萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

文月三十日、松虫草―mislay

2020-07-31 10:22:00 | 創作短編:日花物語連作
忘却、その先へ 
7月30日誕生花マツムシソウ


文月三十日、松虫草―mislay

ほろ苦い香が刺す、いつもの薬品棚の匂い。

「ふあぁ…」

あくび一つ腕を伸ばし、背骨ぐくっと伸ばされる。
肩かすかな鈍い痛みに齢つい数えた。

「30、68…38年、か?」

指折る窓のガラスはくすむ、38年前からそうだ。
それでも磨かれたタイルに朝陽が白い、まだ穏やかな診察室に腰下した。

「さて、午後の往診は…木村のばあさんからだな」

ひとりごとカルテファイル広げた手、白衣の袖口ほつれている。
すこし縫ったほうがいいだろうか、それとも買うべきか?
相談したくて、けれど今もう彼女はいない。

「僕が決めないと、だなあ…」

ひとりごと唇ほろ苦くなる、応えてもらえなくて。
ほんの少し前まで「決めないと」は君の役目だった、この朝も。

『あなた、また朝ごはん前からお仕事?わーかーほりっくねえ、』

ほら?耳深くまだ君が笑う。
瞳の底でも君が笑って、今ふりむいたらエプロン姿が微笑むだろう。
それでも君を看取ったのは僕で、主治医も僕だ。

「…朝メシなあ、」

ため息ひとりごと、応えてくれない君が苦しい。
こんな孤独まだ慣れなくて、このまま慣れそうにもない?
それでも肚の底ちいさく鳴いて、がたり、診察室のデスクを立った。

「パンがあったかなあ…コーヒー、」

ひとりごと棚を開けて、パン籠ひっぱりだす。
竹細やかに編まれた籠、これも君の気に入りだ。
このコーヒーカップも。

「まいったなあ…」

本音こぼれて唇ほろ苦い、孤独が疼いてしまう。
こんなに君は君ばかり遺して、こんなに君で包んで、それでも触れられない。
こんな孤独もっと先だったら良かったと、こんな願い、医者のクセに未練だろうか?

「だが君も、医者の妻のクセに不養生すぎるぞ?」

ひとりごと話しかけてしまう、愚痴のような後悔ほろ苦い。
こんな朝もう何度くりかえしたろう?数えたくない月日の涯、窓ガラスこつり鳴った。

「せーんせっ、おーはーよぉーお!」

ガラス透って響く声、低いくせ朗らかに緩ませる。
あいかわらず長閑な声に、つい笑って振向いた。

「おはようさん、またコッチから来やがったな?」

あいかわらず悪戯小僧だ?
可笑しさと窓ガラス開いて、潮風ふわり香る。
ほろ甘い風の真中、ライダースジャケット腰に巻いた青年が笑った。

「朝っぱらからごめんなー先生、ちょっとさーこいつ診てくれねえかな?」
「ん、どした?」

言葉に窓から乗りだして、もう一人が視界に映る。
長身さわやかなパーカー姿、その涼やかな眼に瞬いた。

「おお…ひさしぶりだなあ、」

何年ぶりだろう?
驚きの先で白皙の青年が微笑む、すっかり大人になった。

「ごぶさたしています、急にすみません、」

透るまま低くなった声が頭さげる、一見は爽やかで、けれど寂しい。
これを「診てくれねえかな?」なのだろう、出生から知る二人に勝手口の扉ひらいた。

「まず入んな、朝飯はどうしたんだ?」
「あーこれからっすねー」

のどやかに低い声が笑って、のそり勝手口にブーツを脱ぐ。
いつものミリタリーパンツ姿の笑顔は、紙袋ひとつ差し出してくれた。

「せんせー、これトーキョー土産のパンです、どぞ、」
「東京?」

訊き返しながら受けとった袋、麦の香ふわり芳ばしい。
きちんとした店で買ったのだろう?そんな一袋に推論ニヤリ笑った。

「ふん?土産というより口止め料なんだろう、何があった?」

この悪戯小僧が「東京」で買ってきた、その隣でパーカー姿の微笑かすかに燻む。
もう30年ずっと見てきた命ふたつ、日焼あざやかな笑顔が口ひらいた。

「せんせー、こいつが休める理由つけてくんねえかなあ?頼むよ、」

なんだサボりの片棒か?
なんて普段なら言ってドツく、でも今、白皙の微笑は脆く切ない。
子どものころも繊細だった、けれど今もう崩れそうで、だからこそ敢えて嘲笑った。

「なんだサボりの片棒か、ワケ話さんとカルテは書けんぞ?」

巻きこまれるなら、理解して巻きこまれるほうがいい。
それくらいの義務と責任とプライドはある、そんな想いに白皙の唇がひらいた。

「先生、俺…このまま東京にいたら限界でした、」

端整な唇つむぐ声、知るころより低くなった。
けれど透明なままの声は、まっすぐ自分を見つめた。

「でも辞めさせてもらえなくて、親も金のために辞めるなと言いました、だから親と絶縁しました、」

絶縁、この子が?

「君から親御さんと絶縁したのか?」
「はい、」

つい訊き返した真中、涼やかな瞳が肯く。
意志きらめく視線、けれど寂しい哀しい、底深くが昏い。
いつからこんな眼になったのだろう?軋みだす痛みに問いかけた。

「正直に言うがな?僕は君のこと、親の言いなりイイ子ちゃんだと思ってる。良くも悪くも優しい君だ、それが絶縁とは意外すぎるんだが?」

絶縁、なんて激しい言葉だろう?
激しさなんて似合わぬ記憶しかない、そんな瞳まっすぐ自分を見つめて言った。

「この町から家まで失くした親です、俺の帰る場所をとりあげた人は家族と思えませんから、」

ああそうか、君は帰りたかったんだ?

―それじゃあ許せねえだろうな、あの親じゃあさ?

この青年の親が何をしたのか?
この町では公然の事実で、だからこそ誰も何も言わない。
それだけ知られてしまった分ごと彼は利用すればいい、その権利と青年に向きあった。

「皮膚に痒いとこはないかい?」

問いかけた真中、切長い眼すこし瞠かれる。
驚いて、けれど澄んだままの瞳に瑕を見つめて尋ねた。

「内臓の病気や強いストレスが皮膚病の原因なこともあるんだ、未病ってやつも怖いぞ?ちょっとでも変なトコないかい?酒の量はどうだ、」

仮病に診断書は出せない、けれど未病なら虚偽でなはい。
なにより気がかりなのは目の前の顔、白皙の深く蒼が沈んでいる。

―肝臓がやられてんだろうが精神的に疲れ切ってるな、ひでえ顔色だ…家族のコトだけじゃねえな、

白い肌、その深く沈んだ青灰色が痛ましい。
目もと燻る隈も一日二日の寝不足じゃないだろう、そんな患者が口ひらいた。

「最近、この3年くらい増えています。」

かなり飲み続けている、そんな日常が肌深く青黒く沈む。
こんな貌は見たくなかった、切なさ蝕みだす鼓動と笑ってやった。

「ふん、大人になりやがったなあ?どーせワイン2本くらい空けちまうんだろ、ビールなら500を6本、それとも日本酒で1升か?」
「はい、…仰る通りです、すみません、」

素直に肯いて肩すくめて、その頬が白いまま青黒い。
こんなになるまで飲み続けてしまった、そんな日々が疼いて笑ってやった。

「謝るなら呑むなよ?まぁったく、とりあげた赤ん坊がこんな貌でくるのは堪らんなあ?ひでえ顔色しやがって、」

ほら本音こぼれて笑う、こんなことのために君は生まれたのか?
カルテにペン走らせながら、疼く痛みにあえて嘲笑った。

「男なら1日の純アルコール摂取量が40g以上でアウトだ、500のビール2本からヤバいんだよ?生活習慣病がヤバくなる、君はヤバいぞ?」

脅かして、その表情を見る。
どう変化するだろう?見つめる真中で困ったような微笑くすんだ。

「ヤバいんですね、俺?」

困ったような綺麗な微笑、その眉間よらせた皺くすんで青黒い。
もう体も心も限界なのだろう、それだけ飲みたい心の理由はたぶん一つじゃない。

「ヤバいな、コンナになるまで呑みやがってまったく。君はいくつ背負いこんでるんだ?」
「すみません、」

素直に謝ってしまう低い透明な声、こんなところ変わらない。
見つめてくれる瞳も澄んできれいで、だからこそ唇にやり笑ってやった。

「失恋でもしやがったか?君くらいのイケメンだと思ってたのと違うとか言われやすいだろ、仕事でもドコでもさ、」

30年前もきれいな赤ん坊、けれど性格は地味な子だった。
そのままに美青年だからこそ推測した真中で、澄んだ瞳そっと険くすぶった。

「失恋もあります、でも、それだけで呑んだんじゃありません、」
「ふん、そうかい、」

肯いて笑ってやる、何でも受けとめていけたらいい。
わずかに見られた感情を見つめて、青年を向きあった。

「君、足がつること多いんじゃないかい?頭痛が増えたり、瞼がビクビクしたりさ、どうだ?」

問いかけながら視診する。
白皙に沈みこむ青灰色、眉間わずかな皺の険、白い手の爪刻まれる縦線。
どれも血液の浄化機能が滞っている兆候、きっと春先は体調も崩していただろう。
病ただ見つめるまま、患者が言った。

「はい、頭が重かったり、瞼が変に震えることもあります。目が疲れやすくなったような、」
「なるほどな、口は苦くねえか?どっか皮膚が痒いとこあるかな?」

肯定に問いかけながら、カルテの抽斗ひらく。
15年前の一冊とりだし、眺めた既往歴に言われた。

「飲むとちょっと痒くなるときがあります、」
「おっ、いいねえ。どこらへんだ?」

つい笑ってカルテの過去、また「いい理由」ひとつ診る。
もう遠慮なく休ませてやれるだろう?つい微笑んだ肩ぽかり叩かれた。

「せーんせ、いいねえってさー縁起でもねーぞ?マジの病気とか嫌だぞー俺の船に乗せてやるんだからさー」

響く声しかめっ面、肩ぽんぽん叩いてくる。
この懐っこさが救うのだろう?三十路の悪戯小僧に唇にやり笑った。

「ふん、おまえはホントおバカちゃんでいいねえ?」

本当に善い、良い男だ。
こういう命を援けて世に送りだせた、誇らしさに漁師の青年は言った。

「俺はバカでいいからよーこいつ休ませてやってよ?もー好きにしてやりてえんだ、なーなーどうなんだよ?」

ほら「バカでいい」なんて普通は言えない、こんなに真直ぐだ。
こういう良い男だから今もここに連れてこられた、そのツレに笑いかけた。

「僕を身元引受にしていいぞ?気楽な男やもめの一人暮らしだ、遠慮なんかするなよ?たまーに息子も帰ってくるしな、」

言いながら思いついて、スマートフォンの画面を開く。
今ごろ当直明けだろう、自分の母校にいる息子のナンバー架けた。

「おはよ、なに?」

眠たげ、でも直ぐ出てくれる。
こんなところ優しい息子に笑って「片棒」を投げかけた。

「おはようさん。夜勤明けに悪いが、診断書すぐ書いてくれんか?」

田舎の医師よりも、東京の大学勤務医のほうが強いだろう?
思惑と信頼つなげた電話ごし、片棒が応えた。

「いいよ、病状は?」

応えてくれる声は低い、けれど穏やかで懐かしくなる。
男の声だ、そのくせ響く深み面影を見つめて微笑んだ。

「神経性の皮膚炎に肝硬変の兆候とでも書いてくれ、片頭痛と瞼の痙攣ありだ、」

応えながら心が息子の姿を描く、たぶん白衣じゃなくて手術着だろう。
今きっと大きな眼ゆっくり瞬かせて、妻そっくりの瞳は天井を見る。

「ストレス強いんだ?ゆっくり休むよう勧めて。今日はそっちに帰るよ、明日あさって休みなんだ、」

穏やかな声が告げてくれる、その予定に鼓動ふわり弾む。
あの瞳に会える、愛おしい追憶と一人息子に微笑んだ。

「おう、仮眠とってから来いよ?」
「ありがとう、電車で寝てく、」

穏やかな声やわらかに笑ってくれる。
この声に信じられる生きていく、僕は君を失ってなどいない。

※校正中

松虫草:マツムシソウ、花言葉「風情、私はすべてを失った、不幸な愛」
学名:スカビオサの語源はラテン語「scabiea疥癬」皮膚病の薬草として用いられたことに由来

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