11月も下旬、晩秋といった雰囲気になってきた遠野です。
赤や黄色い葉も落ち、曇天・雨天と交互に続き、白い物が落ちてくるのも近いかな?
そんな先週土曜日は近所で葬儀。小中学校長や行政区長を歴任された方で、行年100歳。
この方と普段、顔を合わせる時と異なる印象が、附馬牛町大出にあります。
7月18日開催の大出早池峯神社例祭の折、拝殿廻りに飾られる紫色の幕は
平成28年にその方が奉納したもの。
真面目一方のあの方がこんなことをするんだ~!と、最初見た時に驚きました。
その後、昭和50年に大出神楽保存会が発行した冊子を見て、合点がいきました。
それによると、昭和24年以降、鳥舞しかできなくなっていたが48年に復活。
その翌年には、大出で校長をしていたその方の後援によって、子供達のシンガクが
例祭に奉納できるようになったと記されていました。合掌
さて、郷土芸能関連がこんな形で始まりましたが、第12回遠野市郷土芸能共演会です。
今年の共演会は、昨年までと趣向が違いました。内容はおいおい。
主催者等の挨拶の後、出演団体の方と司会者とのやりとりです。
団体の歴史的な背景、活動状況、演目説明などがありました。
因みに最初は八幡神楽です。
法螺貝神楽の異名どおりに演目前後に。
先日来、拙案内所の書類を整理していたところ、読んでいないコピーが。
あの日本民俗芸能研究の第一人者本田安次氏のものでした。
昭和6年、氏が石巻中学校の教諭時代だと思いますが、大迫の早池峰神社例祭に合わせて
岳、大償の早池峰神楽を見るために岩手入りをしており、その例祭後、遠野に来て、
多賀神社で神楽を見ています。白拍子姿の美しい舞だったと印象を述べています。
翌年の昭和7年3月26日、再び、遠野入り。
翌27日の夜、八幡別当の菊池長福氏に話を聞きます。維新前までは遠野一郷の
法印達が八幡宮に集まって神楽を演じていたことなどを話し、大出派を神道神楽と
呼ぶのに対し、こちらのは山伏神楽と云っていると。
また、昨年の多賀神社の神楽はこの八幡神楽だったと記されています。
数日後、六日町の佐々木種吉氏のところに伺っています。
種吉氏のところに八幡神楽の写本があるということで、それを写すのが目的。
その家の神棚には宝来という切り紙の飾りがあり、種吉氏が真似て作ったものだと。
本来は八幡別当の長福氏が配っているものとのこと。
種吉氏は法印廣哉から稽古をつけてもらった人から神楽を習ったということで、
写本は廣哉氏の書き留めたもの。
土淵町の野崎神楽は、羽黒派意楽院(長学坊)の系統だと伝えられています。
この日の演目は、遠野の山伏系らしく恵比寿舞でした。
沿岸系の神楽同様に魚を釣り上げました。笑
沿岸と遠野との山伏の繋がりを辿ると、慶安5年(1651)までの遠野の先達は、
宮古千徳村の安楽院でした。チームリーダーが閉伊郡宮古の人ということです。
その後、遠野は別にリーダーが定まり、地元の本山派(熊野系)の大徳院になります。
大出早池峰神楽が元禄時代の飢饉で出来かねるようになった際、引き受けたのは
大出村、宿の宝明院ですが、こちらは大徳院と同じ本山派です。
明治に八幡神楽を伝えた上組町蒼前の龍宝院も本山派。
江戸時代の八幡宮は羽黒派良厳院ということで、
都合よく本山派と羽黒派の神楽でわかれるということにはなりません。笑
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