取次営業orz

取次の営業とは何か

パート切り

2010-11-20 | 取次営業の仕事
パートさんを対象にしたリストラ(首切り)が行われています。
ベテランの方々も多く退職されました。

会社にしてみれば、経営が厳しい中、社員の首を切って非正規雇用を増やすのではなく、パートタイマーを切って正社員の雇用を守ろうとしているわけですから、我々は文句を言えません。部署内にも、釈然としないながらも、「しょうがないよね」的な空気が流れています。

では、このリストラによって取次営業の現場では何が起きているのでしょうか。

営業部署においてパートさんは、重要な存在です。
電話応対や、受発注業務、出荷作業などで、大きな戦力になってくれます。

「これからは、パートさんのやってくれた仕事も全部自分達でやらないといけないので、ますます"本来の営業活動"をする時間がなくなっちゃうよ~。(ノ◇≦。) ビェーン!!」

・・・・・・というのは、どこの斜陽企業にでもある愚痴なんDEATHよね。そもそも取次営業の仕事は、物流補助と事故処理だけですから"本来の営業活動"なんてものはありません。
※過去記事:敢えて書く 営業不要論

私がヤバさを感じているのは、次のようなことなんです。

今回のパート切りは、営業部門はもちろん、スタッフ部門も対象になっております。スタッフ部門では何が起きているかというと、「パートがやっていた仕事を社員で分担する」だけでなく、「パートがやっていた仕事は営業にやらせよう」という動きがあるのです。

最も身分の低いシュードラであるところの取次営業は、
「今まではこの仕事、ウチでやってたけど、もう余裕ないから営業がやってよ。てゆうか別にやるやらないは勝手だけどね。困るのはオタクだから。」
と、スタッフに言われてしまえば、ぐうの音も出ません。

そうして今、徐々に他部署のパートが担っていた業務(作業)が営業へと集まって来ています。
これはヤバいです。特に新人がこの環境に晒された場合、作業漬けにされ、社員としての機能を培うことができなくなってしまう可能性があります。
また、取次営業をパート化することで、会社の営業リストラに正等な理由を与えることにもなります。
私が"営業不要"と言うのは、現状の営業の"役割"を指しているわけですが、パート化した営業は、もはや"人員"として不要DEATH。


パートの仕事で、正社員の給料が貰える取次営業というのも、一面では魅力的かもしれませんね。

アリガタヤ~ <(_ _*)>

食べた牛は死んでいる

2010-11-17 | Weblog
焼肉が好きです。
たまに食べに行きますが、ここで「食べた牛は死んでいる」ということを意識しますと、そうでない場合に比べ、会計は安くなります。

私は、、解体される牛がかわいそうで、肉を食べるのを我慢したのではありません。
「食べた牛は死んでいる」という事実の意識が、自然と食欲を抑制し、実際に食べる量が減ったのです。(そもそも、少し気分が悪くなります)

もし、多くの方が「食べた牛(豚・鶏)は死んでいる」という事実を意識すれば、総体として肉の消費は減少すると考えられます。

肉の消費(需要)が減少すれば、家畜の数も減少することになります。牛は、自分の体重の10倍以上の穀物を食べるそうですので、結果として、それら家畜が消費していた飼料(穀物)が大量に余ります。余った穀物を途上国にまわせば、10億人といわれている飢餓人口を減らすことができるでしょう。(バイオエタノールの生成にまわしてしまった場合は、飢餓人口は減りません)
そして、飢餓人口が減ることは、良いことですね。

強引に結論付けますが、「事実を事実として認識(意識)するだけで、物事は(勝手に)良い方向に進んでいく」と、私は考えているのです。

取次営業の現場で起こっている事実、物流現場の事実、仕入の事実、システムの事実など、相互に誤解が生じている事実の認識というものが、無数にあるのではないかと、私は思っています。

悲惨な、理不尽な、事実を目の前にすると、それに目を瞑りたくなってしまいます。「だってどうしようもないじゃない。アタシのせい?そうじゃないでしょ!」という気持ちになるからDEATH。

でも、どうにもできなくていいと思うんです。事実を事実として認識し、それが広く共有されることによって、それらは自然と改善されていくのではないでしょうか。

「ベジタリアンになれ!」なんて言いません。
「肉を食うのを我慢しろ!」なんて言いません。

私は、「食べた牛は死んでいる」と言っているだけです。

食べた牛は死んでいます。

手帳の思い出

2010-11-10 | Weblog
手帳の季節DEATHねえ。
どこの書店に行っても定番の手帳コーナーがあって、活況を呈しています。(呈してないか)
今回は、手帳を見ると思い出す、心温まるエピソードをご紹介したいと思います。


あれは寒い日の事でした。私は、手帳を主力商品としている版元の友達とお酒を飲んでいたのです。

1月始まりの手帳は、年が明けてしまえば売上が落ちていきますから、返品が発生します。しかしながら、手帳の返品については、専用の返品宛名、及び返品受入期間(いつからいつまで)があって、取次営業は担当全軒に対して、この専用宛名の配布と受入期間の告知をしなくてはなりません。

私は愚痴をこぼしました。

「なんで手帳の返品受入期間ってこんなにタイトなの?書店にアナウンスするの大変なんだけど」(`D´#)

手帳版元の友達は言いました。

「はあ?バカじゃないの?それは取次が勝手に決めてることでしょ。俺たちは、取次の言うことなんて聞かなくていいから、できるだけ長く店頭に置いてくれってお願いして回ってるんだよ」凸(゜皿゜メ) ウラァァアア!!

「・・・・・・」(。□。;)逆さガビーン!!


これは恥ずかしいDEATH。恥ずかシッコですよ。ジョボジョボ


さて、ここでクエスチョンです。
返品受入期間(特に"いつから"という事柄に関して)を、取次が決めてもいいのでしょうか?

フシギ、ハッケン!

Coffee Break 2

2010-11-03 | Weblog
「のぼうの城」パロッちゃお!ヾ(〃^∇^)ノ


 丹波は、長親を納戸に叩き込んだ。
 板敷きの床をするすると滑っていく長親に、丹波が足を踏み鳴らして続いた。和泉や靱負をはじめ、追ってきた家臣どもも狭い納戸に押し寄せた。廊下にあふれた家臣どもは、伸び上がって中のようすを見ようとやっきになっている。
「乱心したか」
 丹波は満杯の家臣どもの中で、長親を怒鳴り上げた。
 長親はふて腐れたように黙っている。
「何とか申せ」
「いやになった」
「なにがじゃ」
「降るのがだよ」
 長親は、そっぽを向きながらいった。
「今になって何を申す。さんざに申し聞かせたではないか。"バラモン"には敵わぬ。それゆえ降るとおのれも承知したではないか」
「だからいやになったんだ」
 長親は珍しく声を上げていう。だが、それはまるで子供がだだをこねているような調子であった。
「餓鬼みてえになんだ」
 丹波はまた怒鳴った。
 長親は、ぐい、と丹波に顔を向けると、唾を飛ばしながら叫び返した。
「"既に商品は取次で買取った。受注ノルマの進捗は経営会議上で報告するなどと"、さんざに脅しをかけた挙句、"必達目標"などと申す。そのくせ"自部署の責任で商品を引取る"に決まっておるとたかを括ってる。そんな者に降るのはいやじゃ」
 まったく、だだをこねていた。
 丹波は、こんな顔の長親をみたことがない。小さく驚きはしたが、いまは長親を説き伏せねばならない。
「我慢せよ。今降れば、"新刊配本"も"客注"も安堵される。長親、我慢するのだ」
 一語一語に力を込めていった。
「いやなものはいやなのだ」
 長親は大喝して丹波の言葉をさえぎった。さらに、狭い納戸で息をつめる侍どもをぐるりと見回すと、再び吠えた。
「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者を鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ。わしだけはいやじゃ」
 強き者が強きを呼んで果てしなく強さを増していく一方で、弱き者は際限なく虐げられ、踏みつけにされ、一片の誇りを持つことさえも許されない。小才のきく者だけがくるくると回る頭でうまく立ち回り、人がましい顔で幅をきかす。ならば無能で、人が好く、愚直なだけが取り柄の者は、踏み台となったまま死ねというのか。
「それが世の習いと申すなら、このわしは許さん」
 長親は決然といい放った。その瞬間、成田家臣団は雷に打たれたがごとく一斉に武者面をあげ、戦士の目をぎらりと輝かせた。



※小学館文庫『のぼうの城 上』(ISBN9784094085518)P183~185より
※「"○○○"」の部分を除いて、原文ママ