管理職も行政も教えてくれない 学校の「今のあたりまえ」 若い教師に伝えたいこと

今当たり前と思っていることも、よくよく考えてみれば、問題だらけ。若い人には、ぜひ読んで、考えてもらいたいものばかり。

全生研に対する無知、または歪曲に抗議する

2020-07-23 19:26:16 | 生活指導、学校のきまり
私は現在、全生研(全国生活指導研究協議会)の会員ではないが、ネットで読んだ記事で、あまりにもひどい内容のものがあったので、会員の方は
厳重な抗議と訂正・謝罪を求めていただきたく、ここに紹介します。

ツーブロックの禁止が、都内の高校で広がっていることが新聞で報道されていたため、それに関してネットで情報を集めていたときのことです。
<スピン経済の歩き方:「新人は白シャツ」「ツーブロック禁止」 会社や学校で、“謎ルール”が存在している事情 >と題する記事が目に留まりました。
なかなか内容としては面白く、校則に関して歴史的に調べ、多角的に考察されていると思えた。しかし、後半の段になり、戦後、管理的な教育がはびこってきた背景として、次のような気になる記述が目に付いた。以下、引用。

「1963年、神宮第二球場に、都内の小学生たちが参加した「スポーツの日」というイベントがあった。それを視察した瀬尾弘吉文部大臣は思わず、「だらしないな……」とつぶやいた。行進がグダグダだったのだ。取材をした新聞記者も同じ感想を抱いたようで、こんな感じで子どもたちをディスっている。「校庭に集まるのも三々五々。なにをやらしてもダラダラ、バラバラ、戦後の子供に集団性と規律がないというのは定評のあるところだ」(読売新聞 1963年7月1日)当たり前だが、60年代の日本を支えたおじさんたちはほぼ例外なく、戦前教育を受けている。それはつまり、鬼畜米英が来たら槍(やり)をついて戦えというバリバリの軍隊教育を叩き込まれた世代である。そういうおじさんたちからすれば、ピシッと行進もできない子どもは、「ロクでもない大人予備軍」に見えてしまったのだ。
かくして、日本社会の中に「秩序を乱す問題児」が増えることを危惧したおじさんたちが立ち上がる。「集団主義教育」の普及を目的とした「全国生活指導研究協議会」が、東大教授の宮坂哲文氏を中心として結成されたのである。当初は200~300人程度だったこの会は瞬く間に会員を伸ばし、63年には2000人にのぼった。
そしてほどなくして、「気をつけ」「前ならえ」が学校教育で復活する。戦後生まれの子どもたちにとっては「謎ルール」以外の何者でもないが、おじさんたちは「これで子どもたちの未来も安泰だ」と大満足だった。これが世代を繰り返すうちに「ルールに従う教育」として定着、現在に至るというわけだ。
つまり、日本の教育というのは、おじさんたちが「自分が従っていた理不尽な謎ルールを下の世代にも強要する」ことを繰り返して成り立っているのだ。」(https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2007/21/news042_5.html)

 これでは、全生研は、現在の「管理教育」の先兵として発足し、校則強化の推進役を担ってきたと思われることだろうと思います。
 私の記憶では、まったく逆ではないのか。管理教育に対する批判勢力として研究会が設立されたはずである。若かった私は、そのような趣旨で会員になったのだから。
 曲解の是正を求める。また是正を求めるアクションを。

「毅然とした指導」「強い指導」 を嗤う

2018-02-12 20:48:28 | 生活指導、学校のきまり
最近、「毅然とした指導」「強い指導」という言葉が、現場で行き交っている。
エスケープや非行など、教師側として「手に負えない」事態が進んでいるといった事情も、その背景にあるのだろうが、非常に違和感のある言葉である。
漠然とした言葉であり、その受け止め方は人それぞれで異なる用語であるが、簡単に言えば「有無を言わせぬ命令」とでも言うのだろう。
問答無用で、子どもを屈服させることは、教育の敗北を意味するものだろう。

しかし、それに対して異議を唱えるものは、ほんの一握りである。
もともと教員は「真面目」であるだけに、さらにやっかいである。その言葉を受けて、ひたすら子ども達に抑圧的に振る舞ってしまう。
違和感を覚えつつも、「これだけ熱意をもって指導した」とひた走るのである。
そうすると、ますます子どもとの距離は広がり、指導すればするほど、教室内の溝は深まっていくのである。

私の学校も残念ながら、管理職も生活指導担当も、一途に「きまりを守らせる」ことだけに突っ走っているようである。
「きまりだから守らせる」
そんな発想から抜けられないのである。

後日、さらに検討していこうと思う。

高校生の政治活動 よほど信じていないのだな

2018-01-28 11:23:01 | 生活指導、学校のきまり
よほど子どもに対しても、国民に対しても、信用していないのだなという論議が繰り返されている。
 「自由にさせると、なにをしでかすかわからない」
 そんなところだろう。
 なぜ、自分の意思で、信条で政治的な表明をすることに、「許可」「認可」が必要なのか。

 学校は、基本的に「なんでもあり」であり、それを教師が、論理的に交通整理をしてあげること。
 そんな、どーんと構えた現場にならないかぎり、子どもたちの自主性、自治など、生まれるはずがない。

「高校生のデモ参加などの政治活動をめぐり、文部科学省は29日、休日や放課後に校外での政治活動に参加する場合、事前に学校に届け出させることを認める見解を示した。今後、届け出制を導入する学校が出てくる可能性がある。
高校生の政治活動は1969年の旧文部省通知で規制していた。選挙権年齢が18歳以上に引き下げられるのを受け、文科省は昨年10月、校外での政治活動を原則容認する通知を出し、方針を転換した。この通知の解釈について、自治体などからの問い合わせに答えるため、Q&Aを作成。29日には都道府県教育委員会の生徒指導担当者らを対象にした会議を文科省で開き、Q&Aを配布した。
それによると、休日や放課後の校外での政治活動を届け出制にできるかとの問いに対し、各校で適切に判断するものとし、禁止はしない方針を示した。担当者は取材に「生徒の安全に配慮したり、政治活動に没頭して学業に支障が出ないようにしたりするなど、生徒指導上把握が必要なケースがあるため」と説明した。
また、Q&Aでは、放課後や休日も含めて校内での政治活動を全面的に禁止する校則をつくることは「不当ではない」とした。学校は教育活動のための施設であり、政治や私的活動を目的とした場所ではないというのが理由だという。
この日の会議に出席したある県教委の指導主事は「届け出制は生徒の信条に立ち入ることになり、難しいと思う」。別の県教委の担当者も「校則で縛ると、生徒が萎縮してしまう。主体的に考える力を育む妨げになり、本末転倒ではないか」と語った。一方、西日本の県の私学担当者は「届け出制なら、許可制ではないので問題ないのでは。学校は勉強の場なので、校則による禁止も踏み込み過ぎとは思わない」と話した。」(2016年 朝日新聞デジタル)

大阪に見る「ゼロトレランス」 教育放棄への第一歩

2018-01-14 10:10:44 | 生活指導、学校のきまり
レベル1
 問題行動:授業をさぼる。自分の机等に落書き。
 学校等の措置:固執での個別指導と家庭連絡。奉仕活動または学習課題。
レベル2
 問題行動:授業をさぼり校内でたむろする。先生に対しバカにしたようなことをしたり言う。
 学校等の措置:個室での複数教職員による個別指導と家庭連絡、数日間の奉仕活動または学習課題
レベル3
 問題行動:他の子のものを壊したり捨てたりする。押す。プロレスの技をかけるなど暴力をふるう
 学校等の措置:一定期間の個室での個別指導と学習指導、警察へ相談
レベル4
 問題行動:金品を奪う、盗む、たかる。殴る、蹴るなど強い暴力をふるう。
 学校等の措置:出席停止措置、警察へ通報
レベル5
 問題行動:極めて重い暴力、傷害行為、脅迫、強要、恐喝行為
 学校等の措置:警察、こども相談センター、児童自立支援施設等における対応

 これは原発の事故対策ではない。子どもを対象とした「罰則規定」である。

 「大阪市教育委員会は暴力や犯罪、いじめといった市立学校に通う子供の問題行動を5段階に分類し、学校の対応を明示した「学校安心ルール」を定めることを決めている。ルールは一覧表にして児童や生徒に配布する。保護者らの相談窓口を市教委に設けることでルール順守を徹底する。
 ルールのうち、最も軽い段階のレベル1では、子供の「学校をずる休みする」「(他の児童や生徒を)無視する」といった問題行動に対し、教職員が「その場で注意」「別室での個人指導や家庭連絡」といった対応を行うとしている。
周囲への暴力や傷害、恐喝といった犯罪行為を含む問題行動は最も重いレベル5に分類。学校が警察などの外部機関に対応を委ねることも盛り込んでいる。
 大森不二雄委員長は「学校を安全安心な場所とするには、最低限の“法秩序”が必要だ」と話している。」(産経)

 これは教育活動ではない。教育によらず、罰則を設けて児童・生徒を管理するものだ。
 ルール違反には奉仕活動。家庭連絡。固執に追いやって隔離。警察に通報。

 実際大変なのだから、この程度ならやむを得ないという考えもあるだろうが、私たち教師からすれば、権威で、罰則で対処しようとする「敗北」でしかない。発表を聞いて、思わず笑ってしまったほど、馬鹿馬鹿しい、低俗なものだ。
 1人1人の行動の原因、背景を、ていねいにくみ取り、対話と説得を通じて、問題の解決策を探っていく教育の原点が、完全に抜け落ちている。
 単純にマニュアル化された指針は、学校にはなじまない。

はいたつです のばかばかしさ

2018-01-06 07:42:10 | 生活指導、学校のきまり
全校あげて、子ども達に「はい、立つ、です」を徹底させようと、管理職から提案されたと、友人が電話で訴えてきました。
はい、と元気よく返事をして、
椅子からきちんと立ち上がり、
「~です」と、発言の文末をそろえる
それを全クラス、全員ができるように指導しなさいとのことです。

私のクラスは、ほとんどが対話形式で行っているので、もしうちの学校でも提案されたら困ってしまうなあと考えながら聞いていました。
友人の学校では、「命令」とあるものの、それがなぜ必要なのか、なぜ学校あげて取り組む必要があるのか、なにも話し合いがなかったと言います。
私は、その提案内容よりも、それについて論議がされないことに、非常な違和感を覚えました。

学校には、摩訶不思議・・・といったものがたくさんあるのに、意外となにも論議の対象、吟味の対象になってこなかったものがたくさんあります。

 直近では運動会。
 行進で、列の横を揃えることに命をかけている先生がけっこういます。
 もちろん、きれいに並ぶということも、「見栄え」からすれば必要かなとも思えますが、私にとっては学習する内容の中では、かなりランクは下に位置します。