Tomotubby’s Travel Blog

Tomotubby と Pet の奇妙な旅 Blog。
でもホントに旅 Blog なんだろうか?

荒俣宏 「長生譚」と故宮博物院 (台北) ~七福神と宝船特集 その3~

2004-10-17 | Asia 「圓」な旅
荒俣宏著「ゑびす殺し」のあとがきを読むと、アラマタ先生の処女短編集とも呼ぶべき本なのでした。表題作のほかにも四編のと短編小説が収録されていますが、「迷龍洞」は香港・九龍城が舞台、「蟹工船」は小樽が舞台と、うちのブログみたい。と驚いていたら、「長生譚」は台北・故宮博物院を舞台にしていて、なんと...前にタイガーバームガーデンの日記で話題にした「福禄寿と寿老人」が登場し、挙句の果てには、そもそも同一人格の二人が取組み合うという、突拍子もないお話なのでした。

物語は、1967年の台北。故宮博物院の玉器を並べた展示室に「水晶寿星」なる像(もちろんフィクション)が飾られていましたが、これは歴代中国皇帝が所有し、長寿を祈ったという水晶の像で、皇帝に死が迫ると乳白色に濁るのです。中華民国政府が故宮博物院に庇護していた「寿老人」こそは水晶に皇帝の寿命を語らせることのできる予言者だったのです。時あたかも、毛沢東蒋介石の、新しい二人の「中国皇帝」が最晩年を迎え、健康の悪化が囁かれ始めていた頃、寿命を全うするのは、毛沢東か、蒋介石か。中国共産党はもう一人の予言者「福禄寿」を台北に送り込み、真相を確かめようとしますが、死期を迎えたのは、なんと清朝のラストエンペラー愛親覚羅溥儀だったのでした(ネタバレ御容赦)。

因みに三人の生年・没年を調べると以下のようになります。

毛沢東 1893-1976
蒋介石 1887-1975
溥儀 1906-1967

ラストエンペラー溥儀が他界してからも、毛・蒋の二人は随分長生きしていたのでした。

この小説の舞台となった台北「故宮博物院」は、世界四大博物館の一つとも称されています。しかし、称されているのは台湾を中心とした、日本のパック旅行業者を含めた極めて狭い世界だけではないでしょうか。他の三つは、大英博物館(ロンドン)、ルーブル博物館(パリ)、メトロポリタン博物館(NY)だと思いますが、これら三国において「四大博物館」などという言葉は聞いたことがありません。

故宮博物院にある宝物は、もともと清朝皇帝が北京・故宮に所有していたものです。中国は前王朝が滅んだ際に、新王朝が旧王朝の財宝を引き継ぐのが普通です。よって清朝は、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の全盛期に集めた素晴らしい財宝だけではなく、前王朝の明朝の所有した財物の多くを引き継いでいたのです。明朝の所有した財物だけではありません。明朝が引き継いだ元朝の所有した財物も、元朝が引き継いだ宋朝の所有した財物も、その前のものも全て所有していたのです。よって宋朝の文人皇帝、徽宗皇帝が集めた一大コレクションが故宮博物院の宝物の中で重要な位置を占めているのです。

それでは、北京にあった宝物が何ゆえ台北に移ったのでしょう? 清朝のラストエンペラー宣統帝溥儀が退位した後、中華民国政府はこれらを召し上げて、北京で一般に公開しました。これが博物館展示の始まりです。ところが、ここに日中戦争が勃発します。第二次国共合作で中国共産党と手を結んだ国民党は、1933年、戦火による焼失を恐れて、宝物を上海から南京へ、1937年には長江上流の楽山、蛾眉、安順へと移動させます。日中戦争が終わり、宝物は再び南京に集められましたが、今度は国共内戦が勃発します。1948年、共産党軍との激戦のすえ、旗色が悪くなった蒋介石総統率いる国民党軍は台湾に逃れます。このとき、皇帝の権威を示した「玉」など、宝物の中でも価値のあると目されるものの殆ど、総数70万点が台湾海峡を渡り台北に持ち出されました。そして、これらを展示して、中華民国の正当性、中華皇帝としての蒋介石の正当性を示すために、台北に故宮博物院が建てられたのでした。

つづく


最新の画像もっと見る

コメントを投稿