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大分県戦国城址めぐり

大分県から戻ってきました。写真は別府湾沿いの向こうに見える高崎山。
地震!!びっくりしました。 ここのところ、出先で地震に遭うことが多いのです。

大分県へは、E寺安居会あんごかい(同窓会)が当地で行われたためです。全国から法友が参集して楽しく過ごしてきました。
翌日、歴史好きの仲間とともに、大分県の城めぐりをしてきました。

  

先ずは、臼杵(うすき)市にある臼杵城址です。大分市と津久見市の間に位置する臼杵市は、キリシタン大名としても名高い大友宗麟の居城として栄えた城下町です。城の周辺には今でも武家屋敷の名残もあり、美しい街並みです。
 

 宗麟は、南蛮貿易に才能を発揮して冨を築き、九州全土を治めるまでになり、九州探題の職にも就きました。1578年には宣教師カブラルについてキリスト教に入信し、日向に殿堂の地を築こうとしたが、島津氏との戦いに敗れ志を絶たれました。
 江戸時代には、稲葉氏が譜代大名として代々勤め、質素倹約、勤勉という臼杵人気質を作ったと言われています。味のある町です。

                     

続いて訪れたのが、日出(ひじ)町。別府湾沿いを国東半島方向に少し北上した位置にあるのどかな入り江の町です。

遠く、高崎山がうっすらと見えます

海を臨む景勝の地に、初代藩主木下延俊が築城した陽谷城址があります。立派な石垣が残されていますが、城内は現在、小学校と中学校になっています。


                                

そして、さらに北に進んだ沿岸にある杵築(きつき)城へ。もともとこの地区の名が「木付」で、大友氏の末えいがこの地に木付城を築城し、姓名も木付氏と名乗ったそうだ。この城は海と断崖に囲まれた要害の地で、島津氏をはじめ幾多の強敵をも撃破したため、別名勝山城とも呼んでいるとか。この木付氏も豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に意に沿わずに自害、終えんとなった。その後、能見松平家が受け継いだが、下賜の朱印状の文字が「杵築」と間違われたことから、この名になったと言われる。

               

現在、町の協賛の力で天守閣が再建され、沢山の資料が展示されていました。

それぞれ、数奇な歴史の変遷があるものです。天守閣の最上階から上空を見渡すと、優雅に鷲(正式名称は?)が旋回していました。威風堂々たる風格はこの城郭に相応しい。。。
   

                                   <つづく>





 

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コメント
 
 
 
お疲れ様 (kenryu)
2007-06-11 09:19:22
こちら、ここ2~3日朝夕に暖房の恋しい日々です、もう6月だというのに・・・。
お帰りなさい、そして、近況報告有難うございました。日出町のE師や旭川のK師、佐賀のS師からそれぞれ報告がございましたが、「香り」がようやく届きました感です。ハプニングがあったりでしたようですが、無事ご帰還されおめでとうございました。奥方のご実家へも立ち寄られたのでしょうか?
来年こそは参加したい!!!!!!ですが・・・・御遠忌に遮られるかも知れません
 
 
 
→kenryu兄 (tera)
2007-06-11 20:37:26
楽しかったです。今回は大分のみです。
ご夫妻参加は5組、年々多くなりますね。

来年は群馬県ということです。一時は貴県という案がありましたが、まあ良かったですね。
 
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