管理職も行政も教えてくれない 学校の「今のあたりまえ」 若い教師に伝えたいこと

今当たり前と思っていることも、よくよく考えてみれば、問題だらけ。若い人には、ぜひ読んで、考えてもらいたいものばかり。

いま、見ないなあ というもの

2018-02-25 20:19:36 | その他
暇潰しに、最近見てないなと思うものを。思いつくままに挙げてみようと思う。
勘違いで。見ていないのは私だけのものも混じっているかもしれない。

チューブのチョコレート
イチゴ味の歯みがき粉
すかいらーくのデラックスハンバーグステーキ
三角錐の形をして糸のついた飴玉
バイブル、ビジネス手帳の、横にしたときに横罫になるリフィル
ブラッシー
ジャワティー
種無しすいか
テレフォンカード
飛行機から撒かれるビラ
わら半紙
いわゆる便所紙
うにくらげ
裏面が白いチラシ
インドリンゴ

たかが教育 されど教育

2018-02-25 20:14:15 | 先生たち
残りわずかな教員生活で、私の残したものは、ほとんど0に近いものである。
しかし、社会全体の流れに乗って、今の日本のような体たらくな日本人を作りだしてきた歯車のひとつとして
日本の教育を推進したと考えるならば、これほど恐ろしいものはない。

肝心な社会問題には、常に目隠しをして教えず
ひたすら、「ルールを守れ」「いい子になれ」「権利はわがまま」といった風潮を作りだし
従順で
個人主義の
そんな子ども達を作り続けてきたこと

そのうちに
「我が国を命をかけて守る」ことを
至上の価値として
戦いになんのためらいもなく
出かけるような子どもが
多数出てくることだろう

だまされない心をもち
世界の平和に目を向けた
科学的な批判精神をもった子どもは

絶滅危機にある生物となるかもしれない

ブラックな学校現場に、人材は集まるわけなし

2018-02-25 19:14:21 | 先生たち
<国公立大入試の2次試験が25日に全国で始まる。今年の志願者数は168大学582学部の募集10万547人に対し、前年より5078人少ない延べ46万5708人。近年は好景気を受けて就職先の選択肢が多いと言われる文系の人気が続く中、教員養成系学部の志願倍率は下がっている。専門家は「教員の過酷な労働環境が知られ、敬遠されているのでは」と分析する。
 2次試験は25日に前期日程、来月8日に中期、同12日に後期が始まる。文部科学省によると、少子化などの影響で志願者数はセンター試験が始まった1990年以降で最も少ない。志願倍率も前年比で0.1ポイント減の4.6倍で最低となった。
 学部系統別で見ると、教員養成は3.9倍と前年から0.1ポイント減り、人文・社会の4.9倍、理工の4.4倍より低い。教員養成はリーマン・ショック後で公務員人気が高かった2010、11年度は4.6倍だったが、その後は低下傾向にある。
 駿台教育研究所の志望動向調査によると、私立大でも教員養成系学部の倍率は低下傾向にあり、13年度の14.97倍から17年度には11.47倍に下がった。
 教員の職場環境を巡っては、文科省の16年度の調査で公立中の6割、公立小の3割が「過労死ライン」を超えて勤務していることが判明。不登校やいじめなどさまざまな問題への対応が日常化しているとも指摘される。
 同研究所の石原賢一・進学情報事業部長は教員養成への志願傾向について「高校生は身近で見て教員の仕事の厳しさを知っている。少子化で教員という職業そのものへの不安もある。景気が回復しつつある今、わざわざ『いばらの道』を歩きたくないという意識が働いているのだろう」と推測している。【伊澤拓也】>(毎日)

 アフターファイブを自分の趣味や特技、家族のために使いたいと思っている若者には、絶対にすすめられない教員だ。
 無制限とも言える勤務時間に加え、上意下達の組織化が進められ、入った瞬間から、親にも子どもにも、先輩教員と同じ責任のもとに働かせられる。
 また校長やら副校長やら、主幹やら、先輩やら、上から「助言」という名の指示や命令が降り注ぐ。
 
 未来を語るべき教員が、「今」すら生ききれていないのだから、けっしておすすめの職業とは言えない。
 
 魅力あるべき職業なのになあ・・・

新しい指導要領での「混乱」が始まった

2018-02-17 22:47:30 | 先生たち
金曜日に立川で、多摩地区の研究、研修主任、そして一般教員向けの「報告会」が行われた。
 出席は約900人だという。

 東京都多摩地区教育推進委員会 第23次計画報告会
 <「主体的・対話的で深い学び」の視点に立った授業の創造--「深い理解」の実現を目指して-->
 が表題である。

 簡単に言えば、新しい指導要領の目指すものを先取りして研究し、それを伝達する会である。

 「いやー、むずかしくって」「なんか、わけわからなくなりそうで」
 終了後、会場の外にある喫煙所で、何人かの教員が、苦しい笑いを浮かべて話していた。
 
 多摩地区から選ばれた(応募した?)16人が、それぞれ小学校部会、中学校部会に分かれて、表題に書かれた主題を、実践を通じて論理構成していく・・・の成果の報告なのだが、苦笑の教員の言う、内容が「むずかしくて」というよりも、むしろ彼ら彼女らが「難しくさせている」といった印象であった。
 悪く言えば、この報告者は、もともと「支離滅裂」な文章(新しい学習指導要領のことである)を、「きっとこういった趣旨のはず」とばかりに、つじつま合わせをし、それを現場の授業に、無理矢理当てはめる「使命感」で展開しているからである。
 なぜ批判的な見解が出てこないのか。
 批判すべき知識も力量もないのか。それとも勇気がないのか。
 指導要領についての「私見」がないのである。

 内容に目を向けよう。
 「主体的・対話的で深い学び」 
 つまり、3つの要素が組み込まれた学習をさせろと要領は言う。

 「主体的」は、自分の意思で、問題意識をもって学ぼうとする「姿勢」「心情」である。
 「対話的」は、自他の意思の交流、つまり「方法」である。
 「深い学び」、これは「浅い学び」とは異なり、「知っている」ではなく「わかっている」「できる」「活用できる」「概念を形成できる」というレベルの「学び(方・のレベル)」である。(報告書では「深い理解」という言葉に変えているが、それはそれで、また別の意味だと思える)

 このジャンルの違ったキーワードを、まとめて追求せよというのである。
 それ自体、この報告者は疑問に思わないのだろうか。

 宇佐美寛氏も書いていたが、指導方法にまで学習指導要領に入れるべきではない。
 要領に「教育目標」「学習内容」を盛り込むことは、まあよいとして、今回のように「指導方法」「学習活動」を入れ込むことは越権である。
 ある学習すべきものがあるとして、それを子どもたちにどのように学ばせていくかについては、現場の教員にしか分かるものではないはずだからである。
 「ここは、話し合いではなく、1人1人が自分の頭で考えてまとめていくことが、うちのクラスにはふさわしい」

 「アクティブラーニング」という言葉が、突然現れるや、大きな書店には、それに便乗した「雨後の竹の子」本が、書店に何種類も積まれるようになった。パラパラとページをめくって立ち読みすると、なんのことはない、これまで出されてきたものの「手直し」程度の内容で、話し合いやグループ活動について焼き直したものばかりで、目次を立ち読みするだけで、概要が分かってしまうほどだ。

 話をもどす。
 「アクティブラーニング」が、定義できない、多義である、誤解を招くとして、要領に盛り込めず、代わって出てきた「主体的」「対話的」「深い学び」を、ひとくくりにして私たちに理解させよというのでは、現場がただ混乱するだけだ。
 現に、今回の報告者の「苦悩」を見よ。

 分野の違った言葉を組み合わせているのだから、報告者は、いったんこれらをバラして注釈を加え、さらにそれらを結びつける作業に四苦八苦している現状である。わけもない。

 ずっともどろう。
 そもそも、「主体的に学ぶ」ことも「対話的に学ぶ」ことも、「深く学ぶ」ことも、なにも新しい発見ではない。これまで私たちが追求してきたものに他ならない。
 
 こうやって、空虚な言葉の「おもてなし」感覚で受けいれ、強引に、さも「新しい学び」だと、外にはしたり顔で喧伝し、内では混乱し困惑するであろう未来の学校現場がが見えてくる。

 指導方法まで口をだすな、と文科省に言いたい。

本末転倒 なにが1番大事なのか

2018-02-12 20:50:24 | 先生たち
来年度の教育課程を話し合う中で、私にとってはおそらく初めて聞くような発言が飛び出した。

1つ目は、こんな発言である。
「みなさんは時間にルーズです。会議の時間にきちんと集まっているのは、全体の3分の1。教員として恥ずかしいことです。」
「会議に遅れないように、例えば体育などは着替えの時間もあるので、授業を少し早く終わらせるようにして、会議に間に合うように子ども達を
下校させてください。」
前者は校長から。後者は、それを受けての教務主幹から。

その発言のあとに、私が発言。
「会議のために、子どもの授業を端折るということは、本末転倒ではないか。時間のない中で、少しでも早く会議を始めたい、講師がいる場合など失礼に
ならないかということは分からないでもないが、授業を軽く扱って、会議を優先的に考える発想はやめてもらいたい。みんなそれなりに会議に間に合うように努力しているのだから。無理ならばやむなく開始時間を繰り下げるしかないのではないか。」

2つ目は、明らかに「個人攻撃」とも言える発言が、堂々と出てきたこと。
「学年で打ち合わせしたことを守らない人がいて迷惑を受けた」的な発言が、学年主任から。
これは発言ではなく、書面で書いてものをまとめてプリントした中にあった。
幸いに同僚が、
「こんな個人的なものは、ここの話し合いにはふさわしくない。ここでこのように書くこと自体間違っていると思う。」
と発言してくれた。私も言うつもりでいたのだが、この発言につきる。
ただ本人が欠席していたので、どう伝わるか。または伝わらないかもしれない。気になる学年であり、学年主任が、2人の若い教師に対して、
1人には「寵愛」し、1人にはほとんど「無視」のような対応をしている。主任のわがまま、気ままを放置してきた私たちも反省しないといけない。

相変わらず若い人の発言がない。
従順とまではいかないにせよ、批判的な精神と、教師としての誇り、怒りを失っているかのようなふがいない彼ら、彼女らである。

もっともっと私たちの背中を見せていかないと。