日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

岩崎英重編輯『坂本龍馬關係文書 第二』坂本と中岡の死 十二 復讐=新選組=近藤勇、芹澤鴨を殺す=西本願寺に移轉

2021-01-06 10:20:36 | 坂本龍馬

 
岩崎英重編輯『坂本龍馬關係文書 第二』

   坂本と中岡の死
        岩崎 鏡川


十二 復讐=新選組=近藤勇、
    芹澤鴨を殺す=西本願寺に移轉


 淸川八郎等と別れて京都に殘れる浪士の牛耳を取りたるものは、芹澤鴨と近藤勇となりき。
 芹澤鴨は水戸藩のものにて、攘夷説を主張すれども、元来、無頼の徒にて、文久三年七月廿四日の夜に佛光寺高倉の油商八幡屋卯兵衛といへるもの、外國買易をなしたりとて、これを千本通四條の南に誅し、三條橋西なる
掲示場に梟首し、
 葮屋町一條なる大和屋庄兵衛が、天誅組の爲めに、軍資金を調達したる風聞あるを奇貨として、これを脅したるも應せざりしかば、部下を率いて、其家に發砲放火し、壬生村の下宿に引端げたりしかば、
 會津藩にても、流石にこれを其儘になし難くて、近藤勇、山南敬助、土方歳三、沖田總司、原田左之助の五名をび寄せ、密に旨を含むる所ありき。

 これよりさき、芹澤は、四條通堀川邊なる呉服商人菱屋某の妻・梅といへるものと姦通し、暴力を以て妻を奪ひ来たり、妾となせるが、其黨平山五郎もまた、鴨屋の娼婦(桔梗屋の小栄といふ)を誘拐し来て、宿所に引入れたり。

 九月十八日の夜に、近藤は、同志を率ゐて、芹澤の宿所を襲はむと忍び寄りしに、折柄、中山の妾の便所に到らむと、戸外に出で来るを他に去らしめ、沖田總司眞先に跳り入りて芹澤を斬る。

 芹澤ほ小刀を抜討、沖田の鼻の下に少しく手を負はせたりしも、土方歳三の爲めに打留められ、姦婦梅も併せて、斬殺せられぬ。平山五郎は、山南敬助、原田左之助の為めに切殺さる。
 かくて近藤勇等は二十三日に芹澤の黨田中伊織を闇毅し同十二月廿八日には、また黨野田健可の結髪中を原田に命じて不意に刺殺さしめぬ。

 これよりして、近藤を以て長となし、山南敬助を總長に、土方歳三を副長となし、威を洛の内外に振ひけるが、時々大阪に下りては、八軒家なる京家を以て、假りに下宿となし、富豪に迫りて押借強盗をなす等のこと、毫も芹澤等の所爲と異なる所なかしかば、人々厄病神の如く忌み恐れぬ。

 剰さへ、大阪町奉行組與力内山彦次郎といへるもの、沖田總司、長倉新八の兩人、相撲取を斬殺したることありし際、近藤勇を取糺したりしに、其の應接無禮なりとて、沖田は、原田左之助等と共に元治元年五月廿日の夜、天橋橋上に要撃して、これを暗殺せり。

 この年六月五日の夜、三條小橋池田屋に於て、近藤等長、土、肥等の浪士を俺殺したりし後は、彼等は浪人狩と唱へえて、白昼抜身の鎗を閃かし、土足の儘、旅人宿、料理店等に闖入し、客人を検査する等、乱暴なる擧動多かりしが、
 十日の夜、土佐人麻田時太郎といへるもの、友人四五名と共に、東山曙亭に會飲し居たりしを、會津藩士柴司の為めに怪しまれ、鎗疵を付け
られしより、會津と土藩との間に葛藤を引起し、麻田は、會藩より差遣はされたる。

 醫師を謝絶し、終に武士道相立たずとて自殺するに至りしかば、會藩似ても柴司を自殺せしめ、其過失を謝し、事落着するに至りしかど一時は土佐藩士の憤激一方ならず、畢竟かかる事に至るも、新選組の横暴に扇動せらるるによれば、壬生寺に押寄せ、其の徒を麈毅すべしとの風聞専なるより、流石に彼等もいたく改心、壬生の障營の表門へは『天笠の横町へ轉宿す』との張紙をなし、市内に潜服することとなれり。 

 其西本願寺本堂の北に、集會所と稱する大堂あり。大法會執行中は、諸國門未の僧徒等多數茲に集會して、法會に列する所にして、中日は〆切りあれと、時としては説教など執行する所なり。

 新選組にては、曩に久留来の剣客片山九市等西本願寺の演武場にありて、禁門の戰戰爭始まると共に、同志廿餘名を率ゐ門主を擁し天機伺と號し、参内し爲す所あらむとせしに、其計書發露して、片山等皆六角の獄に繫がれしことあるを奇貨とし、西本願寺を脅迫し、かの集會所を借りて、本營となさむことを迫れり。

 西本願寺に於ても、始の内は拒み居たりしも、若し強てこれを聞き入れざる時は、如何なる後害あらむも量られざれば、翌年四月に至り、終に集會所を彼等に借渡せるが、山南敬介はこの事につきて近藤等と議を異にし終に屠服せり。

 彼等は同所に『新選組本陣』といへる掛札をなし、日々試發として、空丸ながら大砲小銃を連發するより、参詣人は素より附近の老幼は恐れて近寄らず。
 西本願寺の迷惑大方ならざらければ、會藩公用人野村左兵衛、小森久太郎等に交渉して、漸く、境内にて試發のことのみは、差止め壬生の寺内に發砲の場所を設けたりしが、此比入隊せる浪士には、芦屋昇(肥後)、新井忠雄(鯖江)、武田觀柳、大石次郎、・今井祐次郎(共ニ江戸)、吉村貫一郎(南部)、中村玄道・久来部沖見(共ニ久留米)、淸原淸、安富才助(共ニ肥後)等數数十名に及び、益々勢焔を張れり。

   
  
 





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