今回の郷土芸能共演会、午前中は八幡神楽さんと長野獅子踊りさんが終わった後、
休憩時間があり、その間に出演団体との交流がホワイエで行われ、次のようなコーナーも。
返礼品と書いていますが、いわゆる出演団体へのお花。
2、000円以上のお花にはタオルなどのお返し。
それ以下の場合は、別な場所に支援だけのお花ポストがあるようでした。
全部の団体にお花を出したら、入場料徴収の場合より高くなるかもしれないので、
支援したい団体、感動した団体といった感じで、其々の判断で。笑
これで難しいのがお花が貰えなかった団体・・・頑張りましょう~!汗
さて、其の参です。
女性の手踊りは、鷹鳥屋甚句の皆さん
踊りに先立って、挨拶をしたこの方
SL銀河や県内の滝など、いろいろな分野の写真を撮っている写真家
かつ、
マドロス姿で演芸祭にも出演、はたまた甚句では太鼓。凄い!
この日の演目は「石投げ甚句 ほか」とありました。
こちらの「ほか」も曲者で、この傘を持った踊りは「ほか」なのか?
と思いながら、見ていました。
パンフレットには最初の手踊りが石投げ甚句で、後の傘を持ったほうがからかさ甚句だと
ちゃんと載ってました。後で確認。笑
地域の祝い事などで披露されるということでした。
飲む芸しか無い私は、こういった時に何かひとつでも芸があれば・・・。汗
小友町内の出演団体が終わったところで、来月3日(日)は「おとも収穫祭」
小友地区センターが会場で、町内の神楽や獅子踊りもあるようです。
お弁当とひっつみ汁付参加費は1,000円 前売り券は産直ともちゃんで限定100枚。
当日券は1,500円で、入場規制ありとのこと。なかなかユニークなイベントですね!
さて、お昼の休憩を挟んで、午後の初めは、附馬牛町の小倉神楽さん
大出早池峰神楽の弟子神楽ですが、いつ伝えられたかは不明とのこと。
昭和24年に大出で神楽道具一切を焼失した際、道具を貸していたのが、この小倉。
この日は三人鶏舞
昭和30年頃に途絶え、同じ張山のしし踊りのメンバーが神楽に関心を持ち、
平成4年に復活ということのようです。
現在は地元以外のメンバーを中心に継承中。
最初に伝えた大出に支障があると小倉が支え、中断した後は同系の神楽が支え
といった感じで、やはり交流は大切ですね。
本田安次氏が遠野に来た昭和7年3月、その28日は上柳からまだレールの敷いていない
軌道敷を歩いて和野に行き、その後、大出に入っています。
そこで胴取りの佐々木安成氏に話を聞き、その晩、始閣佐太郎氏の御子息の尽力で
社務所で大出神楽を見ています。安成氏の話では2,3代前に岳神楽を移したといい、
立派な伝授目録を始閣家に伝えていたが、火事で焼失。
その晩は鶏舞、翁舞、三番叟、天女、鞍馬、五穀、獅子舞を演じています。
当時の大出神楽は、昭和24年の再焼失前であり、その時には年寄神楽になっていて、
年壽、蕨折、機織などは途絶えていたと記されています。
ちなみに前年に訪れた岳神楽でも、踊れる人が揃わず年壽、蕨折、機織は望めず、
岳は年寄神楽になったと嘆いている人がいたとあります。
大出も岳も同じような世代交代の時期になっていたのでしょう。
明治42年 柳田国男氏が投宿した高善旅館と氏の像。
本田安次氏を遠野に導いたのは佐々木喜善氏の紹介によるところが大きいと
知ったのはこの頃のことです。
今年から市内では地元の芸能が披露される場面で、ポチ袋になるパンフレットが配られるようになりました。
当初は、練習途中の芸にお花はどうなんだろう?と思っていましたが、毎週練習している芸とそうでないものを区別するのもおかしいと思い、ある意味納得しています。それぞれの判断で決めればよいと。
お花の3,000円以上は、あちらこちらに顔を出す人達は、回数が回数なので大変ですよね。
遠野では出した金額の10倍で披露されるので、ほっとします。笑
今回の共演会、入場料を取った場合と観客数を考えると、返礼品やらお花の方が、率は良いような気がしました。(;^_^A
入場料とるよりカンパ訴えた方が収支は同じような気がしています。ある神楽公演は500円の入場料ですと500人入らないとペイ出来ないそうですが、いつも赤字だそうです。支援も途絶えて四苦八苦していますね。祭りでタダで観ている郷土芸能にお金は出さないのかね。お花は3000円から5000円くらい出さないとかっこ悪いのできついですね。観た人が全員おひねり程度を出せば何とかなるとは思うのですが・・お花を出すと金額と名前が呼ばれるので500円や1000円じゃ出しずらいから題した気持ちがあっても出せないかも?お花箱を会場において入れてもらうのが良いかも?
戦後岳もだいぶ衰退していたようですね。戦争に取られた人が多かったのかも、小国誠吉さんに聞いたとき兄が戦死?かで跡継ぎに戻らなくてはならず神楽を始めたと言ってました。本当は都会に出て働きたかったとも。大償も一時期女性が担っていた時期もあったようで滝沢に踊組がなぜかあったようです。数十年前、滝沢から装束など一式寄贈されたと言ってました。どこも戦後一時期の民俗芸能は苦労したんですね。北上の祭りで半分は復活したそうです。