアルビノの人は、普通の人より知能が高いと云われる。視力の不備を聴力や触覚等々の他の感覚器官で代替するので視力以外の能力は普通の人より成長しているのだろう。

その方から相談を受けたのは、弱視傾向であるお子さんの進路の問題と、外観上を取り繕う必要性についての意見だった筈だ。教育にも熱心な方なので不理解が目に見える差別に発展しない様に学校側と協調しているのだろうが、殊、就職となれば・・・(その方の表現を借りれば)「(雇用者側が)ワザワザ面倒事を背負い込むとは思えない」と心配されているのだ。

蒙昧(もうまい)な私に云えた事は、日本には恐らく7~8000人のアルビノの方が居られる筈で、普通の人と全く同じ条件ではないにしろ大部分の皆さんが苦労を乗り越え元気に生活して居られるだろうから、障害を苦にせず前向きに生きていける精神の強さを御両親が贈る事が望ましいのではないか・・・だった。これは、私自身がアルビノでは無いし、近しい家族にアルビノの人が居ないから云える他人事なのカモ知れない。しかし、就学や就職に差し障るのは外見だけで判別出来る障害だけでは無いとも云えるし、障害とは云えない迄も本人的には乗り越えられないコンプレックスが悪影響を及ぼす事もあるだろう。

アルビノは1つの個性だ・・・と、アルビノではない私が云うのは烏滸がましいが、人は自らの痛みはより痛く、人の痛みはより軽く感じるモノだ。障害や、障害には至らない迄も乗り越えられないコンプレックスでも、自らが正しく自認する事が、自分自身の生活環境をよりよく変える最初のステップだと思っている。自分自身が認識していない事を他人に強いる事こそ難しいから・・・だ。

だが、しかし、可能なら外見を取り繕う必要性は有ると思う。髪を染めるべきだとか、ファンデーション等で肌色を調整する事は・・・、先程書いた「アルビノは1つの個性だ」を否定する事と思われるかも知れない。1つの詭弁カモ知れないが、社会生活の中で自認している自らの障害を理解して貰うべき他者は必要最低限で良いのではないか・・・と思うのだ。尤も、それを親が子供に強制するのは宜しくないカモ知れない。これが痛みを分かち合いつつ子供と接する親の難しい処なのだろう。

「普通」とは、特筆すべき属性を持たない状態を指し「十人並み」「月並み」「平凡」と云う意味で、(誉め言葉にはならない)否定的な意味合いがあったが、過去記事にも書いた通り今日では「一定基準を満たしている」「特に問題がない」と云った肯定的な意味合いで使われる時代となっている。今の世の風潮は「非凡」よりも、自らが「普通」である事を求めているのだろう。だが、その『普通』とは感覚的な標準偏差に過ぎない・・・のだろう。自らの所属する母集団に於ける「十人並み」が理想像なのだ。いや、今日的な世の風潮でも、恐らく「十人並み」を求めている訳ではなく「十人並み+α」・・・と云うか、「十人並みより少しだけ良い」事を誰しもが求めているのだろう。

「外見を取り繕う」と云う表現には否定的な意味合いが垣間見えるが、もし「普通」を肯定的に捉えるなら少しでも「普通」に近づく努力・・・と言い換えれば良いのか?人は誰しも標準偏差のど真ん中に居ない。そう云った意味合いでは真に「普通」の人は少数だ。そして、人々は「普通」を希望する癖に不思議な事に、少数しか居ない「普通」の人には憧れを懐かないらしい。「普通」である事を希望する癖に、自分が標準偏差的に「普通」な人は「普通以上に良い」人に憧れてしまうらしい。これは人の虚栄心が為せるのか、人の向上心が為せるのか?

この世にはアルビノに憧れる人も多く存在する。(行き過ぎた例では、アルビノの人肉は「権力や幸福、健康をもたらす」薬であるとアルビノ狩りを行うタンザニア周辺国の呪術を信奉する人達)地黒(生まれつき色黒)の女性がアルビノに憧れるか否かは判らないが、メラニン沈着性の斑や痣を目立つ体表面に持っている人や、後天性(尋常性)白皮(白斑)症で目立つ体表面に白斑を生じた人は「普通」に憧れると同時にアルビノに憧れるのだそうだ。(白斑症の最終的な治療法は、薬剤での恒久的白皮化だから・・・か?)

個性として達観し気にしない生き方が出来る精神力の強い人なら「外見を取り繕う」必要はないだろうが、標準偏差としての『普通』では無い事を個性として肯定し続ける事にエネルギーを注ぐよりも少しでも『普通』を取り繕って少しでも楽に生きる生き方も良いのではないか?と、ヘタレの私は思ってしまう。神ならぬ市井の一般人へのお尋ねなので、真理を問うて居られるのでは無いだろうから、「私なら・・・こうするだろう」と云う回答となってしまった。

それよりも、自らの症状を正しく自認する事が重要だと思う。私には障害と云う程度の障害は無いのだが、屈折異常弱視と色覚異常と微小角斜視等々があり視力全般が弱い。ところが、困った事に最近顕著になってきた不同視以外は自覚症状が全く無かった。私自身は「普通」に見えているツモリなのだが、清眼者に見えているのと同じ程度には見えていないと云う自覚が無いと困った事が度々発生する。自分は普通の人の様には見えていない・・・と知る必要がある。又、子供の頃は「黒んぼ大将」で表彰された位に日焼けに耐性が在ったのだが、40歳を越えた頃から日光過敏症?と云うか日焼けがサンバーンに成り易く日焼け止めを塗布していても発疹や紅斑で悩む様になったのだが、いい歳放いたオッサンが日焼け止めを塗るのは『普通」では無い様だ。そこで、私なりの対処法は、自分の弱点の「オープンソース化」である。自分のコンプレックスの根源であるリソースを公開する事で、「普通以下」である私への理解が早い・・・と思っている。コンプレックスを隠すよりも、楽な生き方だと私は思っている。「外見を取り繕う」事と有りの儘の自分を晒す事は相反する様だが、実は違う・・・と思う。必要のない広範囲の人迄に「普通」の人で無い事を殊更にアピールする事が「オープンソース化」とは思わない、ソースコードを公開する範囲は狭くても良いのではないだろうか?(これは私の障害とも云えないコンプレックスへの私なりの対処法だが、その公開範囲も体得的に学んでいくモノだ)

これは程度の差こそ有れ「人は自らの痛みはより痛く、人の痛みはより軽く感じるモノ」だし、「障害とは云えない迄も本人的には乗り越えられないコンプレックス」を持つ人の痛みを、大きい小さいと他の障害を持つ人と比べる事など無意味だ。その痛みの大きさは自分自身でしか認識できず、他者の痛みと比べる事は当事者にも出来ない。

又、我々の社会は差別を助長する様に出来ている。障礙者の「礙」が当用外となる事から「害」を代用字として「障害者」と表記する事にしたら「害」と云う文字が「周囲に害を与える」風に受け取られて差別を助長するので「障がい者」と表記する事で問題解決をした気分になれる社会だから・・・だ。差別用語と云う括りで言葉を廃すれば良いと思える社会だから・・・だ。

差別とは「多数派が多数派の基準に合わない人々を排除している」とも言い換え得る。社会と科学の進歩で被差別対象は大幅に減ってきた・・・と思う。だが、差別の無い社会・・・は、恐らく21世紀中には実現しないだろう。

       「登鸛鵲楼」
       白日依山尽
       黄河入海流
       欲窮千里目
       更上一層楼
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3 コメント

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御丁寧に (U-suke)
2011-07-02 11:07:16
店主様

詳しい解説&アドバイス有難う御座います。

私が日頃思っている事と同じなので、安心しま

した、大学生活の中で、積極的に人と関わる事

で勉強していってほしいです。

一歩一歩がんばります
返信する
Re: 御丁寧に (軽薄な店主)
2011-07-08 00:20:38
U-sukeさん、コメント有り難う御座います。先日は有り難う御座いました。

数日間、早寝(夜は9時前に就寝)生活をしていたのでコメントへの御礼が遅くなりスミマセン。炙り出したツモリは無いのですが・・・ネタに困っていて・・・

あの日の宴会の雑談で、U-sukeさんのお話に親としての私自身も当に納得したモノの、当時の頃の私自身を思い返せば・・・、私自身は「親心子知らず」で・・・。

> した、大学生活の中で、積極的に人と関わる事

> で勉強していってほしいです。

親御さんが思っている以上に、実はお子さんは大人なのだと思います。御子息が大学生活で良き友人を得られる事と、人との距離感を含めて社会人としての狡さも学んでいかれる事を陰ながらお祈り申し上げておきます。

又、遊んで下さい。
返信する
微力ですが・・・・ (じじ)
2011-07-08 08:09:54
可愛い可愛いと思っていたら、逢う度に立派に成長していますよね、店主様。
二人にはいつまでもおもろいおっさんとしてお付き合いさせてもらいますね。
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