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ネット坐禅会・39・・・『般若心経』の世界❹ 空の中の仏教教理

空相とは言え、現実にはいろいろなことがあります。その仏教教理を提示ながら「空」を説いているのです。

(1)五蘊が無い

是故空中。無色無受想行識。

それ故に、「空」という智慧の見解から見れば、「色」という物質は無いことと同じであり、「受」→「想」→「行」→「識」という、心が感じて行動認識に深まって行く精神作用も、それぞれが無いことと同じです。

(2)六根・六境・六識(十八界)が無い

無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。無眼界乃至無意識界。

同じことが、眼・耳・鼻・舌・身・意(心)の「六根」と呼ばれる感覚器官も無いことと同じであり、その「六根」がそれぞれに対応して感知する「六境」と呼ばれる色・声・香・味・触(物質)・法(現象)という存在が、無いことと同じであり、それらが対応して出来上がる眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界という固定観念も無いことと同じであるのです。

(3)十二因縁がそれぞれに無い、またそれが尽きて無くなることも無い

無無明亦無無明尽。乃至無老死亦無老死尽。

迷いの根源である無智という「無明」は無いことと言えるが、尽きることも無いと言える。同様に無明から派生して迷いが深まって行く→行→識→名識→六処→觸→受→愛→取→有→生→老死も存在しないと言えるし、尽きることが無いとも言えます。

(4)四諦がそれぞれに無い

無苦集滅道。

私が、真理に到達した時に分かった、どうにも解決出来ない「苦」が積み重なり苦悩へと広がるが「集」、空の智慧があれば無くすことが出来る「滅」、そのためには正しい生き方「道」が必要であるという「四諦」の道理すら、空の立場からは不要のことでもあるのです。

(5)智無い

無智亦無得。

まとめて言えば、ハンニャという「智慧」も必要なければ、悟りを「会得」するとか、何かを知る、得るなどということも「空」なのです。

 ここの部分は、『般若心経』の多くを使って、「無」を、つまり無いことを説いています。何が無いかというと、仏教教義の、五蘊、十八界、十二因縁、四諦、智慧、成道などという根本教理そのものが必要無いものであると説く大胆な説明の個所であります。もともと、教えそのものは、不安や悩みや、疑問や戸惑いがあるから必要であり、お釈迦様の教えも生まれた訳です。その苦悩が、「空」という智慧から見れば必要無いことであり、それ故に「無い、無い」と、ないないづくしの表現が続くのです。

 しかし、大切なことは、「空」とは言っても、人の思惑ではどうしようも解決できない苦悩の現実が尽きることもないという「色」が実体としてでは無くても、空虚なものとしてでも、しっかりと「有る」訳で、その「有」の仕組みを仏教教理は解き明かしているのです。「無常」「縁起」「智慧」「慈悲」などという教えです。ここの部分では、「無」に目が行きがちですが、「乃至・ないし」として省略されている迷いの構造の奥深さを知ることが大切なのです。

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