2020年07月19日 06時02分14秒 | 教育を考える
よりよい社会を創りあげていく大人を育てていくことが教師の仕事だと思って、40年も仕事を続けてきた。
言われたことにただ従い、「良い子」になるのではなく、「なぜそれをするのが必要なのか」「それが本当に正しいものなのか」を考え考え、ときには立ち止まり、反抗することも大事なことだとも話してきた。
そしてそれが「口先」でない、「私自身」の課題でもあると考え、組合活動も含め、十分とは言えないまでも、社会に向けて声を挙げる努力をしてきたつもりである。
先週の職員研修で、主幹が服務について講師を務め、職員会議について説明をした。職員会議は、意見を述べる場所ではない、挙手は行わない、これは「ずっと前から決められたもので、守っていくのは私たちに課せられている」と。
話す彼の顔を見ながら、それを黙々と聞いている職員を見ながら、「ああ、学校という組織は、もうこんなところまで堕落してしまっているのだ」と悲しくなる。すでに個人的に職場新聞を発行し、職員会議は、ここ20年で大きく変質させられていることを知らせていたので、これを読んでくれた先生からは、私に向けて、「あ、またひどい研修をしてますね」「また服務、うんざりです」といった「アイコンタクト」を送られてきます。
「服務しか話さない管理職」になり、一年と少し。「服務を守ることはみなさんを守ることです」と毎回真顔で話すが、本当に彼は守ってくれるのか。毎月の服務チェック表の提出の指示は、もちろん服務違反を未然に防ぐためだろうが、もし職員から違反者が出た場合に、「私はこれだけ指導してきた」と弁解し責任逃れをするためのものにちがいないと勘ぐってしまう。先月のチェック表で、「職員室のパソコンを退勤時に電源を切る」で△=ときどき忘れる、と書いたが、提出しても何もコメントも声かけもない。出せば終わり、「指導してますよ」のパフォーマンスにしか過ぎないのだろう。
私のクラスは、校内一の過密学級である。毎日マスクをしたまま授業をすると昼までに体力がガクンと落ちる。毎日「強い倦怠感」と健康チェックの返信を繰り返している。帰宅したら、とにかく食べて寝る、その毎日だ。子どもたちは1mのスタンスも確保できない。日々の実践で都や市から出されている「ガイドライン」は完全に私の学年は破綻している状況である。ここ何日かは300人に迫る都の感染者の発生から、いつ私の学年から感染者が出てもなんら不思議ではない。そうなれば、私はおそらくいちばんバカをみるだろう。高齢、喫煙、肺炎の既往症など、志村けんとあまりにも似た人体構造であるから。しかし、こんな学年、学級、個人的危惧について、校長から、何も言葉をもらったことがない。驚くべき鉄製管理職。
「ま、密にはなりますが、予算からして、しかたないのです。」「くれぐれも気をつけて」と全体には話すが。
ここではじめの記述に戻る。管理職が本当に私たちを守る気持ち、気概があるのならば、密を作り出す国や都や市の教育行政に対して、なんらかのアクションを起こして当然ではないのか。
彼はなぜ怒らないのか。あなたは主権者として、考えを周囲に、「お上」に、なぜもの申さないのか。あなたはこれまで、子どもたちに、「ま、理不尽なことには、我慢が大事」と話続けてきたのか。そんな青臭い(私はフツーだと思うが)ことを考え、嘆いてしまう。
そんなことを考えたら、管理職にはなれないのだろうし、また「考えることすらできない」者もいるに違いない。
自分の頭で教材を分析することなく、指導書に頼り、板書の参考書を真似、ネットで指導案を盗み見し、テレビ画面に画像を出して授業をすれば、なんとなく「体裁が整う授業ができた」と考える風潮。私の周りでは、教材の分析に着目した授業が皆無に近い。「なにを身につけさせる授業か」「そのためにこの教材はふさわしいか」自分で、まず教材を自分で学習してみる。いま、誰もやっていないことだろう。
だらだら書いてしまった。
それほどたまっていたものがあるのだろう。
よりよい社会を創りあげていく大人を育てていくことが教師の仕事だと思って、40年も仕事を続けてきた。
言われたことにただ従い、「良い子」になるのではなく、「なぜそれをするのが必要なのか」「それが本当に正しいものなのか」を考え考え、ときには立ち止まり、反抗することも大事なことだとも話してきた。
そしてそれが「口先」でない、「私自身」の課題でもあると考え、組合活動も含め、十分とは言えないまでも、社会に向けて声を挙げる努力をしてきたつもりである。
先週の職員研修で、主幹が服務について講師を務め、職員会議について説明をした。職員会議は、意見を述べる場所ではない、挙手は行わない、これは「ずっと前から決められたもので、守っていくのは私たちに課せられている」と。
話す彼の顔を見ながら、それを黙々と聞いている職員を見ながら、「ああ、学校という組織は、もうこんなところまで堕落してしまっているのだ」と悲しくなる。すでに個人的に職場新聞を発行し、職員会議は、ここ20年で大きく変質させられていることを知らせていたので、これを読んでくれた先生からは、私に向けて、「あ、またひどい研修をしてますね」「また服務、うんざりです」といった「アイコンタクト」を送られてきます。
「服務しか話さない管理職」になり、一年と少し。「服務を守ることはみなさんを守ることです」と毎回真顔で話すが、本当に彼は守ってくれるのか。毎月の服務チェック表の提出の指示は、もちろん服務違反を未然に防ぐためだろうが、もし職員から違反者が出た場合に、「私はこれだけ指導してきた」と弁解し責任逃れをするためのものにちがいないと勘ぐってしまう。先月のチェック表で、「職員室のパソコンを退勤時に電源を切る」で△=ときどき忘れる、と書いたが、提出しても何もコメントも声かけもない。出せば終わり、「指導してますよ」のパフォーマンスにしか過ぎないのだろう。
私のクラスは、校内一の過密学級である。毎日マスクをしたまま授業をすると昼までに体力がガクンと落ちる。毎日「強い倦怠感」と健康チェックの返信を繰り返している。帰宅したら、とにかく食べて寝る、その毎日だ。子どもたちは1mのスタンスも確保できない。日々の実践で都や市から出されている「ガイドライン」は完全に私の学年は破綻している状況である。ここ何日かは300人に迫る都の感染者の発生から、いつ私の学年から感染者が出てもなんら不思議ではない。そうなれば、私はおそらくいちばんバカをみるだろう。高齢、喫煙、肺炎の既往症など、志村けんとあまりにも似た人体構造であるから。しかし、こんな学年、学級、個人的危惧について、校長から、何も言葉をもらったことがない。驚くべき鉄製管理職。
「ま、密にはなりますが、予算からして、しかたないのです。」「くれぐれも気をつけて」と全体には話すが。
ここではじめの記述に戻る。管理職が本当に私たちを守る気持ち、気概があるのならば、密を作り出す国や都や市の教育行政に対して、なんらかのアクションを起こして当然ではないのか。
彼はなぜ怒らないのか。あなたは主権者として、考えを周囲に、「お上」に、なぜもの申さないのか。あなたはこれまで、子どもたちに、「ま、理不尽なことには、我慢が大事」と話続けてきたのか。そんな青臭い(私はフツーだと思うが)ことを考え、嘆いてしまう。
そんなことを考えたら、管理職にはなれないのだろうし、また「考えることすらできない」者もいるに違いない。
自分の頭で教材を分析することなく、指導書に頼り、板書の参考書を真似、ネットで指導案を盗み見し、テレビ画面に画像を出して授業をすれば、なんとなく「体裁が整う授業ができた」と考える風潮。私の周りでは、教材の分析に着目した授業が皆無に近い。「なにを身につけさせる授業か」「そのためにこの教材はふさわしいか」自分で、まず教材を自分で学習してみる。いま、誰もやっていないことだろう。
だらだら書いてしまった。
それほどたまっていたものがあるのだろう。
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