366日ショートショートの旅

毎日の記念日ショートショート集です。

Arrivederci

2012年03月09日 | 366日ショートショート

3月9日『レコード針の日』のショートショート



丁重に捧げ持ったレコードを、ターンテーブルにセットする。
静かに、静かに、息を詰めてレコード針を下ろしていく。
微かなクラック音、回転ノイズ。
それが一瞬収まった静寂を突いて、曲のイントロが始まる、この瞬間がたまらない。
ステージ上でバンドが互いに目で合図を送り合い、せえので演奏を始める、あの呼吸みたいな。
この茫としたイントロ部、ああ、持って行かれる。
音楽には二種類あると思う。
ひとつは、趣味嗜好に合っていて、何度も何度も聴きたくなる曲、口ずさみたくなる曲。
もうひとつは、その曲の世界へと持って行かれてしまう曲。
この曲『Arrivederci』は、まさに後者だ。
しばしAntonellaのボーカルに酔ってから、酒を啜る。
この店ではオン・ザ・ロックと決めていた。
グラスに浮いたボール状の透明な氷を転がして、ちびりちびり味わうのがいい。
カウンター奥の棚に並んだボトルや、漆喰壁に掛けられた額絵が、薄暗い間接照明に浮かび上がる、落ち着いた佇まいを愛でて。
カウンター席のボクの前に、マスターがジャケットを置いた。Antonellaはジャケットの基調となる色を、青、白、黒、赤と毎回変えてくる。ジャケット自体がアート、カルチャーなのだ。
「お帰りになるんですか?明日」
頷いて、マスターにジャケットを戻した。
「ここでの仕事にも、この店にもすっかり馴染んだのに。また来ますよ」
マスターは微笑してジャケットを見つめた。お互いにわかっていた。もう二度と会えないだろう。
「いい曲ですね。これもItaliaの?」
「そう。地球の歌」
ボクたちは天井を見上げた。
透明な天井ドームの向こうは、満天に星の輝く宇宙が広がっていた。
「地球ってどんな星だったんでしょうね」
故郷の星とも、長期赴任していたこの星とも、まったく違う星なのは確かだ。
もちろん、その星にいた人間は、ボクたちと似ても似つかぬ形態の生物だ。
「遥かな宇宙の果て、ずっと昔に消えた星の、滅んだ生物が残した音楽に聞き惚れるなんてねぇ」
グラスの氷がカランと鳴った。
また戻ってこれそうな気がしてきた。
そうだ。
どんなさだめが待っていようと、ここに戻ってくればいい。
連れてこられたんじゃない。
ここがボクの場所。
Arrivederci。