goo

ネット坐禅会・その16・・・曹洞宗の坐禅・釈迦の悟り

ここからは、曹洞宗の立場からの禅の精神、考え方、現代的な意味を発信したいと思います。

道元禅師は、比叡山で得度し修行に励みましたが、当時の比叡山は総合大学のように僧侶の数も多く、疑問もなかなか解決できなかったと言われています。特に主流の考え方となっていた、本来ほとけであるという教え(本覚法門)にもかかわらず、なぜ修行の必要があるのかに疑問を感じていました。そして、本格的な禅の教えを求め、栄西禅師が建てた建仁寺に入門しました。その後、中国(宋)に渡り、如浄禅師より曹洞宗の系統の「只管打坐」の禅の教えを日本に伝えました。

その教えのポイントとなることを段階的に記してみたいと思います。

1.釈迦の悟り

お釈迦様の悟りのきっかけは、坐禅でした。しかも、苦行としての坐禅ではなくて、悟ろうとか、特別な境地を得ようとかの思いを離れて坐禅に打ち込んだと言われています。そのことを伝える伝記によれば、当時の修行僧が守たことにより、仲間の僧から、堕落したと思われて離れて行ったとされています。すなわち、ただ自らに向き合う「只管打坐」の坐禅であったと思われています。

やがて悟りを開き、仲間の僧からも悟りの偉大さを認められ、この自らの中にある坐禅による悟りの境地を目指して、多くの弟子に受け継がれ、大きな教団へとつながって行きました。

 インド、ブッダガヤの釈迦が坐禅をして悟りを開いたとされる菩提樹の下

道元禅師は、このことに着目して、坐禅こそ仏教修行への「正門」と考え、仏道を目指すものは、只管打坐による坐禅こそ大切であることを確信されていました。道元禅師の著作の『弁道話』には、次のように書かれています。

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、又、三世の如来、ともに坐禅より得道せり。仏法を住持せし諸祖ならびに諸仏、ともに自受用(じじゅゆう)三昧(ざんまい)に端坐依行するをその開悟の正しき道とせり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。」お釈迦様や祖師方は、み仏の教えをそのまま一筋に伝えました。それは、この上ない悟りの境地 (阿耨菩提)を得るための最上で作意のない方法に拠るものでした。そして、代々に渡ってそのままを伝えて、道を外さないものであり、自己が持つ仏の性質と一体となることを基本としました。歴代の祖師方はこの境涯に浸るために、正しく坐る坐禅によって悟りを開く道とし、み教えへの正門としてきたのです。 

この文は、道元禅師が中国から帰国し、本格的に禅による布教教化を始める頃の開始宣言のような記述でもあります。曹洞宗の坐禅の捉え方は、このようにお釈迦様の坐禅による悟りを歴代の祖師に受け継がれて、基本的な考えとされてきました。

ただひたすらに坐る実践に意義があること。(只管打坐)

祖師から祖師に、正門として一筋に伝えられてきたこと。(仏祖単伝)

何の思い計らいもない坐禅。(無為無作)

これらに、曹洞宗の禅の捉え方の特色があります。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ネット坐禅会... ネット坐禅会... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。