萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 予警act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-02-23 21:20:29 | 陽はまた昇るside story
誇り、そのままの姿で 





第35話 予警act.2―side story「陽はまた昇る」

スーツのパンツを履きネクタイを締めると時計はまだ6時を指している。
デスクライトを点けると英二は、抽斗の鍵を開いて1冊の分厚い冊子をとりだし椅子に座った。
それは紺青色の布張りされた表装が美しい日記帳だった。
ラテン語の辞書も手元に置き、ルーズリーフとペンも出すと英二は紺青色の冊子を丁寧に繰っていく。
繰り開いたページはラテン語が連なっている、それを英二はすこしずつ辞書で調べながら翻訳を始めた。

この日記帳を英二は川崎の周太の実家で見つけている。
一冊目は英文で最初は書かれているが途中からラテン語と英語を交えた文章にとなっていく。
そして少しずつ日記の文章は英文からラテン語へと変わって、書出しから2年目の終わりには全てラテン語表記の文章となる。
ラテン語で綴られた紺青色の日記帳、これは周太の父が書き遺した日記帳だった。

紺青色の日記帳は、周太の父が使っていた書斎机の抽斗に眠っていた。
その抽斗は他の抽斗と違う鍵が取り付けられていた、その鍵はいま英二が首から提げている合鍵でしか開けられない。
この合鍵には根元部分に小さな凹みが刻まれている、この凹みは周太と母の鍵にはない。
おそらく周太の父が刻んだ凹みらしい、書斎の鍵穴は鍵の根元まで入らないと開けない造りになっていた。
この凹みが無い鍵は鍵穴には根元まで入らず抽斗は開けない、だから英二以外は誰もあの抽斗を開けていなかった。
この合鍵の秘密に英二は、年明けに川崎を訪れた時に気がついた。そして抽斗の鍵は13年ぶりに英二の手で開かれた。

合鍵の秘密に隠された4冊の分厚い日記帳の1冊目、この最初の頁をその場で英二は目を通した。
この日記帳の最初の頁はすべて流麗な英文で綴られている、英文なら英二でも意訳で読めた。
意訳で読み取った内容に英二の心が軋んだ、この哀切に周太と母には見せられないと感じた。
そうして英二はふたりに無断で4冊の日記帳を奥多摩へと持ち帰っている。
あのときの想いに、ふっと翻訳の手を止めて英二は最初の1頁を開いた。

  I will remember this day always. I'm hopeful of success.Be ambitious.Never give up,always be hopeful.

 “決して今日を忘れない。成功を信じている。志を持て、希望を持ち続け、決してあきらめるな”

自分の進むべき道への意志と誇りにあふれた冒頭の一文。
この4冊の最初の日付は1978年4月、周太の父親の大学入学式の日付だった。
この冒頭文に続く文章は入学した英文学科で学んでいく喜びにあふれ、彼の進路への希望が綴られていく。
この道に全てを懸けて生きる意味と誇りを見つめた19歳の春、その想いと真実が最初の頁には英文で記されていた。

―…子供時代を過ごしたオックスフォード、あの時ふれた美しい豊かな文章たち。
 その思い出と記憶が私を支え援けてくれた、今を作り上げてくれた。この全てに深く感謝を想う。
 この感謝に自分は報いていきたい。だから今度は自分が文章を守り伝えていく担い手になろう。
 私は日本人でも私の心を育てたのは英文学、だから知っている。
 文章と想いには国境は無い、このことを私はオックスフォードの日々に教えられた。
 だから私は国境を越えて学び伝えたい。自分が愛し感謝する英国の文章たちを守り伝え、次に続く人々へ贈りたい。
 あの美しい文章から自分が得たように、生きるにおける喜びと美しさを次の人々へ贈らせてほしい…

周太の父が希望した道。
それは英文学者として学問に生涯を捧げる道だった。

この頁には周太の父の父親、周太の祖父についても記されている。
周太の祖父について周太も母も何も知らされていない、だから英二もこの頁で初めて知った。

―…フランス文学の研究のため渡英した父、そのときに自分も一緒に行けたことが幸運だった。
 あのときは母を失った想いが辛く、日本に置いてきた祖母との別れも哀しかった。
 けれどオックスフォードで出逢った文章たちが私を勇気づけ励まし、哀しみも受とめ豊かな心を贈ってくれた。母のように。
 だからこうも想う、私にとっての「母」は英国の美しい文章たちだったのだと。
 英国の文章を母にし、フランス文学者の父に愛されて、私の子供時代はオックスフォードに豊かな文学の時を過ごせた。
 そして5年をすごし私は父と故郷日本に帰国した、父は母校へ呼び戻され最高学府の仏文学者として教授の席に着いた。
 父はフランス文学の美しさを故郷に伝え、その学問の故郷にあるパリ大学、ソルボンヌ・ヌーヴェルにも時おり出向く。
 そんな国境を超えた文学者の姿は私の尊敬と憧憬。そうした父の母校で私も学びたいと想えた、そして今日の入学式を迎えた…

周太の祖父はフランス文学者だった。
そして周太の父が入学した大学のフランス文学科の教授だった。
その前にオックスフォードに研究員として招聘され、その渡英直前に妻を亡くしたため息子も連れて行った。
そうして周太の父はオックスフォードに住み、子供時代を英文学にふれて過ごしている。
このことが父親と同じ文学者の道を志すきっかけになった、そう文章は続いていく。

―…私の故郷、日本。この国で最高学府と言われる大学で私は学び始める。
 ここで基礎を修めたらソルボンヌで父が学んだように自分も留学したい、あの懐かしいオックスフォードで学びたい。
 今度は学者の卵として私はオックスフォードに帰り、学徒の1人になりたい。
 あの幼い日、父に借りて来てもらった図書館の蔵書たち、今度は自分であの世界最高峰の図書館に立ち、本を選ぶ。
 その喜びが今から待ち遠しい、そして喜びのために自分は努力を惜しまない…

この息子の文学への志と進学に周太の祖父は喜んだ、その喜びをこめたのがこの4冊の日記帳だった。
この日記帳は紺色の布張りがしっかりとした表装、ハードカバーのような特徴的で立派な作りをしている。
分厚く頑丈で一冊に5年分が記せる外国メーカー製の希少な型で、限られた大学の購買か専門店でしか扱われていない。
この日記帳も祖父が大学の購買で買い求め、自分と同じ文学者の道に立った息子の門出に贈ったものだった。

―…私はこの大学の門を潜った、そして英文学者への第一歩が始まった。
 このことを父は喜んでくれた、この祝にと日記帳を贈ってくれた。それがこの日記帳になる。
 父はこのように言って私に4冊の日記帳を贈ってくれた。

 「この日記帳は一冊が5年分、それを4冊だから20年分を君は記すことが出来る。
  ここに綴る20年が君にとって英文学にとって、あかるい希望と幸福に充ちたものであるように。
  20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう。
  その実りある日が必ず来ること私は信じ、祈っている。
  君と英文学の豊かな20年間とその先の20年後を予祝して、私はこの20年分の日記帳を君に贈りたい」

  フランス文学者として国境も民族も超えて想いを繋ぐ父、私にとって夢と誇りの象徴でもある父。
  この父が私の20年後の成功を信じてくれる、私を後輩として認めてくれている、それが誇らしい。
  私はこの誇りを忘れず20年を真摯に英文学と向き合いたい、父の、尊敬する先輩の信頼に応えたい。
  この20年を学び修め、父の息子として後輩として恥じない文学者になっていく。この20年の先もずっと。
  想いが籠められた4冊の日記帳を私は喜びと感謝に受けとった、そんな私に父は喜んでくれた。
  そして父は文学者の先輩として日記につづる言語についてアドバイスを贈ってくれた。

  「学者になるなら、その使用言語で日記を書いてみなさい。
  その言語をもうひとつのマザーズランゲージとして思考言語としても完璧にマスターしなさい。
  研究対象の文章を記した言語での思考でなくては、その文章に籠る想いを理解することは難しい。
  君は英文学だから英語で日記を書きなさい、自分の想いを毎日表現することで君のマザーズランゲージに育てなさい。
  そして英語を正確にマスターしたら、ヨーロッパ言語の原点といえるラテン語を学ぶといい。ラテン語は学問語にも多い」

  私は父に感謝する。そして息子として父と出会えた運命に感謝したい。
  文学者の先輩として私の父として愛情と知識と心を惜しみなく教えてくれる、その想いは私には最高の幸せで温かい。
  だから私は今日この日に約束したい。息子として文学者の後輩として、この与えられた想いを繋ぎ次の人へ必ず手渡そう…

周太の父の日記帳の最初のページ。
そこには英文学者として生きる誇りと感謝に報いたい純粋な想いが、英文で綴られていた。
そしてこの「最初に綴られた日付」が心を軋ませる。
この誇りと希望に満ちた1頁目が綴られたのは、周太の父の大学入学式の日付。
この日の20年後にあたる春の日は、周太の父が殉職した日だった。

―…20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう

望まない道での「殉職」哀しい結末の日は、彼の父親が心から祈った「学者として自分の道を確立した」20年後その日だった。
桜咲く希望に満ちた門出の19歳を迎える春の日、けれど彼は文学への志を奪われる運命だった。
そして19歳の門出と同じ日の20年後、満開の桜咲く夜に彼は一発の銃弾で生命まで奪われた。
ほんとうは19歳の門出に歩みだした道で誇らかに学者として立つはずだった日、その日に迎えてしまった哀しい結末。
どうしてこんな悲劇が起きたのだろう?ひとすじの涙が疑問と共に英二の頬を零れおちた。

「…どうして、好きな道を歩めなかったんですか?…こんなに才能があって、なぜ?」

彼は大学2年の終わりにはラテン語で全文を書き始めている、これだけの語学力はきっと稀有な才能だったろう。
そしてラテン語で記されている内容も、英文学者への道を周囲にも嘱望された希望あるものだった。
それでも周太の父は学者にはならなかった。
いま書斎の蔵書に英文学書は数冊しかないのは、おそらく英文学者の道を諦めた時に処分したからだろう。
処分して視界から消さなくては未練が残るほど、きっと彼は英文学者の道を望み能力も認められていた。
あの書斎に遺された英文書の少なさが、英文学者として歩み通せなかった彼の深い絶望と哀しみを告げてしまう。

それでも彼は父が遺したフランス文学書を息子へと読み聞かせていた。
学者にはなれなかった、けれどせめて息子には自分を豊かにしてくれた文学を贈りたい、そんな切なる願いが見えてしまう。
そんな姿から彼の文学への真摯な想いが失われていないことが解ってしまう、その情熱の行方が痛ましい。
きっと周太の父は文学への真摯な想いを抱きながら警察官の道に斃れた、その想いが哀しい。

周太の父が辿った軌跡の絶望と哀しみ、その痛切の深さはこの最初の1頁から始まっていた。
この最初の頁を全て読んだとき英二は涙が止まらなかった、いまこうして読みかえしても心が軋んでしまう。
周太の父の現実を知る人間が読むのには、この日記帳はあまりに辛く哀しい。
だから英二はこの日記帳の存在を周太と母には隠すことに決めた。

この日記の翻訳を進めるたび、なぜ?と疑問が起き上がってしまう。
なぜ英文学者の道を歩めなかったのだろう?
なぜ学者志望だった男が警察官になったのだろう、警察官以外の選択肢もあったはず、それなのになぜ?
しかもなぜノンキャリアで任官してしまったのか、キャリアを目指す方が妥当な学歴なのになぜ?
そしてこんなにも尊敬し憧れた実の父について、なぜ妻や子供に何も話さなかったのだろう?
まだこれらの謎を解く記述は出てこない、根気よくラテン語を今は翻訳して読み進むしか謎を解く方法は無いだろう。
数々の疑問と哀しみの運命たちにため息を吐きながら翻訳するページへと目を落とした

いま英二は大学3年生の4月を読んでいる。
ここまで記されている内容は今のところ大学生活がメインになっていた。
またペンを持って辞書を見ながら訳していきながら、ときおり現れる単語に英二は微笑んだ。

「mons」山 「jugum」尾根 「cacumen」山頂

周太の父は大学で山岳部に入った。
忙しい勉強の合間にも時間を作っては、仲間と登ったり単独行もしている。
幼いころに周太も父に連れられ奥多摩や近隣の山で遊んでいた、その時間は周太にとっても幸せな記憶としていま甦っている。
そうした息子との幸せな時間を作れたベースがこの頃には周太の父に出来上がっていた。
愛する英文学と山に向き合う日々、幸せで楽しい空気の文章に彼の大学生活が充実していたと読めるのが嬉しい。
自分も彼と一緒に山へ登りたかったな?そんな想いで訳をメモしていくと、ふっと英二の手がとまった。

「dirigentes」

初めて見る単語だった。
この意味はなんだろう?なにげなく辞書の頁を繰って英二の長い指の動きが止まった。
今日は警視庁拳銃射撃大会の当日、その日にこの単語とあたるなんて?
ほっと息を吐いて英二はルーズリーフにペンを走らせた。

「射撃」

大学3年生の4月、周太の父は友人の誘いでもう1つ部活に入った。
その部活は「射撃部」だった。

きっとここから周太の父の軌跡が変わっていく。
そんな哀しい予感と重たさに英二はクライマーウォッチを見つめた。
時刻は6時半をさしている、時を見つめながら英二はやさしく文字盤のフレームにふれた。
この腕時計を贈ってくれた、黒目がちの瞳を文字盤に見つめて静かに英二は微笑んだ。

「周太、俺はね、ずっと守っていくから。なにがあっても、どんな場所、どんな時でも」

このクライマーウォッチに周太は想いをこめて贈ってくれた。
最高峰に登る時もこのクライマーウォッチを見れば周太を想い出す、想い出せば英二は無事に帰ろうする。
そんなふうに「帰りたい」意志を英二が失わないようにと願ってくれた、英二の無事と幸せを祈ってくれた。
やさしいこの想いを周太は初恋を想いだし見つめる今も、変わらずに英二に贈ってくれる。
唯ひとり愛する相手ではなくても大切な「隣」であることは変わらない。

それに今はもう解っている、雪崩の翌日に英二が周太に体を無理強いしなければ「唯ひとり」だったかもしれない。
けれど、あの日に気づけなかったら今も自分は独善的な盲目の愛しか知らなかった。
そんな自分と今の自分と、どちらの方が自分は好きだろう?
おだやかに微笑んで英二はデスクの上を片づけて抽斗に仕舞うと施錠した。
デスクライトを消して窓を振向くと曙光が山嶺をあざやかに染め始めている。
山が目を覚ましていく明るい色彩に英二はきれいに笑った。

「きれいだ、」

今日は拳銃射撃大会で色んなことが起きるだろう。
せめて空だけでも風通し良く晴れていてくれたら嬉しいな?そんな想いにすこし笑って英二は食堂に向かった。
朝食のトレイを受けとって窓際の席に座ると、空があわい紅に明け染めていく。
きれいだなと見ながら食事に箸をつけ始めるとテノールの声が降ってきた。

「おはよ、宮田。なに?おまえ、今日はネクタイ締めてるんだね。ひょっとしてスーツで行く?」

話しながら国村が向かいにトレイを置いた。
確認すると国村はきちんと活動服姿だった、大会出場の格好に安心して英二は微笑んだ。

「うん、俺は、公務じゃないからね。11月に岩崎さんに連れて行ってもらった時もスーツだよ」
「ふうん、なるほどね。おまえのスーツ姿って卒配のときだけかな、俺が見たのは」

山芋の千切りを器用に混ぜながら底抜けに明るい目がネクタイを眺めてくる。
物珍しいかなと目で訊いてみると愉しげに笑って国村は言った。

「うん、似合ってるね、宮田。こういう格好も美人でいいな、おまえ礼装とか似合うだろ?」
「どうだろ?国村こそ似合いそうだよ、」

他愛ない会話をしながら手早く朝食を済ませていく。
それでもしっかりどんぶり飯を4杯ほど平らげて一緒に食堂を出た。

「ロビーに7時でよかった?」
「うん、俺はすぐ出れるよ?宮田は?」
「すぐ出れるよ、じゃ仕度しだいすぐ降りるな?」

笑って自室へ戻ると英二はスーツのジャケットを着た。
クロゼットからコートを出し、救助隊服と登山靴を登山ザックに入れて背負う。
もし緊急召集が掛っても対応できるよう山岳救助隊員は隊服など一式を大抵は備えている。
今日は新木場の術科センターへ行くけれど帰路に救助要請が入ったときに対応できるよう準備した。
コートは腕に懸けたまま下へ降りると国村が活動服にザックを背負って待っていた。

「お待たせ、国村。保管庫は行ってきた?」
「これからだよ、おまえも今日は行くだろ?待っててやったよ」

からり笑うと国村は英二の腕を掴んで歩き出した。
一緒に保管庫へ行って持ち出しの手続きを取る、国村は警察手帳と拳銃の両方を出した。
英二は警察手帳だけを受けとって内ポケットにきちんとしまうと、国村の装備を目視確認した。
拳銃はきちんとホルスターに入っている、制帽も被っている。靴も既定どおり、警察手帳も胸ポケットに収めている。
どうやら大丈夫そうだ、軽く頷いて英二は笑いかけた。

「よし、忘れ物ないな?」
「大丈夫だよ、拳銃もほら、持っただろ?おまえこそさ、吉村先生にはちゃんと言ってある?」
「うん、もうだいぶ前からね。国村にね、ほどほどに楽しんでくださいね、って伝言だよ」
「ほどほど?…ああ、なるほどね、先生らしいね、」

話しながらロビーへと戻ると後藤副隊長と鳩ノ巣駐在所長の山井が活動服姿で待っていた。
立って4人で話していると刑事課の澤野が後輩と交通課の人を連れて急いでやってきた。この7人でパトカー2台に分乗していく。
今日は澤野が私服警察官の部、山井が制服警察官の部で正選手として出場する。澤野の後輩と交通課の2人はこの補欠だった。
そしてセンターファイアピストル部は国村が正選手に、後藤副隊長が補欠としてエントリーされている。
国村の運転するパトカーに山岳救助隊4人で乗り込んで出発すると、後藤副隊長が笑いかけてくれた。

「うん、宮田。おまえさん、スーツが似合うな?大人びていい雰囲気だよ」
「恐縮です。この格好でお目にかかるの、卒配のとき以来ですね?」
「そうだな?あれから5ヶ月か、でも俺はな、宮田?おまえさんは前から居たような気持ちになるよ」
「国村にも言われました、俺、態度大きいですか?」

馴染んでいるのは嬉しい、けれど失礼なことしていると困るな?
そう想って訊いてみると国村が笑った。

「そうだね、宮田?俺のことも操縦上手いしさ、吉村先生の手伝いもするしね。ちょっと卒配期間ってカンジじゃないね」
「たしかに国村の言う通りだよ?宮田のことは消防の小林さんも褒めていらしたよ」

鳩ノ巣駐在所長の山井も笑って言ってくれる。山井は英二の同期でもある藤岡の直属の上司にあたる。
山井が出場するために今日は藤岡が鳩ノ巣に残っていた、きっと他管轄に配属された同期もみな留守番組だろう。
本来なら卒配期間で術科の大会に出場することは少ない、けれど周太は特別に出場する。
このことを廻る警察組織の思惑を想うと気が重い、きっと今日の結果が翳射すのは本配属の夏以降と解ってはいる。
それでも、今日も読んだ周太の父の日記帳に寄せた想いを考えると、周太の進む道に哀切を想ってしまう。
思わずちいさな溜息を吐いた英二を、底抜けに明るい目がちらっと運転席から見た。
そして透明なテノールの声で言ってくれた。

「大丈夫だよ、宮田。あまり背負い込むなよ?」

国村は周太の事情はすべて把握している。
自分で勘付いて調べたものと英二から聴いたこと、そして周太からも聴いただろう。
11月の全国警察拳銃大会の時は英二は1人で全て抱えるしかなかった、けれど今日は違う。
この隣に座るアンザイレンパートナーは頼りになることを自分が一番知っている。
こういうのは素直に嬉しい、けれど今日の気懸りは国村にこそあるだろう。英二は国村に微笑んだ。

「うん、ありがとう、国村。でもさ、おまえこそ大丈夫か?」
「なにが?」

飄々とした顔で運転しながら細い目がちらっとこちらを見た。
いちおう周太から聴いたとだけは告げようかな?
後部座席の様子を計りながら英二は低めた声で言った。

「『ちょっと驚くだろうけど、気にしないでね』のことだよ?心配してたよ、」
「あ、やっぱり宮田には話しちゃったんだね?ま、言った通りにさ、気にしないでよ」

からり愉しげに国村は笑った、その唇の端が上がっている。
この様子はきっと企みがあるに違いない、愉快な想いと覚悟を英二は心裡に見て笑った。
きっと飽きない大会になるだろうな?想っているうちにパトカーは新木場の術科センターのゲートをくぐった。



術科センターに入ると選手は控室へと向かう。
選手の6人と別れて英二は一旦戸外へと出た、外は青空が気持ちいい。
すこし敷地を歩くと死角になる壁際がある、そこへ英二は背中をついてほっと息を吐き微笑んだ。
11月の大会の時はここで周太を落着かせてあげた。あれから3ヶ月が経って周太と英二の関係も変化している。
ふっと浮かんだ旋律に低く英二は口遊んだ。

「季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように…君を想う」

もう周太への想いは枯れない花、そんな確信が温かくて英二は微笑んだ。
以前は、周太が自分だけを愛し見つめなかったら、水がもらえない花のように自分は枯れて死ぬと想っていた。
けれどいま自分は生きて、より深い大きな想いを抱いて微笑んでいる。

たしかに、周太を独り占め出来ないことは寂しさもある。
周太と素肌の温もりを感じ合えないことは痛みと寂寥感が哀しくもさせる。
けれどこの、大らかな揺るがない想いがくれる温もりと、ひろやかな想いは心地いい。
この自由な感覚はなんだろう?こんな今の自分がうれしくて楽しい。
この大らかな想いで周太を愛することを手に入れられた、そんな自分が好きだ。
この自由で誇らかな想いはなんだろう?ふっと想ったことを英二は低く声にした。

「うん…俺は母さんとは違う。きっと、」

盲目の愛のまま理想を押しつけ、英二の真実の姿を見つめない母。
あの母の愛と自分が周太へ向ける愛は同じと気付いたとき、愕然とした。
けれど今の自分は母とは明らかに違うはず、そんな気付きが尚更に自由を感じさせる。
うれしくて楽しい想いに英二は見上げる青空へ微笑んだ。

「うん。俺はね、自由だ」

冬富士の雪崩の翌日、あの日が自分の分岐点だった。
あのとき周太を傷つけたことは今も哀しみが痛い、だからこそ自分は逃げず見つめて周太を守りたい。
あの日に容赦なく怒り諌めてくれた国村の想いを、すこしも自分は無駄にしたくない。
いまもう自由な想いで周太を愛し、国村との友情が誇らしい。

― あの日、気付けて良かった

あの2人が大切で守りたいと素直に想う自分が誇らしい、大らかに想いのまま英二は微笑んだ。
そのときふっと気配を感じて英二は視線をゆっくり振向かせ、そして微笑んだ。
微笑の先には小柄な活動服姿が佇んでいた。

「…えいじ、」

黒目がちの瞳が見つめて、名前を呼んでくれる。
見つめられて呼ばれて嬉しい、きれいに笑って英二は頷いた。

「うん?どうした、周太、」

大好きな名前を呼んだ。
呼んだ愛しい名前のひとが、泣きそうな顔で微笑んで、ことんと飛び込んでくれた。

「…英二!」

濃紺の制帽が地面に落ちて、やわらかな髪の頭が英二のむねへ飛び込んだ。
よせられる胸元の頬、泣き出しそうな唇が名前を呼んでくれる。

「英二、ここに居てくれた…英二、」

抱きついて、しがみついてくれる小柄な体。
おだやかで爽やかな髪の香が顔のすぐ下にふれてくる。
この香がずっと好きで憧れていた警察学校時代がなつかしい、今との差を感じて不思議になる。
この香が今も自分は大好きだ、そして今あの頃よりもっと大きな想いでこの肩を抱きしめられる。
穏やかに長い腕をまわして英二は周太を抱きしめた。

「どうした、周太?不安になっちゃったかな、」

抱きしめる肩はかすかに震えている、無理もないなと英二は微笑んだ。
きっと今日、周太の「これから」が決められてしまう。その不安が大きくても当然だから。
今日の大会の結果が周太の本配属を決めてしまうだろう。
この配属が周太の希望通りなら、文字通り周太は危険に立つ日が始まる。
もし周太の希望通りにならなければ、普通に有能な警察官としての日々が始まるだろう。
ほんとうは、どちらがいいのだろう?

「…英二、…えいじ、今あいたかった…だから、ここに来て…前のとき、ここにいたから、」

見あげてくれる黒目がちの瞳は泣いてはいない、それでも不安が揺れる瞳が痛々しかった。
孤独に閉籠っていた頃は感情を押し殺すような肩肘が周太にはあった、けれど今は素顔のまま穏やかで繊細な感受性を隠せない。
いくら「警察官の顔」をするべき時でも今日の状況は重たい、それを素直に英二に告げて甘えたくて探しに来てくれた。
頼ってもらえて嬉しいよ?目でも言いながら英二は穏やかに微笑んだ。

「うれしいな、周太?俺で良かったらね、好きなだけしがみついてほしいよ?」
「ん、…ごめんね、こんなの、ずるい俺…でも、英二にあいたかった、」

危険なメビウスリンクに入りこむような進路と普通の進路と、どちらがいいのか?
きっと本来は「普通」が良いのに決まっている。
けれど周太は父の想いを見つめて繋ぐために警察官になった、その目的は危険なメビウスリンクの中にある。
それは体ごと命を危険に晒す日々になる、それでも周太はここを通らなければ「時」を動かせない。
その為の覚悟はもう決めている、穏やかに英二は微笑んだ。

「ずるくない、周太。俺は嬉しいんだからさ?誰が何と言っても関係ない、俺が幸せならいいだろ?遠慮しないで周太、甘えてよ」

微笑んだ先で黒目がちの瞳がほっとするように微笑んでくれる。
こんな瞳を見せてもらえるなら何でも出来るな?そう見つめる先で周太は唇を開いてくれた。

「英二…甘えさせて?聴いて、英二?…俺、ほんとうは怖い。
それでも自分で選んだこと、だから逃げたくない、でも怖い…自分でもわからない。
それに、それに俺…どうしよう、今日の一番のライバルが好きなひと、だなんて…こんなの、わからない」

今日の大会の優勝候補筆頭の周太。
その対抗馬と射撃関係者でひそかに言われているのが国村だった。

クマ撃ちの家系に生まれた国村は、幼いころから猟の現場に立って14歳からライフル射撃に親しんでいる。
そんな国村は射撃についても抜群のセンスを備えてる、それで警察学校入学直後の拳銃射撃訓練で10点満点を出した。
そういう素質を見込まれ入校直後に関わらず本部特連に選抜された、けれど国村は迷惑だと痛烈なやり方で断ってしまった。
それ以来ずっと、また特練指名されたくないと訓練でも2割はわざと9点を狙撃するようになった。当然に大会出場も一切断った。
そんな国村は本部の射撃指導員には知られる存在となり「伝説のスナイパ―」だと仰々しい名前まで付けられている。
きっと本人にとったらどうでも良いことだろうけれど。

それでも、今日の大会が人生の分岐点であり優勝候補筆頭の期待も負った周太には、そんな国村の存在はプレッシャーになる。
その最大のライバルが初恋の純粋無垢なままに愛しあう相手、こんな状況は周太の性格では混乱して当然だろう。
微笑んで英二は周太の背中を軽くポンと叩きながら微笑んだ。

「周太、まわりも相手も関係ないよ?」
「…関係、ないかな?」

素直なまま困惑している周太は、どこか幼げで可愛らしい。
ちいさい子供を抱きしめているような優しい想いが英二の心を温めていく。
優しい幸せな想いに充ちていくまま英二は、ポンとやわらかに背を叩いてやりながら微笑んだ。

「うん、だって周太?周太はね、お父さんの為にここに立っている。
お父さんの想いと真実を見つめるため、お父さんが立っていた場所に立つんだろ?
きっとこの大会にお父さんも立っていた、それだけ見つめていればいい。周太が後悔しないように真直ぐ見つめたら、それでいい」

「後悔しないように…お父さんを見つめて…」

途惑ったままの黒目がちの瞳が見つめてくれる。
一生懸命な表情が英二を真直に見つめ、すこし考えると微笑んだ。

「ん、…そうだね、英二?俺、頑張ってくる…父の姿と、的をね、真直ぐ見つめてくる。
そして父の想いを追いかけてみせる、全ての想いを見つめて父を理解して受け留める…そして、英二?」

真直ぐに黒目がちの瞳が見つめてくれる。
どうしたのかなと微笑んで見つめた英二に周太は言ってくれた。

「俺ね…いつか、英二のために…」

告げようとしてくれる想いに英二は微笑んだ。
この想いはたとえ叶わなくても、告げてもらえただけで十分幸せに想えてしまう。
やさしく英二は周太の言葉を遮った。

「うん、周太。ありがとう、…ほら、時間だよ?」

笑いかけながら英二はスーツの胸ポケットを探った。
探った長い指がオレンジ色のパッケージを取り出すと、一粒とり出すと残りはまたしまう。
そして黒目がちの瞳に英二は笑いかけた。

「はい、周太?あーん、して?」

すこし微笑んで周太は素直に口を開いてくれた。
その口へ「はちみつオレンジのど飴」を静かに入れてやると、黒目がちの瞳が微笑んだ。
ふわっとオレンジの香が漂っていく、うれしそうに口を動かす周太に英二はきれいに笑って促した。

「さ、行こう、周太?ちゃんと近くで見ているよ、」

話しながら地面に落ちている制帽を拾いあげて、そっと埃を払い落とす。
きれいになった制帽を周太に被せてやりながら、黒目がちの瞳を覗きこんで英二はきれいに微笑んだ。

「声に出さなくても周太を応援している、きちんと見ているから。ね、周太。安心して?」
「ん、…ありがとう、英二」

黒目がちの瞳が笑ってくれる、その笑顔がまた清明に美しくなっている。
あの11月の大会の時と比べて周太は本当に綺麗になった、そんな実感がふっと湧いて心裡で英二は微笑んだ。
一緒に術科センター建屋のゲートをくぐると、お互いの所属の許へとふたり別れた。

「見てるよ、周太?だから安心して、」
「ん。俺、頑張ってくる…見ててね?」

綺麗な微笑みを英二にくれると周太は新宿署の先輩たちの輪に戻っていった。
遠ざかる活動服とゼッケンの背中を見送って英二は踵を返した。
と、底抜けに明るい目と視線がぶつかった。

「湯原が世話をかけたみたいだね、宮田?ま、可愛い子の半べそはさ、眼福だよな?」

いつものように飄々と国村が笑っている。
けれど英二は国村の「いつものように」の姿に目が大きくなった。

「国村、おまえ、その恰好どうしたんだよ?」

驚いたまま英二は率直に質問をした。
そんな自分のアンザイレンパートナーに国村は愉しげに笑って魅せた。

「おい、宮田?おまえまで驚いてどうするのさ?俺がね、こういうことするってくらいはさ、おまえなら解っていただろ?」

誇らかな自由に純粋無垢な笑顔が笑っている。
たしかに言われた通り「こういうことする」と自分は予想していただろう。
どんな想いで国村が今日はこの場に臨むのか?きっと英二が一番知っているのだから。

なにより大切にする周太が苦しい道に立つ原因。
なにより尊ぶ「山」そして死者に見つめている「生命と想い」を軽んじた。
こんな二重の過ちを犯していく組織と人間たち、それらを真直ぐ見つめ判断を下し罰を与える。
この為に今日の国村は、ここ警視庁拳銃射撃大会で、拳銃射撃の頂点を競うセンターファイアピストル競技に立つ。
いま、ここに立ち、大切な存在と誇りを守る戦いを始めた国村の明るい誇らかな自由の笑顔がまぶしい。
こんな美しい顔の友人がうれしくて英二も笑ってしまった。

「うん、そうだな?俺、考えたりはしたよ、でもね?ほんとにやるなんてさ」
「ほんとにやらなかったらさ?『俺』じゃないだろ、」

本当にその通りだ。
そしてこんなアンザイレンパートナーが自分は誇らしく大好きだ。
ほんとうに愉しくてうれしくて、英二はきれいに大らかに笑った。

「そうだな、国村?おまえはさ、最高の山ヤだ。
 最高のクライマーでさ、この警視庁で山ヤの警察官のトップに立つ男だよ?だからこの格好は正しいって俺も想う」

この男のパートナーであることが誇らしい。
そんな想いで見つめる先の底抜けに明るい目は、愉しげに英二の肩をポンと叩いた。

「だろ?やっぱりさ、おまえは俺のアンザイレンパートナーだね、」
「おう、俺はおまえのパートナーだよ?まあ、今日のフォローはちょっと大変そうだけどな、」
「おまえなら大丈夫だろ?よろしくね、俺の専属レスキュー、」

笑いながら並んで英二と国村は歩いていく。
選手用ゼッケンを付けた国村の姿を見て、みんなが振り返って驚いていく。
それもなんだか可笑しくて愉快で、英二と国村は笑った。

「じゃ、宮田?ちょっと俺はね、戦ってくるよ?見届けてくれな、俺のアンザイレンパートナー」
「おう、見届けるよ?」

笑い合って、互いの掌を軽やかに叩き合うと国村はいつものように、きれいな姿勢で歩いて行った。
見送って英二は青梅署の補欠メンバーが待つ観覧場所に行くと、濃紺の制服かダークスーツ姿の選手が居並ぶホールを見渡した。
そして衆目を集めても昂然と微笑む自分のアンザイレンパートナーの姿を見つけて、英二はきれいに微笑んだ。

警視庁青梅警察署山岳救助隊服。
オレンジ色とカーキ色の隊服姿で国村は警視庁術科センターに立っていた。

山の静穏と人命救助に駆ける山岳救助隊服姿、その腰にホルスターをかけ拳銃を携行し、登山靴で国村は真直ぐ立っている。
カーキの山岳救助隊制帽の鍔の下で、底抜けに明るい目は誇らかな自由に笑っていた。
いつも通りの姿と、いつも通りの笑顔のままで。


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