快読日記

日々の読書記録

「四十でがんになってから」 岸本葉子 講談社

2006年02月24日 | エッセイ・自叙伝・手記・紀行

自由とは何か。


生真面目できれいで芯の強さものぞかせつつ、愛嬌もあってしっかりものの岸本葉子の著作をずっと愛読していた。
それまでの暮らし系のエッセイは、自分とは根本的なところが違うけど(わたしはずぼらだしごまかしが得意)、
会えばなんとなく背筋が伸びるような、視界が一段透明感を増すような、
ちょうど10年先を歩く女性、というかんじで愛読していた(筆者は61年生まれ)。
ところが「がんからはじまる」という本が出て、ショックを受けながら、
たまにしか会えない友達の苦境を心配するような気持ち(しかも一方的)で読んだのが数年前。
その後医師との共著「がんと心」を発表したが、
これまでのようなさわやかなエッセイも並行して上梓されている。
本書では独身、一人暮らし、そしてがんを患って、その後のようすがつづられている。
内容が内容だから仕方ないのだが、常に「自分だったら」と考えながらページをめくる。
食事療法にしても、同じ立場だったらこういうことをするだろうか、とか。
たとえばこんな記述がある。

「何よりもがまんならないのは、再発する方に入るか、しない方に入るかを、自分ではどうにもできないことである。
自分の明日でありながら、主体的に関われない、隷属的な立場に貶められている。人間、この未来を企図し、意思するものに生まれながら」(30p)

また別のページでは、自分を制御できなくなることこそ最も嫌なこと、とも書いていた。
わたしは本を相手に「そうか・・・」とつぶやく。
たとえば心臓を動かすこと一つとっても人間は自分を制御しているだろうか、してないよね。それは言い過ぎとしても、生きてたら自分でコントロールできないことが圧倒的に多いじゃないか。そしてそれは悪いことばかりをもたらすわけではないよ。
人は生きているのではなくて生かされているのだとはそういう意味じゃないだろうか。
わたしはきっとそういうことはしないと思う。徹底的に自分をコントロールしようなんて思わない。っていうかできない。
いや、これは決して筆者の考え方を否定しているわけではない。
その人にはその人の、求めるものは人それぞれで、たとえ同じように見える人とだってぴったり一致するってことは絶対無い。
だから食事に気をつけ、肉・乳製品・卵などを避ける筆者に、「そうやって我慢することがストレスになる」と忠告する人に対し、我慢しているわけではなく、自分ができる努力を怠り放置することこそがストレスなのだと反論する筆者には激しく同感する。

わたしはこう思っている。
人間が、その人生で制御可能な部分は実はものすごく限定されている。
その限られた中で、自分の意思で選び、実践していくことこそが「自由」であり、他人がとやかく言う権利なんてない。
ホスピスにお見舞いに行った人たちが、患者が葬儀やその前の身辺整理の話なんかを始めると気まずい雰囲気になって話題を変えようとするのは、必ずしも思いやりというわけではなく、保身のためもあるんじゃないか。
うっかりしたことを言って傷つけたくない、悪者になりたくない、穏便にこの場をやり過ごしたいというような。
患者がその人にそういう話をするってことは、もちろんそれを聞いてほしい、相談に乗ってほしい、一緒に考えてほしいからで、しかしその荷物をちょっとでも一緒に担ぐことはかなりハードなことだろう。簡単にできることではないこともよくわかる。避けたい気持ちもよくわかる。
でもできる限り、いろんなしがらみ、薄い膜みたいなものをはがしていって、患者が本当に望んで話していることがあれば、正面から受け止めたいものだ。実際そういう状況になったらと思うと、いきなり心細くなるが。
おなじことを小林信也「カツラー探偵が行く」でも感じた。
はげてない人はかなり気軽に「カツラなんてかぶんなきゃいいのに~」「はげててもいいのに~」と言う。
何を隠そうわたしも言う。
しかし、当事者にとってはこれはもう「生きること」と同じくらいの重いテーマなのだ。
病室で、危篤の状態にあるにもかかわらず(だからこそ)、妻に「カツラを持ってきてほしい」と頼む男性を笑えるか。
人は、どんな姿で生きていくか、できる範囲で自分で決めていいんだ、いや、それが意思を持つ人間の姿だ。
そういうわけで、はげとがんを並べて語るのは不謹慎かもしれないが(実はあまりそう思っていないのだが)、
この岸本葉子の本でわたしが一番感じたことはそれだ。