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ネット坐禅会・その17・・・曹洞宗の坐禅・仏性

只管打坐の坐禅の背景には、もともと自分の中に素晴らしさがあるということが前提に考えられています。迷いのもとは、むしろ自分自身による余計な思慮分別にあり、それを排除する行の大切さを求め、その行いに生きるという精神につながっています。

2.仏性

自らの中に仏の性質が宿っているという発想は、インドでは大乗仏教の成立の頃から広まってきました。『法華経』のすべての人は成仏できるという教えや、『大乗涅槃経』の「一切衆生悉皆成仏」という思想は、「仏性」と呼ばれて仏教発展の大きな力となりました。仏(如来)の胎児が宿っているということから、如来蔵とも呼ばれています。

禅宗の考え方では、お釈迦が坐禅によって悟られたのも、もともと仏性があったからとして、本来の素のありのままに目覚めることを求め、自我による思い計らいを止める坐禅の実践を進めて来ました。このような思想は、中国、日本の風土とも合い、自然をも含めた自他が一つになる境地を目指したものです。道元禅師が修行していた頃の比叡山では、この仏性観が強く、「山川草木悉皆成仏」と、自然をも含めて仏様と考えられていました。この極端な考え方を「本覚思想」と呼んで、近年、無我論、縁起論を基盤とする仏教精神に反すると批判される動きもありました。

道元禅師も、本来ほとけであるにもかかわらず修行をする意味に疑問を持ち、仏性についての仏教的見解を打ち立て、只管打坐、即心是仏の教理を展開いたしました。しかもその背景には、確固たる仏の存在を視野に入れ、そこに至る道は開けているはずであることを確信し、余計な邪念を排除する仏道を求める心の大切さを説いていきます。

「原(たず)ぬるに夫れ、道本円通、いかでか修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。(『普勧坐禅儀』)」もとをたどれば、仏道は、もともと真理とつながっていてすべてが調和しているので、どうして修行とか悟りとかに心を費やす必要があるのでしょうか。仏の教えは、すでに自在に満ち満ちていて、思いめぐらして、他に求める必要はないはずです。

と、道元禅師は述べ、瑩山禅師も、仏性を開明する正門の坐禅について解説し、道元禅師の言葉を捕捉しています。

「若し一時も此の三昧に安住すれば、則ち直ちに心地を開明す。良に知る、仏道の正門なりと。今坐禅は、正に仏性海に入って、即ち諸仏の体を標す。是を本来の面目を露すと名づけ、亦本地の風光を現わすと名づく(『坐禅用心記』)。この単伝正直の仏法は、最上の中に最上なり。仏祖の道はただ坐禅なり。無所得無所悟にて端坐して、時を移さば、即ち祖道なるべし。坐は仏行なり、坐は不為なり。自己の正体なり(『正法眼蔵随聞記』。」もし、一時でも坐禅によって(祖師方が得た)思い量らいを離れた境地に落ち着けば、即座に本来の仏の心が明るく開いてきます。ここで気づきます、「ああ、この坐禅こそが、仏の道への正門であった」と。今こそ坐禅は、本来の仏の真っただ中に入って、即座に仏様方と同じ境地を現します。これを「本来の仏の性質を露わす」と呼び、また、あるべき場所の姿を現すということができます。この一筋に伝わった正しく真っ直ぐな仏の教えは、最上の中でもさらに最上のものであります。お釈迦様の悟りへの道は、ただひたすらの坐禅です。何かを得ようとか悟ろうとせずにただ身を正してきちんと坐って、時を過ごせは、これこそ祖師方が築いてきた道なのです。坐禅は仏としての行いであり、何の目的も無いものであり、自分の姿そのものであるのです。

つまり、仏道への正門である坐禅の背景には、自己の中の仏さまの存在があるわけで、この仏性の理解が禅の精神理解するカギと言えます。本来のあるがままの自分の本質と、自然とを一つに見て、自然に学ぶ禅の言葉が多いのもこのことに由来しているからです。

清水、本と表裏無く、虚空終に内外無し(『坐禅用心記』)

柳は緑 花は紅い

一塵を集めて山と為す

流水 先を争わず

など、たくさんあります。しかし、仏性を正しく理解することは難しく、曹洞禅には特有の解釈があります。

 

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