日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

坂本龍馬  後藤象二郎への手紙(慶応三年九月二十日頃、慶応三年十月十三日、慶応三年十月中旬)

2020-09-20 09:40:21 | 坂本龍馬

後藤象二郎あて    慶応三年九月二十日頃 


坂本龍馬 

去ル頃御健(建)言書ニ国躰を一定し政度ヲ一新シ云々の御論被行候時ハ、
先ヅ将軍職云云の御論は兼而も承り候。

此余幕中の人情に不
行もの一ヶ条在之候。
其儀は江戸の銀座を京師ニうつし候事なり。

此一ヶ条さへ被レ行候得バ、かへりて将軍職は其まゝにても、
名ありて実なけれバ恐るゝにたらずと奉
存候。

此所に能々(よくよく)眼を御そゝぎ被
成、
行と御見とめ被成候時は、
(ママ)論中ニ於て何か証とすべき事を御認被
成、
けして破談とはならざるうち御国より兵をめし御自身は早々御引取
老侯(容堂)様に御報じ可
然奉存候。

破談とならざる内ニ云云は、
兵を用るの術ニて御座候。謹言。

   十月

                      楳 拝首

   後藤先生
      左右  

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(112)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

後藤象二郎あて     慶応三年十月十三日 

坂本龍馬  

御相談被レ遣候建白之儀、
万一行ハれざれば固(もと)より必死の御覚悟故、
御下城無
之時は、
海援隊一手を以て大樹参内の道路ニ待受、
社稷(しやしよく)の為、
(倶)戴天の讐を報じ、
事の成否ニ論なく、
先生(後藤象二郎)ニ地下ニ御面会仕候。

○草案中ニ一切政刑を挙て朝廷ニ帰還し云々、
此一句他日幕府よりの謝表中ニ万一遺漏(いろう)
之歟(か)
或ハ此一句之前後を交錯し、
政刑を帰還するの実行を阻障せしむるか、
従来上件ハ鎌倉已来武門ニ帰せる大権を解かしむる之重事なれバ、
幕府に於てハいかにも難
(だんじがたき)の儀なり。

是故に営中の儀(議)論の目的唯此一欸(疑)已のみ耳にあり。

万一先生一身失策の為に天下の大機会を失せバ、
其罪天地ニ容るべからず。

果して然らバ小弟亦薩長二藩の督責を免れず。

豈徒ニ天地の間に立べけんや。

                            誠恐誠懼

  十月十三日 
                                龍馬

 後藤先生
       左右 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(113)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

後藤象二郎あて     慶応三年十月中旬  

坂本龍馬

唯今田生に聞候得バ、小松者(は)おふかた蒸気船より帰るろふとの事なり。

思ふニ中島作太郎も急ニ、長崎へつかハし度。
紀州の事をまつろふ。
陸からなれバ、拾五金もやらねばならず。
小弟者(は)御国ニて五十金、官よりもらいしなり。

夫お廿金人につかハし自ら拾金計(ばかり)(か)い申、
自分廿拾(ママ)金計持居申候。

中島作につかハさんと思ふニよしなし。
                         (東京 静嘉堂文庫)


夫ニ三条侯の身内小沢庄次と申もの、
小松(帯刀)のたよりに西ニ帰り度とのこと、
是ハ相談して京ニ止まらせ申度、
先刻申上置候ものなり。

右のものも何か買ものも致し、
又西行するに廿金かりてほしいと申候。
 但シ先生に。

是ハ先生のおぼしめし次第也。
実御気のどく申上かね候。
よろしく。

其上ヱ小松へ御聞合被(つかはされ)一人同船蒸気船の儀、
御頼可レ被レ遣度(ママ)
願候。

但、中島長崎へつかハす為。

  後藤先生  
                            才谷 
      左右 
 



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