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生真面目な明治の人々

2005年11月13日 21時59分21秒 | 日本軍・自衛隊
日露戦争捕虜収容所の写真集発見 「習志野」も人道的扱い

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礼拝所や学校が自主運営されたほか、賭博や闇市も開かれ、優遇された「松山収容所」と同様に自由で人道的な捕虜生活を送っていたことが明らかになった。
 見つかった写真集は、A4判ほどの厚さ約八センチのハードカバー本で、五十枚の写真と詳細な写真説明が掲載されている。当時、陸軍東京予備病院新宿戸山分院の一等軍医(軍医大尉)だった岡谷米三郎氏がまとめた。捕虜の口腔(こうくう)調査で訪問した軍医がその成果を記録する目的で後日、再訪問してロシア兵の生活習慣を記録した。日付は明治三十八年十二月十日になっている。
 写真集は、旧陸軍軍医学校に保管されていたが、第二次大戦の終戦前後の混乱で行方不明になっていた。
 写真には一枚ずつ詳細な説明がついており、約一万五千人が暮らした収容所内の炊事場、洗濯場のほかロシア正教とみられる礼拝所や学校が自主的に運営されていたことが分かる。
 ビリヤードやトランプを楽しむ遊戯室の風景のほか、散歩中に芝生に横たわったりする光景もある。
 手製のスマートボール(パチンコ台の原型)などでの賭博で浪費したため、資金を調達しようと闇市を開き、日本人から仕入れたたばこなどの日用品を売買するなど、自由闊達(かったつ)な日常生活の様子も克明に記録されている。
 防衛研究所図書館資料室の原剛調査員の話「ロシア兵捕虜に対して、松山収容所のみならず、習志野など全国の収容所でもハーグ条約を守り、手厚い待遇を行っていたことを示す貴重な一次資料。最初の収容所だった松山では、大本営が内外の宣伝用に撮影した写真記録が残っているが、他ではまれ。賭博や闇市まで許されていた自由な捕虜の生活がにじみ出ていて、日本の厚遇が確認でき意義深い」

引用終了

現在の日本では「戦前の日本は非民主的で軍事独裁の暗黒の時代であった」というステレオタイプが罷り通っておりますが、別に戦前の日本はなんら暗黒の時代ではなかったし、例え今現在の常識からは非常識と映るような事が一般的であったのは事実ですが、過去を現在の価値観で計ることは卑怯なやり方であり、それが今の悪しき風潮でもあります。

特に明治の人々は、欧米列強に追いつけ追い越せで一生懸命であり、国際法もよく勉強し守っておりました。一言で言えば真面目だったわけです。ですから、日露戦争の捕虜に対する処置も当然国際法にのっとって粛々と行われていたわけで、実はなんら不思議な事ではありません。また日本人のおおらかな性格ゆえ、賭博も捕虜に責任を持たせ見てみぬふり、というのもご愛嬌でしょう。

日露戦争終結時、東郷平八郎長官は負傷して佐世保の病院に収容されていたロシアのバルチック艦隊司令長官であるロジェストヴェンスキー中将を見舞い、彼の怪我を心配しそしてその奮闘を称えた、という話も残っており絵にまでなって残っております。私は気骨があって慈愛に富み生真面目な「明治武士」を誇りに思いますが、義務教育において東郷平八郎の名を教科書に見つけられない今の日本の現状を非常に悲しく思います。

本当におかしな国です。

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