管理職も行政も教えてくれない 学校の「今のあたりまえ」 若い教師に伝えたいこと

今当たり前と思っていることも、よくよく考えてみれば、問題だらけ。若い人には、ぜひ読んで、考えてもらいたいものばかり。

学校再開を危惧する 子ども目線で いきたい

2020-05-19 17:39:45 | 学校・組織
いよいよ学校が、6月から再開されそうになってきた。3月から5月、3か月ぶりの学校生活が始まる。
在宅の子どもたちと話をすると、かぎって「はやくみんなと遊びたい」「おしゃべりをしたい」「体育で鬼ごっこを思いきりしたい」「勉強を一人じゃなくてみんなとしたい」「給食が食べたい」など、一人で家にいるときの反動のような答えが返ってくる。
私たちも、そんな子どもたちの要求にそえるよう、ていねいで緻密な準備をしていきたい。
しかし、そんな子どもたちの思いとは裏腹に、大人たちは、「授業の時数を確保させたい」「水泳、運動会などの行事はいらない」「土曜も授業をさせよう」「通知表くらいは出せるように、できるだけ授業をやりきろう」「夏休みも、8月の三週間でいいだろう」と、ひたすら学習させ、水準をもとの状態に、いかに近づけるか。躍起になっている。
学習の遅れをなんとかしたい気持ちもわかるが、これらの提案は、いずれも子どもの目線には立ってはいない。
そう考えると、新学期は9月からにしてもいいじゃないかと思えてくる。

このまま再開させれば、どこかで、つまずいたり、泣いたり、落ち込んだり、パニックを起こしたり、病を抱え込んだり、登校を拒否したりする子が、新型コロナの感染者以上に、わき出てくるにちがいない。

「職員会議」と呼ばれる資格はない

2020-04-14 23:30:59 | 学校・組織
※前号のちょっと補足です。「ブラック」と言われるほどの超定額働かせ放題の現在に仕立て上げたのは、もっぱら政権の怠慢が主な理由ですが、同時に、当時の日教組の戦術の誤り(いつか説明するかもしれません)も大きな原因です。
 そして、辛い、痛い言葉ですが、岡崎勝が「こうした(註 ブラックと言われる)『働き方』に鈍感だった普通の教職員の『労働条件への意識の低さ』が招いた結果でもある」と言ったことも後押ししているのかもしれません。(「現代思想」2020年4月号「迷走する教育」の中の岡崎論文より)
もう「職員会議」とは呼べない伝達会
 「ただでさえ忙しい学校で、くどくどと職員会議をしていることは、時間の無駄ですよ。学期1回だって、多いくらいです。短時間でさっさと終わらせて、その分、仕事に回すのは、けっこう働き方改革になっていると思いますよ。」
 最近話した若い先生の言葉。

 「これから職員会議を始めます。あらかじめお伝えしておきますが、提案のあと、話し合いの時間はとりません。質問だけ、質問だけですよ。ここは話し合いの場ではありませんから、意見は出さないでください。」
 これも最近の職員会議の風景。

 長い議論の末に卒業式の原案が職員会議で決まる。司会者、「それでは、プリントの卒業式実施計画案の<案>の字を消してください。」こちらは、30年も前の職員会議。もともと、職員会議に出されるものはすべて「案」として提案され、話し合われていました。

 「校長先生から、来年度、体育の研究指定校にという提案がありましたが、みなさんのご意見をうかがいます。どうぞ、たくさん意見を出してください。」
 今から数年前の職員会議。めずらしく意見を求める会議となる。日常の多忙、前回も指定校を受け、少し間を置きたいなどの意見が続出し、不本意、という表情で、校長が「分かりました。研究校は受けないこととします。」の回答。
しかし、翌朝、「やはり、受けることにしました。」と、大どんでん返しの言葉。
職員会議は 開かなくてもいい?
 今から20年前に、職員会議に関して、大きな転換がありました。2000年1丹21日「学校教育法錨行規則等の一部を改正する省令」(文部省令第3号)が公布され,翌年4月1日から施行されることになりました。
 そこでは、校長の職務の円滑な執行に資するため,職員会議を置くことができる」とされ,第2項では「職員会議は,校長が主宰する」と定められました。つまり、職員会議は、校長の考え次第で、極論すれば、開かないでもいいことになりました。しかも、その性格は「決定事項の伝達」なのです。
 それまでの職員会議は、「校長は,校務の運営上必要があるときは,職員会議を開き,所属職員の意見を求めて,適正な学校運営に努めなければならない」という表記でした。
 違いがわかりますか?

 それ以降、職員会議は、あくまで「校長の都合で」開かれるものであり、意見交換ではなく、あくまで決定事項の追認の会だという性格を帯びたものに「変質」してしまったのです。

 たしかに、職員会議は、私の若いころは、例えば「日の丸」「君が代」などを巡って、その扱いをどうするかで、管理職と職員とが対立していた状況で(これはいずれ詳述します)、延々と夜遅くまで会議が続くこともしばしばでした。行政や管理職にとって、学校の運営はきっとやりづらいものだったに違いありません。(同情するわけでは全くありませんが)そのあげく、なのでしょう。それが、20年前の職員会議の「大改革」だったのだと考えます。
つまり学校の「上意下達」の完成です。仕上げは、今から5年前の「通知」です。

26文科初第424号   平成26年6月27日
校内人事の決定及び職員会議に係る学校内の規程等の状況について(通知)
このたび、一部の学校において、校内人事の決定に当たり、教職員による人事委員会等の組織を設置したり、教職
員による挙手や投票等の方法によって、選挙や意向の確認等を行ったりしていた事案や、校長が主宰することとさ
れている職員会議において議長団など校長以外の教員を議長とするような事案が国会等において指摘されている
ところです。・・・・
① 校内人事の決定に当たり、校長の選任ではなく教職員の互選等により選ばれた教職員を主たる構成員とする人事
委員会等の組織を設置し、当該組織が校内人事の原案を作成し校長が追認するなど実質的に当該組織が校内人事を決
定しているような状況は、校長の権限を実質的に制約しかねないため、法令等の趣旨に反し不適切であり、このよう
な組織は設置すべきでないこと。仮に校長が校内人事に関する組織を置く場合には、校長の指揮監督のもと必要に応
じて校内人事に関する事務を行うための組織であることを明確化することなどにより、校長の権限を実質的に制約す
ることのないように規程を整備すること。
② 校内人事の決定に当たり、教職員による挙手や投票等の方法によって、選挙や意向の確認等を行うことは、校
長の権限を実質的に制約しかねないため、法令等の趣旨に反し不適切であり、行うべきでないこと。


 校内人事は校長の専決事項である。挙手や投票で人事を決めてはいけない。

 この職員会議の「変化」は、教育界全体の流れの中の1つにしかすぎません。要するに教育行政がスムースに下に下りるような「支配」の仕組み全体を鳥瞰しないと分からないものです。あとでお話しする、「校長―副校長―主幹―指導―主任―平」といった上意下達の職階制、自己申告に代表される業績評価、給料・昇級・退職金の差別化などと、表裏一体のものです。

 私は2つ前の学校まで、「教務主任を推薦してください」「研究主任は○○先生にお願いしたいのですが」といった意見を出し合う職員会議を経験してきました。オープンすぎて、強い語気や自信満々の先生の意見が通ってしまうこともありましたが、きちんとした理由や理屈のある意見交換であり、その結果は、ほぼ全員が納得したものであったことを記憶しています。

 今や「職員会議」という言葉が空回りしています。
 広辞苑で、「会議」を引いてみると、「①会合して評議すること。何かを決めるため集まって話し合うこと。その会合。「編集―」 ②ある事項を評議する機関。「日本学術―」とありました。

 つまり、学校の「職員会議」は、もはや「会議」という名称としてはまずいものだと考えます。
 「伝達会」「承認会」とでも呼ばれるほうが妥当でしょう。

 最初に紹介した若い先生の言葉を、どのように思いますか。
 私は、この「命令承認会」では、次のような弊害が生じると思います。
 ①物言わぬ先生が多くなること。これは、必ず子どもの教育に、致命的な悪影響を及ぼすこと。
 ②職階制とも絡み合って、管理職への「忖度」過度な教員が増えること。これも教育活動を汚すことになる。
 ③話し合いがないために、「当事者意識」が欠如し、「やる気」がトーンダウンする。
 ④一部の「経営」層と、もの言わず黙々と働くものとの二極分化が生じること。百害あって・・・

 すべて「昔はよかった」とは思わないが、職員会議に関しては、明らかに「昔がよかった」と思う。


ブラック化している学校現場

2018-01-28 11:24:43 | 学校・組織
 2016年に書いた記事だが、全然変わっていないですね。

 「まだ始業式2日前だというのに、退勤は7時である。
新学期に向けての準備、来年度の教育課程の作成、学級や学年の打ち合わせ・・・きりがないくらいの過密な内容で1日が、あっという間に過ぎてしまった。

私たちには、無制限の残業が約束されている。
どんなに学年会や部会、明日の準備で退勤時間を過ぎようと、家でテストの採点をしようと、なんら調整する権利をもたない。もちろん残業手当もつきはしない。(4%の教職調整額というものがあるが、それがかえって無制限な残業の温床となっている)

「限定4項目」というものがある。
それは、
1 教育職員については、正規の勤務時間の割振りを適正に行い、原則として時間外勤務を命じないものとすること。
2 教育職員に対し時間外勤務を命ずる場合は、次に掲げる業務に従事する場合であって臨時又は緊急のやむを得ない必要があるときに限るものとすること。
イ 校外実習その他生徒の実習に関する業務
ロ 修学旅行その他学校の行事に関する業務
ハ 職員会議(設置者の定めるところにより学校に置かれるものをいう。)に関する業務
ニ 非常災害の場合、児童又は生徒の指導に関し緊急の措置を必要とする場合その他やむを得ない場合に必要な業務

つまり、学年会、部会、学級事務などは、「教員の自発的行為」であるから、時間の調整や手当ての対象にはならないということである。
しかし、現実には勤務時間内では、子どもの下校後はほとんどが会議である。
それが終わって、さあ自分のこと、学年のことを・・・と思ったときは、3時45分の休憩時間開始の時刻である。
余裕のない教員は、その休憩時間に仕事をがんばって、なんとか済ませてしまう。(100%終わらないとは思うが)
しかし、それは本来は「心身を休める」ための時間帯である。

退勤時刻の4時45分に、帰ったことは、ほぼ皆無。
みな私生活の時間を削って「働いている」のだ。

だから、真面目さでは引けを取らない教師は、知的にはどうしても後退していく。自らを高める時間がとれないのだから。疲れ切ってしまうのだから。

組合は、この「調整額」「4原則」の見直しについて、重点的に闘う必要があると思う。」

権力と完成度

2018-01-28 11:07:57 | 学校・組織
選挙の結果を見るたびに、教育に携わるものとして、学校教育にも多大な責任があることを思わずにはいられない。
「政治」について、児童、生徒にまともに語れる教師が圧倒的に少ないこと。権利について、憲法について、主権者を育てることについて、まともに考え、導くことのできる教師が、私の周りにはほとんどいない。いや、いなくなってきている。
だから、「未来の日本、世界を作り上げるのは君たちだ」と語る場面はないし、話し合いもすぐに多数決で決めようとする。
「多数決」は、そもそも、議論を尽くして、意見が別れたときに、「とりあえず」決めること。実行して、それが正しかったか検証する、少数意見も検討してみる、それが必須だろうが、それは考えもしない。そんな教師と子どもがたくさん生まれている。
主体的に、協同して世界を変えていく。そんな発想から遠ざかり、いかに上手に世間を渡るか、従順に振る舞うがが至上の目的になる教育。
その結果が、いまの選挙にも反映しているのだろう。
もちろん、安倍政権のあまりにも酷さに、目覚めた若者、市民権少なくない。しかし、彼ら彼女らは、学校教育を終えて、社会にもまれ、鍛えられた面々だ。

学校教育に未来はあるのか。

5年前と何も変わっていない学校現場

2018-01-13 22:42:09 | 学校・組織
 5年前に書いた年頭の決意
 今もまったく状況が同じなのは、悲しいことだ

「今、急いで村田栄一の本を読み返しています。
私が教員となってから、しだいしだいに、「現状に甘んじる」「現実に妥協する」ように
なってしまっていると感じているからです。

そんな、「ダメ私」を、少しでも「原点復帰」させたいと考えて・・・

どう妥協してきたか。

それは限りなく記述することができます。

①「静寂なクラス」が、「指導力ある教師の証」かのような風潮に抗することを怠ってきていること。
 同様に「おとなしい、素直なクラスを持ててよかった」かのごとく同僚が話すことに、黙認し始めている
自分がいること。

 静かにさせることはたやすい。子どもに自分の顔色をうかがうことを習慣化させればいいのだから。
 「あの先生の厳しさのおかげで、自分は成長できた」という言葉をよく聞くが、主体性を欠いて、
 ただ従順になった自分のことを気づかないだけのこと。本当の成長とは、かけ離れた認識だと、私は
 考えている。

②通知表の観点が、指導要録の観点のコピーであることについて。「別の観点だと、作業が面倒」「二重帳簿
 をつけるので煩雑」といった意見に、的確に反論していないこと。

 関心・態度を筆頭として、なにやら意味不明の通知表が、すでに市民権を得て久しい。知識、技能、論理的な
 思考・・・切り刻まれた、少しも科学的ではない観点が、はたして子ども達の学力観として成り立つのか。
 教員の「手抜き」としか思えない通知表は、私にとってなんら意味を持たない。したがって、子ども達にとっ
 ても無意味である。

③卒業式、入学式で、「日の丸」「君が代」が全く論議されなくなったことへ抵抗する意識が薄くなっている
 こと。

 とりわけ東京の教育委員会の出した通達は、権力ある側の傲慢さの象徴である。
 こんなもので本当の愛国心など、生まれるわけもない。
 なのに、現場では、すでに会議の、いや日常の話にも出てこない現実。若い人は、ますます「政治的無知」となって
 いく。そんな教師が、未来の主権者を作っているのである。世も末。

④多忙化を、もっとアピールしていくこと。

 都教委は、「多忙感」だという。すりかえ、ペテンである。
 感じ、ではなく、実際に忙しいのだ。」