管理職も行政も教えてくれない 学校の「今のあたりまえ」 若い教師に伝えたいこと

今当たり前と思っていることも、よくよく考えてみれば、問題だらけ。若い人には、ぜひ読んで、考えてもらいたいものばかり。

若い先生へ 道徳は自信をもって指導できますか?

2020-05-17 14:30:47 | 勉強、授業
悲しいかな、私には「できません。」
 理由はいくつもあるのですが、1番の理由は「道徳」という「特別の教科」は、「科学でない」からです。例えば算数や理科は、人間が時代を超えて発見したり証明したりした事柄の集大成です。数理科学、自然科学、物理科学、化学とか呼ばれていることにも表れています。国語にしても、教え方や何を重点にするかは統一されたものはないにしても、それぞれの考えで到達した事柄を学ぶことにおいては、算数などと似た側面があります。人文科学などとも称されていますから。
 つまり教科と呼ばれているものは、人類の叡智を、言い換えれば「真理」を追求し、しっかりと受け継ぐ学問群と言えるでしょう。
 しかし、「道徳」だけは違います。「特別の」と、苦し紛れの形容詞がついていますが、これは断じて教科ではない。そう思っています。
 ですから、学問的な到達点とは関係のない「常識」「マナー」「ルール」「エチケット」・・・を学ぶものだけに、それをどう教えていいものか、いや、教えていいものか、いつも悩みながら授業を行っている私です。

 ※同じように考えている教師から、「道徳読み」「途中読み」「批判的読み」といった方法の書籍、意見が出されていますが、どうも私にはしっくりとは馴染めません。「今やらなければならないとしたら、この方法しかない」といった危機感は伝わりますが。

戦前の教訓が生かされていないことも
 2つ目の理由は、戦前の教訓が少しも生かされていないということです。
 私も戦後に生まれ、直接の戦争体験はありません。
 父方の伯父が零戦の操縦士であり、訓練中に事故死したこと、母方の伯母が代々木上原に住んでいて東京大空襲に遭い、着の身着のままで逃げ回ったこと、父が徴用された工場で、右手の親指を決断してしまったこと。そのくらいしか、私の周りの戦争の傷跡が思い浮かびません。それらは、すべてあとから聞いた話です。
 幼少のころ、伯母(空襲で逃げ回った)と池袋に行った際は、北口の地下道を通るのがとても怖かったことも、ひとつの「体験」です。地下道には、その両側に「白い装束」の傷痍軍人が何人も座り込んでいて、アコーディオンを弾きながら「寄付」を募るのです。(すでに戦後、10年以上経っていましたから、大半は「ニセモノ」だと後から聞きましたが)
 そのときは何も気づかなかったのですが、大きくなって、「もし戦争がなかったら」と思うようになってきました。
零戦の伯父の奥さんは、その後再婚。良い旦那に恵まれたとはいえ、配偶者の事故死で、当時の幸せを打ち砕かれたことも確かです。空襲で逃げ回り、財産を燃やしてしまった伯母は、その後露天商から再出発しました。生涯独身であったことも戦争の影響があったようです。父も、親指のない生涯を送り続けることになります。
 私の親類は、まだ良い方だったのでしょう。
 親を亡くし、兄弟を亡くし、夫を亡くし、さらには「外地」で人を殺め、それからの人生が、運命が大きく変わらざるを得なかった方は、それこと限りなくいたことでしょう。

 戦争に向かって突き進む時代、そして戦時中、国民を「喜んで」死に追いやったもの、疑問もなく「お国のため」として、「殺人」たる戦争にのめりこませた要因のひとつに、「修身」の存在がありました。

 詳しくは書きませんが、国家が生き方の善し悪しを決めていたのです。国のため、天皇のために、生きるのだ、死ぬのだと、子どもたちは、学校で毎日教え込まれたのでした。
 戦後は、その誤りを反省し、「修身」は廃止になりました。「国が国民の生き方を説いてはいけない」という教訓です。

 「内容が戦前とはちがうから、いいんじゃないの」と思っている方もいることでしょう。私も以前はそう思っていました。しかし、問題なのは、「国が国民の道徳、生き方を束ねてしまう」ことなのです。

 1974(昭和49)年、首相在任中の田中角榮は、児童教育指針として【「五つの大切、十の反省」】を掲げました。
「五つの大切」
1 人間を大切にしよう  2 自然を大切にしょう  3 時間を大切にしよう 4 モノを大切にしよう
5 社会を大切にしよう
「十の反省」
1 友達と仲良くしただろうか  2 お年よりに親切だったろうか 3 弱いものいじめをしなかったろうか
4 生き物や草花を大事にしただろうか  5 約束は守っただろうか  6 交通ルールは守っただろうか
7 親や先生など、ひとの意見をよく聞いただろうか  8 食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか
9 ひとに迷惑をかけなかっただろうか  10 正しいことに勇気をもって行動しただろうか
 
 なにか当たり前のような言葉の群ですが、当時、これが発表されたときに、国民から、マスメディアから、「国家が国民に道徳を説くべきではない」と、激しく批判を浴びました。上から命令調に、国民に対して「かくあるべき」を説くことが、「戦争への一里塚」だとして、拒否されたのです。(内容の是非ではないこと、わかりますか)

★時の施政者が、国民に向かって「道徳」を説くことは、戦後になっても、何回もなされています。上に紹介した以外でも、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く・・・」と発言したこと。(2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会における森の発言)最近では、幼稚園で「教育勅語」「五箇条のご誓文」を園児に唱えさせているという報道に、柴山昌彦・新文科相が10月2日の就任会見で「教育勅語」について、「アレンジをした形で、例えば道徳等に使うことができる分野は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れる」などと発言をしたり、文科省では、教育現場での扱いについて、そのまま教え込むことはできないとしつつも、「学校において教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切だが、憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定しない。」と、後退した評価、活用の道を示したりしました。いつの時代も、国民の道徳形成に、自分の考えを押しつける政治家はつきもののようです。

 「長いものには巻かれろ」といった、主体性のない国民、従順なだけの国民を作っていくことこそ、戦争に繋がるものだとされたのです。学校で教える道徳も、その延長上にあるのです。

 3番目には、教える「徳目」について、また「教材」には、大きな落とし穴があるということです。道徳は、ある場面に出会ったときに、どういった基準で考えればいいか、そして、どのような行動を起こせばいいか、その判断をするための力を養うトレーニングをする教科だと考えます。
 教科書を読めば一目瞭然ですが、そこには圧倒的に「物語」が掲載されています。そして、その教材文の大半は、ねらいとする「徳目」に結びつけようとする文脈、登場する人物の性格・言葉遣い、状況などが満載されています。
 たかだか数ページの物語の中で、子どもたちに、「誠実」やら「友情」やらを感じ取らせる目標のようですが、みなさんの実生活を思い出してほしいのです。
 たとえば、友だちから「お金を貸して欲しい」という依頼を受けたとします。あなたは、その時に何を考えますか。
「その友だちとの関係の深さ」「信頼に足る友だちなのか」「何に使うための金なのか」「金を渡して、それが友だちのためになるのか」「自分は、金を貸して困ることはないのか」「貸さないとしたら、関係はどうなるのか。反対に貸すとしたら、どうなるのか」・・・
 たくさんの視点に立った判断が必要になるのが、現実の生活です。自身の中にある「誠実」や「友情」のために、その時に考えた、たくさんの条件を駆使して結論を出すのです。
 しかし、教科書の物語には、それを可能にするほどの豊富な「手がかり」がないものがほとんどです。つまり、それらを少ない指導時間の中で、確認し、類推し、あるいは無視して、授業を終えなければなりません。(これについては、いずれ詳述します)手がかりのない(少ない)事例から、何が誠実か、真の友情かの行動の指針を出すとすれば、それは誤った判断を導くものとなるのは当たり前のことです。
 
 総論ですが、私の道徳指導の逡巡は、以上3つの疑念があるからです。
 しかし、それでも指導しなければならない現実。それについては、またお話していきたいと考えています。

かえって毒となる道徳の授業 序章

2020-04-17 23:01:25 | 勉強、授業
「身の程に振る舞う」若者を再生産させる道徳授業
 0 長い「はじめに」
 「特別」の教科となって、初めて道徳の授業を見た。教科化されるとの情報を知らされ、世間でも、また職場でも批判の大きかったこの変化の後、さて授業そのものはどのように変わったのだろうか、また授業者はどのような苦労をしているのかと思い巡らせ、興味深く会場校へと向かった。
 研究授業は、小学校5年。「きまりの意味――規則の尊重」がテーマとされている。担任は20代後半の男性教員。教員となって5,6年といったところか。ようやく学校の勤務や児童・保護者との関わりなどで、自分なりの位置がはっきりとしてくるころである。
 この地区では、教科書に、光村図書「きみがいちばんひかるとき」が採択され使用されている。その5年生版の中の、「お客様」が今回の教材だ。

 心おどる音楽が流れ、わたしたちの家族は、ショーが始まるときを待っている。
 わたしは、両親にたのみこんでやっとの思いでこの遊園地へ連れてきてもらった。わたしが大好きなキャラクターが出演するショーがもうすぐ始まる。わたしは夢中で両親にキャラクターの話をし、ビデオカメラを用意して待った。
 しばらくすると、ステージの前は混み始めた。どんどん人がやってきて、人と人の頭の間からのぞきこむか、背伸のびをするかでないとステージを見ることができなくなってきた。わたしたちの後ろにも、たくさんの人たちがショーの始まりを待っている。花壇のフェンスや木に登って待つ人も出てきた。係の人がやってきて、
 「危ないですから、花壇のフェンスや木に登らないでください。」
と、注意している。それから、
 「ショーの間は、お子さんを肩車したり、ビデオやカメラを頭より上に持ち上げたりしないようにしてください。」
と何回も大きな声で呼びかけている。
 周りの人たちは、
 「そんなこと言ったって、これじゃあ、よく見えないし、写真もとれないぞ。」
と、不満げだ。
 わたしも注意ばかりする係の人をこころよく思っていなかった。
 いよいよ、ショーの始まりだ。ところが、しばらくするとわたしたちの前に立っていた男の人が子どもを肩車し始めた。その子どものお母かあさんらしき人が、
 「やめなさいよ。さっき、注意があったでしょう。」
と、ばつが悪そうに言った。おかげでわたしはショーがまったく見えなくなってしまった。そこに、係の人がかけよってきた。
「お客様、肩車はおやめください。」
そのお父とうさんらしき男の人は、「えっ、でも……、うちの子がよく見えないんですよ。」
と、答えた。
 「危ないですし、後ろのお客様のご迷惑にもなりますので……。」
そう言われても、男の人は肩車から子どもを降ろそうとする気配はなかった。さらに、注意が続く。
 「お客様。肩車はご遠慮いただいております。すぐに降ろしてください。」
係の人の言葉で、ようやく肩車から子どもを降ろした。
しかし、男の人はむっとした顔で係の人に言った。
 「納得できないものを、勝手にいろいろおしつけるのはおかしいんじゃないですか。わたしたちはお金をはらって入場しているんです。お客様なんですよ。」
わたしが、その人の顔をびっくりして見たとき、
 「そうだ、そうだ。」
と、男の人に同調する声が出始めた。ショーは楽しい音楽に合わせて続いている。それなのに、わたしたちの周りは、いやな空気がただよっている。係の人は、少し赤い顔になって、
 「申しわけございません。ご協力ありがとうございました。」
と頭を下げた。
 (何か、変だ。)
と、わたしが思ったときだった。注意を聞かずに、こっそりステージの反対側にある木に登ってショーを見ていた人が、木から落ちたらしい。木の下には人だかりができて、さわぎになっていた。係の人は、急いでその木の方に走っていった。
 そのさわぎがおさまったころに、ショーも終わった。多くの人は「楽しかったね。」と笑顔で帰りじたくをしている。でもわたしは気持ちが晴れないまま、その会場を後にした。
 わたしはショーが始まる前の係の人の注意や、自分たちの周りで起こったことをもう一度考えていた。


この文章は、文科省で作成した「小学校道徳 読み物資料集」からの引用である。光村の方は、母親がたしなめる場面や、木に登っている客が落下するといった場面は、削除されているが、本筋は基本的に同じである。
 光村図書のホームページによると、この教材のねらいは「遊園地でショーを見るとき,きまりを守らず自分の都合を優先し,係の人に文句を言っている人を見たことで,気持ちが晴れない「わたし」の姿を通して,きまりは何のためにあるのか考えさせ,みんなで互いの権利を尊重し合い,必要なきまりを進んで守ろうとする実践意欲と態度を育てる。」とされる。

1.授業の概略
 授業の展開をすべて網羅することが本筋ではないので、特徴的なものだけを列挙する。
 ①「きまりと聞いて、どんなものを思い出しますか。」の発問から授業が始まる。それに対して「廊下を走らない。」「お年寄りに席をゆずる。」「盗撮しない。」などの意見が出される。
 ②係の人と、子どもを肩車した客とでは、どちらの意見に近いですか。」として、自分の名前の書かれたマグネットプレートを、黒板に書かれた数直線の下に貼らせる。(線分の右端には<係の人>、左端には<お客>と書かれている。)その結果は、左に誰も貼るものはなく、真ん中が数人、圧倒的に右に貼られていた。
 ③真ん中に貼った子に理由を聞く。「お客さんが見えなくなって、肩車をするのは分からないでもないから。」「ちょっとかわいそう。」という意見が出された。一方、右に貼った子の理由としては、「きまりを守れないのだから、注意して当然。」「お客は自分勝手だと思う。」「きまりがあるのを知っているのに、それを破るのは間違っている。」「肩車は、みんなのめいわくになるのだから。」と、活発に意見が出される。
 ④指導案には、「きまりは、理由があったら守らなくていいか」という補助発問をする予定が書かれていたかが、これは使われることはなかった。(指導案の「指導上の留意点」には、「きまりは、どんな理由があっても、守らなければいけないことを気づかせるだけでなく、きまりを守ることで、安全だけでなく、家族の団欒、一人一人の幸せを守るなどのあたたかな側面があることにも気づかせるようにする。」とある。)すでに「きまりを守ることは当然のこと」という授業の方向性が確実になってしまっていたためだろう。
 ⑤真ん中に貼った子の意見を、再び採り上げることはなく、したがって、何も「論争」が起きることもなく、授業は終了する。子どもたちの書いた「ふりかえりノート」の感想も、そのほとんどが「きまりは大切」「守れないのは自分のことだけを考えているから」「しっかりきまりを守れる人になりたい。」と、ステレオタイプのものばかりになっていた。
 ⑥最後の担任の「説話」は、家族の危篤の知らせを聞いて、スピードを出して車を運転し、人を轢き殺してしまった事件について話し、さらに「どんなときでもきまりを守らないといけない」ことを補強した。
 ⑦授業後の協議会では、導入の仕方の是非、マグネットによる個々の意見の視覚化についての是非、板書の是非など、「技術的な面」のみの話し合いとなり、教材そのものの分析については皆無であった。
 ⑧講師として出席された大学教授も、教材の検討については特に言及することはなく、「ねらいとする道徳的価値について、学習指導要領に基づき、明確な考えをもつことが大切」と、ノウハウ的な側面での講評しか述べることはなかった。教材についての授業者の立場の不公平性について述べたのは私だけであったが、「予想では、もっと子どもの意見がばらつくと思っていたのですが」と、結果的には、子どもたちのほとんどが「係の人」に寄ったことに満足しているかのような発言をした。
 以上が、この研究授業のあらましである。以下、私の考えを述べる。

2.授業者の授業は、「きまり絶対」の立場から始まっている
 授業者には「きまりは、みんなの安全や幸福を守るためにあり、絶対守るべきものである」という、堅い信念があるようだ。いや、授業者は、あれこれと「お客様」の指導案を集めて見ているうちに、そのほとんどが「きまり絶対」の内容であることを知り、その時点で思考停止に陥ったと思える。(後述するが、この教材文を普通に読んでも、あきらかにおかしな点が多々あるからして、気づかないはずはないと思えるからである)
 私も、インターネットで「お客様」の指導案を検索して閲覧してみた。すると、やはり意図的な「ねらい達成」のための伏線や発問ばかり目立つものばかりであった。
 例えば、こんな具合である。

 ※野球場で通路に座って観戦している人の写真、きちんと座って見ている写真を提示し、前者には、「きまりがあるのに、どうして守れないのかしら」との質問に、イラストの子どもたちが、口々に「○自分のことしか考えていないから。 ○欲だけで行動しているから。」と答えているものまで提示する計画がされている。(www.ypec.ed.jp/syoukai/doutoku/rei/s5/s5-2.pdf)
 ※気づかせることについて、「男の人が係の人に客としての権利を主張した場面で,男の人の言動を変だと思った「わたし」が実は男の人と同じ自分中心の考えをしていたことに気付かせる。」とている。(www.kumagera.ne.jp/center/plan/plan.../s.../dotoku_1.pdf)
 ※「私は、何が変だとおもったのでしょうか」では、予想される(「期待される」というべきか)意見として、「・係の人が正しいことを言っているのに、悪い方向・間違った方向に進んでいること。 ・係の人は何も悪くないのに、頭を下げて謝ったこと。 ・注意を無視して周りの人に迷惑をかけているのに、「お客様なんですよ。」と言っていること。」が挙げられていて、すでにお客は「自分勝手の悪い者」といった扱いである。
 (www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/zelprinc/.../h26/h26doutoku.pdf)

 「道徳的価値について教える立場の教師であるからには、当たり前の事ではないか。」と思われる方もいるにちがいないと思うので、私のこだわる理由を述べる。
 まず、第一に、この教材文について「教材としての価値を疑う」からである。授業を見る前に渡された指導案の最後のページに載っていた「お客様」の文章を一読して、すぐに「なんと誘導的で、品のない作品なのだ。」と思った。会場の「きまり」に抗議している客の描き方が、すでに「悪者」として扱われている。(教材文の下線の部分は、客=悪者の印象を強める効果が明白な表現である。)この文章を読んだ子どもたちが、「いや、客のほうが正しい」と言えるのか。「お金をはらって入場している」と客に言わせることによって、「金さえ払えば何を言っても、何をしてもいいと思い込む、薄汚い輩」という印象を与えさせるように、読んだ子どもを意図的に、ある方向の考え、思いに誘導する品性の欠いた教材だ。

 第二に、ここで出されている「きまり」について、誤った扱いをしているからである。
ここで出されている「きまり」とは、主催者側による一方的な「お願い」ではないのか。
きまりがきまりとして誰もが納得して機能するためには、その意図することが現実と合致していると、構成される人たちに認証されていることが必要条件である。
 では、この教材の描く「世界」ではどうか。「ステージの前は混み始めた。どんどん人がやってきて、人と人の頭の間からのぞきこむか、背伸のびをするかでないとステージを見ることができなくなってきた。わたしたちの後ろにも、たくさんの人たちがショーの始まりを待っている。花壇のフェンスや木に登って待つ人も出てきた。」という状況なのである。
つまり、この「花壇のフェンスや木に登らない」「ショーの間は、お子さんを肩車したり、ビデオやカメラを頭より上に持ち上げたりしない」というきまりは、会場の設営の段階の時点で、すでに破綻している(どだい無理な)ものなのである。
 代金をみな平等に払っているからこそ、できるだけ同じような「快適さ」で鑑賞させるのは、主催者の義務ではないのか。それを見通すことができなかった主催者に主たる責任があるのではないのか。
 現実に合わない「きまり」を杓子定規に「守らせる」ことの欺瞞性こそ、この教材文の根本的な問題なのではないのか。
 きまりを守らなければ、「みんなの迷惑となる」とあるが、客はその「みんな」に入らないのか。きまりを守ろうと、我が子を林立する人の間に座らせ、見えないショーの音だけを聞かせることは、美徳なのか。
 このような考えは、授業のはじめから、授業後の「大人の話し合い」まで、話し合われることはなかった。

 (註)同じ根を持つ「私たちの道徳」の「やくそくやきまりをまもって」に対する批判は、そのままこの教材にも当てはまるだろう。
「第1の問題は、それが絶対的で疑問をはさむ余地のないものと考えられていることです。人間が共同体を営むとき、何らかのきまりを決め、成員がそれを守らなければならないのは当然のことです。しかし「きまり」は相対的なもので、おかしな「きまり」は変えていかねばならないはずですが、「私たちの道徳」にはそうした観点がありません。
 第2の問題は、子どもたち(国民)が「きまり」を与えられ、それを守るだけの存在としていることです。国民が主権者として「きまり」を作り、国に守らせる存在であることが説明されていません。主権在民を定めた日本国憲法に違反しているといわざるをえません。」(「こんな道徳教育では国際社会から孤立するだけ」半沢英一著 合同出版)

3.学習指導要領に戻って
 学習指導要領の道徳編では、きまりについて次のように記されている。

「(10)約束やきまりを守り,みんなが使う物を大切にすること。」(1,2年)
「(11) 約束や社会のきまりの意義を理解し,それらを守ること。」(3,4年)
「(12) 法やきまりの意義を理解した上で進んでそれらを守り,自他の権利を大切にし,義務を果たすこと。」(5,6年)
「(10) 法やきまりの意義を理解し,それらを進んで守るとともに,そのよりよい在り方について考え,自他の権利を大切にし,義務を果たして,規律ある安定した社会の実現に努めること。」(中学)

 これらの表現からも分かるように、「きまり」は、すでに絶対的なものとして存在し、それを遵守することこそ望ましいと考えられていることは明白である。
 このような発想では、「きまり」がどんな理不尽なものであろうと、また現実に合わないものであろうと、それを破る者は「自分勝手」「権利ばかり主張する者」として批判されることは目に見えている。
 今回の授業も、まさにこうした「きまり=絶対」の発想からのものであり、それを変えていくという発想は生まれることはない。そして、この発想こそ、今、子どもたちの身につけさせたい「主権者教育」「シチズンシップ」に他ならないだろう。
 このような「受け身」の授業を受け続けていくと、どんな大人になっていくのであろうか。これからの日本の国を「よりよく」作りかえていけるのだろうかと、憂鬱になってくる。

 

道徳の教科化で「はしゃぐ」教育界

2018-01-28 11:21:02 | 勉強、授業
「道徳の教科化に向けていろいろな研究団体がそれぞれの方法で研究やメッセージを発信し始めているけど、表現は適切かどうかはわかりませんが、あまりはしゃぎすぎるのはどうかと思います。
特に、道徳の教科の指導をどうするかというアプローチは、本質を見失うのではないかと心配しています。いったい国家は何を狙っているのかという意味での本質を。
 道徳の教科化と同時に打ち出されているのか、他教科においても道徳的価値を「教える」ということ。
 たとえば、理科の植物の授業で生命の大切さを強調させるとか、文学的教材の読み方を特設道徳的に読ませるとか……。
 こうなってくると、もはや道徳の授業をどうするかの問題だけではなくなってくるということです。授業そのもの、いや、学びとはいったいどういうことなのかまでさかのぼって研究していかないと、逆に国家の路線にのっかり、国家優先な学校づくりに加担することになります。」

と、全生研の塩崎さんが書いていましたが、「感情・価値観を押しつける」ことに向けた道徳の教科化は、すこぶる危険なものだと私は考えています。
あくまで、科学・事実の学習のもとで、価値観を自分で作り上げていくことが教育なでしょう。
この動きは、どう考えてみても「教化」です。

この問題は、18歳選挙権のことともかかわり、「教育の中立性とはなにか」とも絡み合います。

新担任としてやってみたいこと その3

2018-01-08 09:14:34 | 勉強、授業
⑥ 指導書に頼らない

 私は、指導書をほとんど見ない。
 まずは、今、目の前にいる子ども達が、この内容で、何を知ってほしいのか、分かってほしいのか、
何ができるようになってほしいのかを考える。
 何回も何回も、教科書の文を読む。

 それから、そのためには、どのように授業を組み立てていったらいいのかを考える。
 まず、子ども達に考えさせる時間を作るのか。そうならば、どうやって「考えてみようか」という意欲が湧くのか。
 いやいや、話し合って、意見を出し合ってみてはどうか。
 ノートに自分の考えを、まず書かせよう。
 ヒントは必要か。資料を提示してみよう。映像がいいかもしれない。
 意欲的に「学んでみよう」とするための工夫は。

 などなど。

 獲得させたい力(知識・技能)→授業の形態、展開

 3点目は、「獲得の遅い子」にどうするか。
 これが肝心。たいがいの人は、これを抜かして「全員ができた」的な自己評価をする。
 お隣さんが教える、援助する。
 できた子から「先生役」として手伝ってあげる。
 私が直接、個別に指導する。
 など・・・

 獲得させたい力(知識・技能)→授業の形態、展開→全員ができる(分かる)ようにするための工夫

 そして、自分の出来栄え、到達度、理解度を測る工夫を考える。

 知識的なものなら、ミニテスト風に。技能的なものなら、実際に作ってみる、書いてみる、発表してみる。
 感想に書いてみるなど。
 

 獲得させたい力(知識・技能)→授業の形態、展開→全員ができる(分かる)ようにするための工夫→自分の到達度を知る。

 最低この4つがてきていれば、まず授業は「大崩れ」はしない。

 自分の頭で考えることこそ大事なことだ。
 心配なら、そこで「指導書」を見てみるといい。「私のほうが、きっといい授業になる」と思ったら、しめたものだ。

 はじめは、なかなかうまくいかないまでも、「場数を踏む」ことで、何かが見えてくるものだ。

 指導書はあくまで「標準」のものだ。眼前にいる子ども達は、「標準」ではないのだ。
 それぞれが個性を持った子の混合集合体である。

 指導書をせめて後回しにすること。
 あなたの指導力、授業力は、自分の頭を使わない限り、身につくものではない。

新担任としてやってみたいこと その2

2018-01-07 11:51:56 | 勉強、授業
⑤ カルテを作ろう

 カードでも、小さなノートでも、パソコンにフォルダをつくってもいい。
 私はノートに、見開きを1人分として名前を書き込みます。

 そこに、毎日何人かずつ、
 日付、思い出したこと(発言、発表、活動、友だちとのこと、気になることなど何でも)、親からの要望などを、ちょっとしたコメントをつけて書きます。長文にすると負担になって続かないので、キーワードが中心。

 4/5  中休み 教室のゴミをひろう 指示なし ほめると笑顔
 5/10 社会 縄文式土器 ノートにコメントをつけてまとめる 花マル!
 5/12 外に出ない 友だちが少ない? 体育は得意だと思ったが・・・ 
 6/7  転んだ2年生の子を保健室に U先生から やさしいねとほめる

こんな具合に。

 これを毎日、思い出したら書くことを習慣にする。
 
 これは、クラス作りにも、家庭訪問、面談、学級通信、通知表など、あらゆるところに使えます。

 最初は大変ですが、絶対にやるべきだと思う。
 自分の「子どもを見る目」の訓練にもなる

⑥ 指導書に頼らない

 私は、指導書をほとんど見ない。
 まずは、今、目の前にいる子ども達が、この内容で、何を知ってほしいのか、分かってほしいのか、
何ができるようになってほしいのかを考える。
 何回も何回も、教科書の文を読む。

 それから、そのためには、どのように授業を組み立てていったらいいのかを考える。
 まず、子ども達に考えさせる時間を作るのか。そうならば、どうやって「考えてみようか」という意欲が湧くのか。
 いやいや、話し合って、意見を出し合ってみてはどうか。
 ノートに自分の考えを、まず書かせよう。
 ヒントは必要か。資料を提示してみよう。映像がいいかもしれない。
 意欲的に「学んでみよう」とするための工夫は。

 などなど。

 獲得させたい力(知識・技能)→授業の形態、展開

 3点目は、「獲得の遅い子」にどうするか。
 これが肝心。たいがいの人は、これを抜かして「全員ができた」的な自己評価をする。
 お隣さんが教える、援助する。
 できた子から「先生役」として手伝ってあげる。
 私が直接、個別に指導する。
 など・・・

 獲得させたい力(知識・技能)→授業の形態、展開→全員ができる(分かる)ようにするための工夫

 そして、自分の出来栄え、到達度、理解度を測る工夫を考える。

 知識的なものなら、ミニテスト風に。技能的なものなら、実際に作ってみる、書いてみる、発表してみる。
 感想に書いてみるなど。
 

 獲得させたい力(知識・技能)→授業の形態、展開→全員ができる(分かる)ようにするための工夫→自分の到達度を知る。

 最低この4つがてきていれば、まず授業は「大崩れ」はしない。

 自分の頭で考えることこそ大事なことだ。
 心配なら、そこで「指導書」を見てみるといい。「私のほうが、きっといい授業になる」と思ったら、しめたものだ。

 はじめは、なかなかうまくいかないまでも、「場数を踏む」ことで、何かが見えてくるものだ。

 指導書はあくまで「標準」のものだ。眼前にいる子ども達は、「標準」ではないのだ。
 それぞれが個性を持った子の混合集合体である。

 指導書をせめて後回しにすること。
 あなたの指導力、授業力は、自分の頭を使わない限り、身につくものではない。