情報分析研究促進開発機構

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まっすぐに飛ぶミサイル~エリア88

2005年04月30日 21時20分38秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「エリア88」は新谷かおる氏原作の航空戦闘漫画だ。中東の産油国「アスラン王国」を舞台に政府軍の傭兵部隊の戦闘機パイロットとして戦う風間真を中心に描かれる。テレビ朝日系でアニメーション化もなされ、現在はNTT東日本/西日本のフレッツスクウェアにおいて無料の動画配信がなされている。当然ながら、航空戦闘がストーリーの中心に据えられているが、原作が古いだけの事はあり登場して来る航空機も懐かしい名機ばかりだ。主人公の風間真が登場するのはF-8Eクルセイダーだし(ベトナム戦争初期の機体)、他の主力機はA-4スカイホークにF-4ファントムだ。何しろ、風間真の相棒のミッキーが乗るF-14トムキャット(2008年頃までに米海軍から退役する)が新鋭機なのである。当然ながら敵機もミグ15や17である。他にも珍しい機体が出てくるF-105サンダーチーフ(ベトナム戦争で活躍した戦闘爆撃機)やスウェーデンのサーブ35ドラケン等だ。近年の航空作品には必ず登場して来ると言って良いSu-27シリーズやラファル、ユーロファイター、F-22ラプター等は姿形も現さない。
 そして、この「エリア88」の素晴らしいところはミサイルが直線の軌跡を描いて目標に向かう点である。アニメーションで描かれるミサイル描写には大きく分けて2パターンがある。一つは「機動戦士ガンダムSEED」に登場して来るミサイルのように実質的に無誘導のロケット弾にしか見えないタイプであり、もう一つが「超機動要塞マクロス」のように複雑な軌跡を描いて飛翔するタイプである。現実のミサイル(特に空対空)は赤外線誘導にせよ電波誘導にせよ基本的に敵機の未来予測位置へと飛翔していくパターンが大半である。つまり、ミサイルシーカーの範囲内に敵機がいることが根本要素なのであり、飛翔時間内に敵機がロックオンから外れる機動を示してしまえばミサイルは遥か明後日の方向へ飛んでいってしまう。その部分をこの「エリア88」は忠実に描き出していると思うし、このミサイルの制限要素が一種の郷愁を醸し出しているのも事実だ。ミサイルの能力に限界があると言っても、近年の新型空対空ミサイルの性能向上は著しい。例えば、以前の赤外線誘導型は敵機の後方からでなければミサイルを発射出来なかったが、現在では前方象限からの発射も可能になっている。ベトナム戦争時の電波誘導型空対空ミサイルの命中率は数%と言われたが、最近では電子装置の性能が飛躍的に向上している為に命中率は90%を超えるまでになっていると言われている。ベトナム戦争ではミサイルの時代と言う事で機銃を搭載しない戦闘機が多く使用され、旧式のミグ戦闘機の機銃で撃墜されると言う事態が相次いだ。その結果、その後の戦闘機では機銃の搭載が当たり前となっている。しかし、新世代戦闘機ではミサイルの性能向上と併せて米軍等では再び機銃不要論も出て来ている(無論、その背景にはAWACS=早期警戒管制機等とのリンクによって絶対航空優勢を米軍が世界中の何処においても確保出来ると言う自信があるのであるが)。
 ミサイルがまだ信用性を確立していなかった時代の懐かしき航空戦を、この「エリア88」は描き出している。

王権神授説という愚論~Destiny考

2005年04月24日 12時01分48秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」も中盤を迎えており後半に登場してくる新型MSがHP上等で明らかになって来ている。例えば、本作の主人公たるシン・アスカはディスティニーガンダムに搭乗する事となるし、作品中において絶対的な力を持っているキラ・ヤマトもスーパーフリーダムガンダムに搭乗する模様だ。この作品が国家が最高主権を持つと言う現在と同様の国際秩序を持ちながら、その中にキラ・ヤマトそして「アークエンジェル」という武力を私する異端分子が存在し、その異端分子がこの世界において最強の力を保持していると言う異質性については当Blogにおいても以前から言及している。どうも各種情報を総合すれば、この状況は改善する事無くストーリー後半においても悪化する一方のようである。
 今回は題名に「王権神授説」という言葉を掲げた。王権神授説とは「”国王の支配権は王の先祖が神から直接に授けられたものであるから、失政の場合も国民への責任はない”とする絶対王政を正当化するイデオロギー」(「世界史B用語集」、山川出版社、1995)である。この世界において武力と言う側面における支配権は、地球連合にもザフトにもない。それは核エネルギーを動力源とするフリーダムガンダムの強大な武力とキラ・ヤマトのSEEDという卓越した能力に依拠している。そして、キラと「アークエンジェル」はその武力を「正義」という名の恣意的解釈によって行使している(この点において第26話に於けるアスラン・ザラの指摘はある意味で正しい)。つまり、「失政の場合の国民への責任」は戦闘における必要最低限度の犠牲と解釈出来るが、この場合は王権神授説等より更に性質が悪いのかもしれない。キラは王権を神授されたと言うよりも自身が「神」となってしまっており、神政となっているからである。この神政の致命的欠陥は補償が為されないと言う事であろう。近代国家は徴兵制によって国民皆兵体制を採り(徴兵も志願制も本質的に相違は無い。此処での意味は身分階級差による差別が無いと言う点である)、国家はその国家の命令による犠牲者に対しては補償を行う事になっている(現実に当てはめれば、戦前の我が国における靖国神社のようなものだ)。近代国家として存在しているであろう地球連合でもザフトでもそれは機能しているのであろうが(それは無論、心理的側面まではカバーしていない)、キラと「アークエンジェル」にはそれを遂行する能力は無い。つまり、キラと「アークエンジェル」がもたらす必要最低限度の犠牲者はまさに殺され損という形になっているのである。
 このように考えると、「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」は一種の革命戦争を描こうとしているのかも知れない。OP映像等にはキラのスーパーフリーダムガンダムとアスカのディスティニーガンダムが干戈を交わすシーンが見られるが、これは前作によって誕生した「神」であるキラ・ヤマトを民衆(地球連合/ザフト)の代表であるシン・アスカが打倒しようとしている姿のかも知れない。ここでは敢えて「神」が現存する人間――「現人神」――となっている点は指摘しないでおこう。この作品が現実の国際政治へのアンチテーゼを含んでいるとする主張が正しいのであるならば、それは極めて恐ろしい現実を我々の前に導き出してしまうからだ。

一衣帯水を超えて

2005年04月13日 23時08分06秒 | 世情雑感(世界情勢)
 中国の反日デモについて様々な意見があるのは事実である。
 日本側に原因があるとする意見も、中国側に原因があるとする意見も何れも真実を含んでいると言う事もまた真実である。日本側の原因として指摘される歴史問題に関して言うならば、国民の多くが靖国問題を重要な国内問題として認識していないという状況において政治が先走りをしているのは事実である。中国側が反対する国連安保理常任理事国入りもこの歴史問題を背景にしているのだから、歴史問題を日本側が表面的にでも凍結してしまえば、中国側は格好の口実を失うというのは一つの真実だ。一方で、中国政府が国内不満のはけ口として反日を煽っていると言う事もまた事実である。特に一党独裁国家である中国にとって国内の不満を外国の脅威に転嫁するのはもっとも簡単な国内掌握法である。しかし、中国にとって日本を完全に敵に回すことは出来ない。日本は政治面でも経済面でも無視するには大きすぎる存在だからである。特に米国との関係強化は嫌がおうにも日本の東アジアにおける政治力を強化している。
 この現実において、日本国民の反応は驚くほど冷静だ。
 それは、この反日デモが我々が何処かで見た光景だからである。その光景が出てくるのは歴史の教科書の中の近代の中国ナショナリズムの高揚に関しての部分だ。五・四運動等での反日デモの情景は現在の光景に重なって見える。つまり、我々は過去の過ちを繰り返す意思は無いのである。例え中国政府が在留邦人を守る意思が無いと言明したとしても、日本政府が自衛隊を邦人保護の目的で派遣する事は無いだろう。このように考えるならば、中国や韓国がしばしば主張する日本は歴史の過ちを繰り返すという主張が如何に滑稽なものかが分かると言うものだ。
 右翼化と言われて久しいが、現在日本は戦前の日本とは異なった論理で動いているのである。

階級無き軍隊~Destiny考

2005年03月23日 23時34分39秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」に登場するザフト(ZAFT)は階級無き軍隊である。それは第22回「蒼天の剣」においてハイネ・ヴェステンフルスの台詞「俺たちザフトのMSパイロットは・・・フェイスだろうが赤服だろうが緑だろうが」に現われている。ザフトが階級が無い理由については、ザフトの兵士達が完全な義勇兵で平時は別の仕事を持っているから等と言われている。しかし、指揮の流れ自体は存在している。それは服装によって大別する事が出来るだろう。緑服は兵士、下士官に相当し、赤服は尉官級の将校で白服は佐官級の将校であるようだ。黒服は参謀職乃至は根拠地部隊将校が着用するようである。更に先任を優先するという概念も存在しているようだ。アスランとハイネは共にフェイスだが、アスランはハイネが先任であるとしてハイネを立てている。一方でミネルバに搭乗しているフェイス三人ではタリアが最も後にフェイスを拝受しているが、赤服よりも白服のタリアの方が上位に立っている。しかし、フェイスは個々人での独自の行動が認められている為、タリアはハイネへ要請の形で指揮を行っている。
 軍隊とは階級社会である。これは指揮命令系統をはっきりとさせる為だ。上官が戦死や負傷して命令できなくなった場合は速やかに次の階級の者が指揮を取らなければ部隊は崩壊してしまう(兵士は個々で判断する権限は無い)。部隊を維持する為にも指揮の継承順位は厳密に定められている。そして、各階級で指揮できる部隊の規模もおおよそ決まっている。師団なら中将、連隊なら大佐と言ったようにだ。これは世界中の軍隊で採用されているから、多国籍部隊が編成された時等にも有効に機能する。もっとも、階級無き軍隊というものは歴史上存在しない訳ではない。例えば、一昔前の中国人民解放軍はその典型で階級無き軍隊を標榜していたが、その結果は1979年の中越紛争での敗北であった。この後、人民解放軍は階級を復活させている。
 SEED世界のザフト軍が志願による軍隊であるとするならば、ますます階級制は必要な制度だろう。ザフトは隊長制を取っているから(クルーゼ隊と言ったように)その部隊内での指揮は問題ないかも知れないが、複数の部隊が同時に活動する場合にはそうも行かないだろう。各部隊が各個に存在し、要請と言った形でしか実質的に共同作戦を行えないからである。無論、コーディネーターの身体的能力の強さが個々での戦闘を可能にしているという見方も可能であるが、このザフトの指揮命令系統は極めてナンセンスなシステムであだろう。

笑劇の衝撃

2005年03月17日 21時10分43秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 講談社から刊行されている漫画「School Rumble」(少年マガジン連載)は相変わらず笑劇だ。今回の大半はサバゲーをテーマとしているのだが(小生の記憶に間違いなければこの漫画は学園ラブコメだった筈だ)、その中には下らないが笑いを誘わざるを得ない描写で満載だ。無論、学園でサバゲーという設定自体が世間に様々な波紋を投げかけた「バトルロワイヤル」に一種のコンセプトを持っているのは否定できないだろう。そして、「♯103 THE DOGS OF WAR」で引用されている歌詞は、ベトナム戦争中の米兵が家族向けて書いたという手紙をモチーフにしているし、「♯105 Quick」における城戸円が梅津茂雄に対して言う「ごめん、私…どうしてもメイド服着てみたいの」、そしてMP5の発砲シーンを笑わずしていられようか(この余りに直截的なセンスが良い)。
 この漫画は破天荒な内容を描いているが(その破天荒さについてはこのBlogにおいても以前に言及した)、その実内容は極めて少年漫画の王道とも言える部分に忠実である。少年漫画の王道とは誤解の集積によって成立していると言っても過言ではないが、本作はその誤解の構図を極めて面白く組み合わせている。この破天荒振りが今後も続く事を期待したいものである。

新たなる護送船団時代

2005年03月14日 22時23分09秒 | 世情雑感(妄想政治論)
 ペイオフ解禁が4月1日に迫り、金融ビッグバンも最終局面になりつつある。この金融ビッグバンとはかつては日本の金融・経済界を象徴していた護送船団方式からの転換であると言われていた。確かにそれは事実だったかも知れない。10年前には大銀行や証券会社が倒産すると言った事態を想定する事は出来なかった。大蔵省(当時)が、銀行や証券会社は絶対に破綻しない、させないと言う事が護送船団方式というのであるならば、護送船団は破綻したのだろう。金融機関への監督権限自体が、大蔵省から金融庁(内閣府)へ移行されている。
 しかし、この金融庁へ監督権限が移った事で新たな護送船団が生まれたと言う事も出来るのではないだろうか。昨年、三菱東京FGとUFJHDが経営統合する事を決定した時に、金融庁は各金融グループの決定する事だとした。その統合に三井住友FGが異議を示しTOBを示した時に世間は、護送船団の崩壊という事実を痛感したが、UFJが三菱東京と経営統合せざるを得なくなった背景に存在していたのは金融庁が示した都市銀行が達成すべきとされた基準の存在だった。所謂、自己資本比率で8%を超えていなければ国際業務が出来なくなると言う条項である。国際業務、特に中国へ力を注ごうとしていたUFJにとってそれは絶対に避けねばならない事実だった。無論、現在金融庁が金融機関に対して厳しい検査を行っている背景にあるのは各金融機関が公的資金を注入されているからでもある(それが金融庁の権限拡大だと非難されている面でもあるのだが)。
 つまり、新たな護送船団とは金融庁が達成すべき基準を課し、その基準を守っている限りにおいては世間一般に対して金融機関が「安全」であると喧伝する護送船団だと言えるのではないだろうか。これは分かりやすく言えば船団速力を10ノットと決めていれば、その10ノットで走る船は船団からはぐれませんよという当たり前の方式を提示しているに過ぎない。金融機関は、資本主義国家においては経済の根幹を担っている会社であり、国家としてもその存在を有る程度コントロールして行きたいと思うのは当然である(民主主義国家である以上、そのように国家を動かす意思は国民dである)。しかし、本当に現在の金融システムは国際的に競争力を持てるものなのか?この新護送船団の概念から考えてみるのも面白いだろう。

Freedomというアメリカ~Destiny考

2005年03月12日 23時59分31秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 ここ最近は「機動戦士ガンダムSEED DESTINY」の分析ばかりしている印象がある当ブログであるが、今回も例に漏れずDESTINYについてである。SEEDの世界が現実世界とある程度のリンケージを持たされて構築されている事は以前から指摘されている事であるし、小生はその点について生じてくる疑問点について毎回ブログにおいて言及を行っている。最も分かりやすいSEED世界の構図は、地球連合(特に大西洋連邦)というアメリカ合衆国を髣髴とさせる超大国と反地球連合のザフトそして独自の道を歩もうとするオーブの三つ巴であると理解しておけば問題ない。地球連合特にその主要国である大西洋連邦が米国であるのは疑う余地が無い。首都はワシントンに置かれ、大統領府はどうもWHITE HOUSEと言うらしいのであるからだ。ここまで描かれれば米国として見ざるを得ないし、多くの視聴者はそのように見るので反米的意識の持ち主は得てしてザフトの視点で物事を判断しようとする。しかし、SEEDの世界において地球連合はこの世界における米国の地位にあると断言出来るのであろうか。
 ここで小生が提起したいのは、軍事力の行使という点における「覇権」である。この現実世界において世界が平和であり続けるのは(無論、平和である為の代償がイラク問題等でもあるのだが)、何も国際連合という集団的安全保障組織が存在しているからではない。米国が世界中に軍事力を展開しているからである(異論は有るところではあるが)。それは我が国の周辺でも同様だ。米国第7艦隊の空母「キティホーク」の機動部隊がパトロールを行っている事が地域紛争を抑止する力になっているのである。つまり、覇権とは世界に存在する他の力(パワー)をいざとなれば力でねじ伏せられる能力を意味している。SEED世界においてその力であるのは、間違いなく「アークエンジェル」とキラ・ヤマトが搭乗するフリーダムガンダムだ。この両者が前作「機動戦士ガンダムSEED」の作品末期で描かれるヤキンドゥーエ攻防戦を終結に導いているのである。つまり、「アークエンジェル」とフリーダムガンダムには地球連合とザフトを敵に回して捻じ伏せる能力があるという事だ。つまり、SEED世界における米国の存在は「アークエンジェル」に有ると言っても過言ではない。
 そのような視点で見ると、SEED世界はますます恐ろしい。「アークエンジェル」は国家ではない。武器を持った組織、つまり一種のテロリストかゲリラである。つまり、テロリストかゲリラが世界最強の力を有しているのである。そしてその根幹に有るのはキラ・ヤマトという個人だ。世界の命運は一人の少年の判断に委ねられているのである。これは、世界が米国による民主主義帝国の覇権の下にあるという考え方も出来る現実世界よりも醜悪な世界だ。米国は世界中から人々が集まって出来ている国であり、米国の民意は世界の民意だという話もしばしば言われるところである。しかし、キラ・ヤマト個人の意思が世界の意思であるとするならば、それはリアルな国際政治を描き出すどころの話ではない。
 「民主主義は最悪の政治体制である」と言ったのは英国首相のチャーチルであるが、その後に続けて「今まで試された政治体制を除いては」と言っている。この言葉の意味をかみ締めた上でSEEDが描き出す異常な権力構造を見極めてみる必要があるだろう。

スイスの歴史に学べ~Destiny考

2005年03月05日 18時53分36秒 | 世情雑感(サブカルチュア)
 
 本日放送された(一部地域では来週)機動戦士ガンダムSEED DESTINY第20話「PAST」だが、これほど視聴者を愚弄している回もあるまい。1話丸々を回想シーン(ほぼ過去の映像の使い回し)で製作しようとするのは愚弄以外の何ものでもないだろう。しかも、半分以上が前作のガンダムSEEDからの引用なのだ。果たして「機動戦士Zガンダム」において1話かけて「機動戦士ガンダム」を描いた回があったであろうか?小生に記憶する限りでは存在しない。好意的に解釈して製作が間に合わなかったという見方も出来なくは無いが、これを故意でやっているのであるならば失態と言わずして何という言おうか。振り返れば一ヶ月前の2月5日の放送も今までの状況を振り返る総集編ではなかっただろうか。実に噴飯ものである。
 そして、このDESTINYいや、SEEDシリーズの不定見さもまた示された。主人公のシン・アスカはオーブの理念を信じていたが故に今の存在としていられる。しかし、オーブの取っている外交政策は中立国の取る政策としては適切ではない。中立国とはそもそも「他国を攻めない」という政策を有しているのではなく(そのような政策ならばこの日本も有しているが、誰も日本を中立国とは言わない)、「当事国のどちらにも味方せず、また敵対しないこと」である。中立国は自ら宣言し、周辺の諸国が尊重する事による場合もあるが、一番著名なスイスの場合はスイスが周辺諸国にとって結節点となっていた為という地理学的な側面も指摘出来る。オーブの場合は前者の傾向が強いが、中立国である以上、仮に攻撃を受けても理論上はどの国からも助けられる事は無い。だからこそ、中立国はハリネズミのような防衛体制を取っている事が多い。スイスは国民皆兵で有事には短時間で大兵力を動員できるし、スウェーデンは自国で戦闘機や戦車の開発を行っているほどである(一時期は核兵器の開発すら検討したらしい)。つまり、オーブが大西洋連邦の攻撃を受けて崩壊したのは「自己責任」と言い切ることも出来るだろう。
 このような状況にならない為に中立国は、相当にシビアな判断を行う。例えば、第二次世界大戦中のスイスはナチス・ドイツのマネーロンダリングを黙認していたし(これが戦後50年以上経ってユダヤ人から財産返還要求を受けざる得なくなる原因となった)、連合国へも様々な便宜を図って乗り切った。つまり、オーブが取るべき道とは理念ではなく現実の果実であるべきだったのである。ガンダムSEEDシリーズの政治学の観念がまともだとは思っていないが、リアル志向であるならば国際政治の暗部も描き出すべきではないだろうか。

GPM再考

2005年03月03日 23時58分41秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 1999年に「アルファシステム」が製作したPS用ゲーム「高機動幻想ガンパレード・マーチ」のアニメ版「ガンパレード・マーチ~新たなる行軍歌」の第1話が現在期間限定で、「アニメイトTV」で無料配信されている。このアニメの原作はその操作性の自由度の高さと余りに電波な内容で一世を風靡した(内容的に言うならば、「1999年終末思想」の影響を受けている)。この作品は、日本人が心の奥底で抱いている願望が顕われていると言えるだろう。この作品で描かれている戦争が現実と余りに乖離している事は、一見しただけで良く分かる。この作品をTV(終末地方局深夜枠)で放送されていたのは2003年の初めだった。小生の居住する地域ではその作品の放送を時と同じくして、米国のパウエル国務長官(当時)が国連安全保障理事会でイラクの大量破壊兵器(WMD)保持の証拠とされるものを示していた。そして、その結果起こった戦争は極めて限定された戦争だった。精密誘導兵器(PGM)の多用は戦争の犠牲者(敵味方を問わず)を局限化した。日本人が太平洋戦争という最後の戦争において記憶したはずの国家総力戦の残滓を見る事も出来なかった。
 国家総力戦――それが未だ日本国民の奥底に存在している戦争に記憶である。戦後の日本人にとっても原爆や日本中を焼き払った戦略爆撃機B29こそが戦争の象徴だった。敵国を完全に破壊するか自国が破壊されるか、それが国家総力戦である。この「ガンパレード・マーチ」の世界はまさにその総力戦だ。敵が人間ではなく「幻獣」と呼ばれる存在であり、その戦いには学生までが駆り出されていると言う世界。まるで太平洋戦争末期の日本のような世界が日常化している世界である。このような世界は現在の日本とは180度異なった世界であるだろう。しかし、「ガンパレード・マーチ」が多くの人々から支持されたと言う事は、人々が戦争という極限状態に日常とは異なった「何か」を求めていたからではないだろうか。総力戦は我々の前に姿を現すことは無いだろう。何故なら、それは経済的に不可能なものとなっているし、それが現実のものとして現れた時には核の業火によって地球自体が焼く払われているだろうからだ。
 ありえない現実としての総力戦。それはあたかも実現しなかった日本本土決戦をゲームの中ででも追体験してみたいと言う日本人の根底になる一種の破滅願望だといえるのかも知れない。

軍産複合体が戦争を作る~Destiny考

2005年02月27日 21時31分32秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 昨日、放送された(一部地域では来週放送される)「。機動戦士ガンダムSEED DESTINY」第19話においてプラント最高評議会議長ギルバート・デュランダルは戦争の始まる根源を兵器産業の集合体――「ロゴス」――によってなされると指摘した。これは一面的には事実だ。人類史上のほぼ全ての戦争が新兵器の実験場であり、戦争とは破壊という名のもとに(広義ではその後の復興も含められるかもしれない)経済活動を遂行する一つの産業でもあるのである。別に真新しい指摘でもない。今から半世紀近く前に米国のアイゼンハワー大統領が軍産複合体として言及している事なのだ。
 しかし、デュランダル議長が言うように軍産複合体が戦争を引き起こしている訳ではない。このように書くと先の第2次湾岸(イラク)戦争はどうなのだという意見が出て来るだろう。昨年、人気を博したようで博さなかったムーア監督の「華氏911」によれば、M2ブラッドレー歩兵戦闘車を生産するUnited Diffense社を有するカーライル・グループ等は自社の利益の為にブッシュ政権を動かしているのだと言う。
 だが、これは正しい見方ではない。最早、一般経済界は戦争を望んでいないからだ。戦争、特に国民を総動員せざるを得ない戦争等はやってもらいたくないのが現状だろう。統制経済ほど資本主義社会を生きる企業にとって悪夢は無いからである(市場が何より縮小するからだ)。そして、そのような状況を民主主義国家に生きる市民は許容し得ない。このように考えるならば、恐ろしい結論が出て来てしまう。戦争の発端が軍産複合体にあるにせよ、その戦争を国民や企業は経済や自身へ影響が出ない限り支持し得るという事になりかねないのだ。第2次湾岸戦争は米国の経済社会を総動員した戦争ではない。米国政府はテロとの戦争に米国の総力を上げるとしているが、米国経済は相変わらず堅調さを保っている。つまり、米国は総力戦等行っていないのだ。
 自国が勝つと分かりきっている戦争は、軍産複合体の存在があろうと無かろうと国民の支持を得て遂行されてしまうとも言えるだろう。
 

日常の傍らにある非日常

2005年02月26日 13時42分57秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 「イリヤの空、UFOの夏」は秋山瑞人の原作(全三巻、メディアワークス・電撃文庫刊)の小説のOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)だ。原作小説は現代ライトノベル界において最も著名な作品の一つに上げられると言っても過言ではないだろう。そして人気作品でもある。多くの書店のライトノベルコーナーで本書が並んでいるのを見る事になるであろうし、さもなければOVA化等されない(最もその人気が駒都え~じのイラストに起因しているのではないかと小生等は考えてしまうのであるが)。内容は典型的なボーイ・ミーツ・ガール形式ではあるが、作品中にUFOや軍の特務機関と言ったSFの重要な要素をふんだんに盛り込み、その根源は笹本祐一の「妖精作戦」へのオマージュとなっている。この作品世界は我々が知る世界とは異なっている。我々が暮らす日常に極めて近い現実が繰り返される世界に存在しているのは米空軍と共に「航空自衛軍」が存在するという日常だ。戦争の危機は近づいているように思われているが、既に戦争は始まっているのである。
 OVAは端緒を描き出しているが、最大の見所はブルパップ型小銃でもOVA版「戦闘妖精雪風」に出てくる雪風ではないかと思わせるUFO戦闘機ブラックマンタでもない。防空避難演習の一コマとして映し出される「対爆姿勢」のシーンだ。このシーンを見たものは誰もが気付くであろうが、あれは核爆発が起きた時に行うべき行動とされているものだ。そして、その行動に意味は無い。核の閃光を見た時には既に遅いのである。
 だからこそ、イリヤは「死ぬのに」と漏らすのである。
 戦争が既に始まっている事を知っている者からすれば、訓練という平時を楽しむ者は愚劣な存在に見えるのであろう。日常の傍らにある非日常とはこのような事なのかも知れない。いや、それはこのような小説や漫画、アニメにおいて提示され得るものだけではないだろう。我等生きるこの世界もそうである可能性があるからだ。

デジタルデバイドは縮小する

2005年02月25日 11時32分06秒 | 世情雑感(社会情勢)
 デジタルデバイド(情報格差)という言葉が、情報通信技術の飛躍的進歩により生まれた。IT技術を使いこなせる者と使いこなせない者の間に所得や待遇や機会等の格差が生じるとする考え方である。これは国内的な格差にのみならず、先進諸国と発展途上国の間で最も顕在化していると言われていた。これは、国内での格差という点で考えるならば、パソコンや携帯電話が安価になり誰にでも入手できる存在になっている以上、それを扱う扱わないは個々人の責任に帰する状況になっているという点が指摘出来るだろう(自動車の免許を持っていない健常者が、仕事の上で制約を受ける事があってもそれは自己の責任であるのと同じである)。
 一方で国際的な面でのそれは異なっているのが今までの通説であった。先進諸国は次々と開発される先端技術を導入できるが発展途上国はそれが出来ない故に格差が拡大するというのが主流を成す見方だった。しかし、「デジタルデバイドは急速に縮小――世界銀行報告」というITmediaの記事を読むと実態がそうではないことが見えてくる。発展途上国と先進諸国との間のデジタルデバイドは縮小に向かっているとさえ言えるかも知れないほどだ。これは、何も不思議な事ではない。発展途上国が通信インフラを導入する場合に今では固定電話網を整備せずに携帯電話網を先に構築する事も珍しくは無い。新しい技術は、既存技術の活用をせざるを得ない先進諸国に比べて無からの導入が可能である為に発展途上国に有利な面も存在しているのである。
 無論、発展途上国内でのデジタルデバイドの解消は難しいものがあるだろう。発展途上国内でITインフラが整備されたとしてもそれを使いこなせるのは一部のエリート層だけであるからだ。これを改めるには、発展途上国の経済システム自体を改める必要があるとも言えるだろう。デジタルデバイドの議論は再び経済格差という基本問題に回帰してきた印象を受ける。

Blogと世論

2005年02月24日 17時59分16秒 | 世情雑感(社会情勢)
 Blogは、Weblogの略称であり日付入りの記事にリンク等を自由自在に行う事が出来る点が注目されて米国で2000年頃から発展してきた。米国同時多発テロ事件や第2次湾岸(イラク)戦争を経て一種の報道体として生まれてきた。しかし、日本では必ずしもBlogは報道体としての役割を果たしているとは言えないだろう。本日のBlogは、Blogにおいて議論する事が正しいかは分からないがこのBlogと言うものについて分析してみたいと思う。
 米国でBlogが報道体になり得たのは、マスコミによって取材出来ないイラクの米兵の状況等を伝える事が出来たからである。このBlogの発達はマスコミという存在の概念を覆すほどになった。例えば米国大統領選挙では著名なブロガーが党大会等にマスコミの一部として参加するまでになっている。しかし、日本ではそうではない。確かに商品紹介等では報道体としての役割を果たしているとも言えるかも知れないが、ニュース等の側面ではまだ果たしている役割は小さい。それは、その基盤となる情報をマスコミの報道に頼っているからだ。しかし、ここで重要なのはそのマスコミの報道もインターネット上にも掲載される官庁や企業の報道資料を基にしている場合が多いという事である。つまり、そのような情報をBlogに記した場合はその情報は複数のバイアスを掛かった情報をネット上へ示していると言えるだろう。無論、報道機関等のサイトから引用する事は小生も行うし、一般的に行われている事ではあるが(ネット上に情報が直接提供されるようになったにも関わらず、その膨大な情報を我々は処理出来ないのであろう)、この場合は報道というよりは分析をおこなうBlogという存在であると言うのが妥当である。
 つまり、我が国においてBlogは報道体ではなく世論の一翼と考える方が正しいようである。世論とは総体であるが、そこに現出している意識や概念は個々人の分析の集合体であると考える事が出来るからである。インターネット上における世論は今まで掲示板において示されるものと考えられてきた。しかし、現在ではTB(トラックバック)やコメントをも含めて構成されるBlogという存在に取って代わられたようにも思われる。

The WorldⅥ~雲のむこう、約束の場所~

2005年02月18日 22時54分19秒 | 世情雑感(サブカルチュア)

 昨年後半にインターネットから生まれ新たな文学形態「電車男」が一世を風靡した。「雲の向こう、約束の場所」は新海誠監督の最新作であるが、本作はまさに「電車男」時代にもたらされた新たな少年と少女の恋物語と言えるかも知れない。しかし、そこには歴然とした内輪受けの構造が存在していると言わざるを得ない。無論、この作品を単体として評価してもそれは指摘可能であろう。精緻な科学技術考証、メカニックや軍事、社会描写はその方向に関心を持っている人々に微笑をもたらすに十分なものであるが、それはそのような視点でこの作品を見ない人々にとっては無価値な要素に他ならない。そして、それはこの「雲の向こう」と類似した視点で少年と少女の恋物語を描きだしたジブリアニメ「耳をすませば」と対照的に語る事によってそれは明白に導き出せるかもしれない。
 何がこの二つの作品で異なっているのであろうか?最大の相違は時間的なものである。「耳をすませば」は時間的に連接してストーリーが進展していくが、「雲の向こう」は話の前半と後半では3年という時間差が存在しているという事だろう。しかし、「雲の向こう」の中では少女の時間は一種、固定化されているために連続性が維持されているという見方も可能であろう。少年と少女の忘れられない夏休みという設定は両作品にも共通している。その後の話の展開に相違が見られるのは、「耳をすませば」が少女の視点で、「雲の向こう」が少年の視点で進められるからだ。少女は英雄にならなくとも、努力を行えば自身の望みを叶える事が出来る――まるで「おしん」以来の伝統でもあるかのようにだ――。しかし、少年は英雄にならなければその努力が報われる事は無いのであろう。いや、そういう矜持を持たせようとしているのかもしれない。あたかも「電車男」がその恋に報われるために女性を痴漢から守るという英雄行為を行う必要があったようにである。だからこそ、「雲の向こう」の少年も蝦夷にある塔まで少女を連れて飛ぶという――そしてその為には北海道民500万の犠牲を許容する――という必要があったのである。しかし、普通は英雄になる事は出来ない。だからこそ視点を女性において淡々と恋物語を描いたのが「耳をすませば」なのである。英雄になる事を諦めた――或いは英雄になれない事を知っているからこそ――、一般人は「耳をすませば」に共感できる。しかし、電車男へシンパシーを抱ける人は、英雄になれる可能性をほんの一かけらでも信じているのだろう。つまり、この作品は少年はとは、恋を成就させるには英雄にならなければならないという共通認識を持つ人々には自然と受け入れられる内容であると言えるだろう。つまり、この作品は少年の英雄性の追求という内輪受け的世界観――The World――を有していると言えるだろう。
 「雲の向こう、約束の場所」を製作した新海誠監督は背景と透過光の魔術師と表現出来るかもしれない。この二点の描写から我が国アニメーション界に於けるポスト宮崎だという指摘はあたっているだろうし、ストーリー性という側面においても継承者と言える(宮崎監督よりも脚本面ではしっかりしているかも知れない)。少なくとも、押井守や庵野の後継者ではなさそうである(メカニカルな面やSF的側面では類似点は多いが)。しかし、この点だけは指摘する事が出来るのではないだろうか。ジブリの「耳をすませば」と新海誠の「雲の向こう、約束の場所」は同じ物語を描こうとしていると。その両者の相違点は「耳をすませば」は一般人向けに作られ、「雲の向こう、約束の場所」は電車男向けに作られている。

IE7.0登場へ

2005年02月17日 22時11分48秒 | 世情雑感(社会情勢)
 次世代WindowsOSであるLonghornまでIE(インターネット・エクスプローラー)のメジャー・バージョンアップをしないとしていたMicrosoft社が方針を転換した。ビル・ゲイツ会長がそのようにRSA conferenseの基調講演で明言したのである。「MSが方針転換、IE 7.0をSP2向けにリリースへ」にその詳細が出ているが、Longhornを待たずにWindowsXPSP2ユーザー向けにIE7.0をリリースし(夏までにβ版が提供される)、Windows2000についてもユーザーの意見を聴取しているところだと言う。WindowsXPSP2のIE6.0はセキュリティが強化されているが、いまやユーザーの過半が使用しているとも言われるXPのセキュリティ対策にMicrosoft社が本腰を入れ始めたという事なのだろう。もっとも、Microsoft社が他のブラウザーによってIEが急迫を受けていた事に懸念を持っていたという側面もあるのかも知れない。OperaやMozila、Netscape(もっとも、Netscape8β版のリリースは延期される見込みが出ている)へユーザーが移り始めた事によってIEを使用するユーザーは最盛期に比べて5%程度減少してきており、その傾向は現在でも続いている(無論、大半のユーザーはIEを使用し続けている)。これはMicrosoft社がOSとメジャーバージョンアップを連動させると表明した事にも影響を受けているだろう。セキュリティが強化されているIEを新型OSを導入しなければ使用出来ないというのでは、同等の能力を有する他のブラウザーに流れてしまうのは自明の理である。もっとも、NetscapeからIEへとブラウザーが置き換わっていったように、IEから他のブラウザーへと直ぐに置き換わっていく事は無いだろう。多くのユーザーにとって最初から入っているIE以外に他のブラウザーをわざわざ入れるメリットは少ない(セキュリティを考えるユーザーはごく少数なのだ)だろう。そう考えればOSとブラウザーを同じ会社が作っているというメリットは大きいのだ。しかし、それでもIEユーザーが減少し、Microsoft社がIE7.0を前倒しする背景にはセキュリティへの人々の関心が高まらざるを得ない状況がある。フィッシング詐欺等の存在がインターネットへのセキュリティへの関心を高めているのだろう(もともと、多くのユーザーが使用するIEは狙われやすい)。IE7.0をリリースするという事は、ブラウザー一人勝ちのMicrosoft社に暗雲が漂い始めているからとも考える事が出来るだろう。