快読日記

日々の読書記録

「分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議」河合香織

2021年09月07日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
8月31日(火)

「分水嶺 ドキュメント コロナ対策専門家会議」河合香織(岩波書店 2021年)を読了。

尾身さんをはじめとする専門家会議を、
所詮御用学者でしょくらいに思っている人にぜひお勧めしたいです。

結局、政府と専門家会議は、国民へのメッセージの「内容」よりもその「表現」で争っているようでした。
率直に伝えたい専門家会議と、言質を取られたくない、あとで間違いでしたは許されないと考える政府とでは、そもそもがなじまない。

そして、政府は都合が悪くなると「専門家の意見を伺って」とか言って逃げ、
かと思えばひとことの相談もなしに大きな決断をしたり(一斉休校やアベノマスク)します。
控えめに言って、やりづらい。
ストレートに言えば、腹が立つ。

でも、そんな“悪役”になりやすい厚労省をはじめとする国側で働く人たちにも言い分はあるし、正義もある、
そこら辺もしっかり拾っているいい本だと思いました。

この著者は、事実を追究する以上に、対象者の内面もすくいとるような取材をしていて、誠実さを感じます。
尾身さんに関しても、周囲の人たちの話や事実を積み重ねることで、
その知性や人間性、自分の感情をコントロールできる精神力が伝わってきました。
それ以外のメンバーについても、ああ、日本にはこういう人たちがいてくれてるんだなあ、と頼もしく感じつつ、なんだか謝りたいようなお礼を言いたいような気持ちになります。

ところで、専門家会議のメンバーの日当は17,599円。
兼職規定を理由にそれすら受け取らない人もいるそうです。
交通費等もゼロ。
使命感や責任感で日夜動いている。
それなのに彼らには脅迫状が届き、メンバーの弁護士は専門家の暴走を止めなかったと訴えられ、尾身さんには殺害予告まで届きます。どうなってんですかね。

「女帝 小池百合子」石井妙子

2021年08月23日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
8月20日(金)

「女帝 小池百合子」石井妙子(文藝春秋 2020年)を読了。

「利用するか攻撃して傷つけるか」の二択でしか人と関われない人の話。

嘘が多すぎて麻痺しちゃったのか
もともと良心がないのか。
嘘つきだから人を信用できないという不幸。

華やかなひとつ違いのいとこの存在、
ある種の人格障害といえる父親(破天荒とは別物)、
生まれつきの顔のアザとか、
山岸凉子の絵で脳内再生してしまいました。

この人は細木数子にそっくりです。

軽薄で、他人に共感する力がごっそり抜け落ちてる小池百合子の総理就任を、この本が阻止してくれるのか。

しかし、考えようによっては、
親やじいちゃんの代からの代議士ですみたいな貴族だらけの政界で
野良犬がのし上がるにはこれしかなかったとも読めます。

「「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症」坂爪真吾

2021年08月20日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
8月14日(土)

「「許せない」がやめられない SNSで蔓延する「#怒りの快楽」依存症」坂爪真吾(徳間書店 2020年)を読了。

もうフェミニストvsマチズモみたいな単純な話じゃないんですね。
昭和は遠くなりにけり。

「ツイフェミ(ツイッターフェミニズム)」が、フェミニズムに理解がある「リベラル男子」までをも攻撃するとか、
オタク対フェミニスト(「女体」を強調したアニメ絵のポスターなどに関連して)、
LGBTへの差別・そしてその内部の複雑極まる対立構造などなど。

特に驚き、嫌悪感を持ったのは、
“ネットで怒ったりケンカしたりしてる人たちの多くがその件の当事者ではない”ということです。

ガラケー愛用者でSNSとは縁がない(好きな作家などのツイートを数ヵ月に1回PCで覗くくらいが限界)わたしから見ると、
な、なんだかすごいことになってるな…、くらいの感想しか持てず、くわばらくわばら(読むのがしんどい)、だったんですが、
終盤、これらの行動を「依存症」と位置付けてからの分析はとてもおもしろかったです。

「自分の痛みと他人の痛みの区別がつかない」で怒り狂い、
その怒りがもたらす快感がクセになり、依存してしまう。
でも、これはかなりストレスフルですよね。

最後に「原因は、思想ではない」と言い切るあたりにも納得しました。

納得したんですが、
そうした「怒りの快楽」依存症で、SNSでの「放火」などがやめられない苦しみを抱えた人たち(もちろん依存の自覚はない)からしたら、
筆者の、ちょっと彼ら彼女らを見下した(ようにみえるくらいクリアな分析)態度にイライラしちゃうだろうなあ、と思いました。
ほとんど逆恨みに近い感情なんだけど。
それが冷静な指摘であればあるほど怒りを燃え上がらせてしまう。

やっかいな感情です。

とにかく、さっさとSNSから離れられればいいのにね。
それができれば苦労しないか…。

「音の旅人 津軽三味線・高橋竹山ものがたり」藤田博保

2021年08月07日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
7月29日(木)

「音の旅人 津軽三味線・高橋竹山ものがたり」藤田博保(金の星社 1986年)を読了。

北島三郎「風雪ながれ旅」のモデル・高橋竹山の評伝。
でも、児童向けなんです。しぶい。

幼少期のはしかが原因で失明してから、
三味線を覚え、かど付けをしながら各地をまわり、
津軽三味線の名人といわれるまでになった人の話です。

図書館で「高橋竹山」で検索したら唯一出てきた本で、
おもしろくて一気読みしてしまいました。

文章のリズムや言葉のチョイスもなつかしいかんじがします。

目の見えない人がひとりで三味線を抱えてかど付けをする光景は、
遠い昔の遠い国のことみたいですが、
ついこの前まで普通にあったんですね。
見たことなんかないのに、
知ってる場面のような気がします。

自伝もあるようなので読んでみたいです。

「命がけの証言」清水ともみ

2021年07月26日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
7月11日(月)

「命がけの証言」清水ともみ(ワック 2021年)を読了。

この本、ベストセラーになって欲しい。
わたしは図書館でたまたま見て、
そのタイトルにちょっと特殊な引きを感じて借りたんですが、
これは買わねばなりません。

東トルキスタンのウイグル人に対する中国共産党の非道(虐待、殺戮、臓器狩りなど)はここまでひどいんですね、読んでて震えがきます。

日本では“中国の新疆ウイグル自治区での人権侵害”という表現にとどまった報道しかされず、
詳細はほとんど知られていない気がします。
民放で昼にやってる生放送のニュースで、
“この件は中国当局からの圧力があって報道できない”と発言したアナウンサーが変なタイミングで急にいなくなった(他番組に異動)というエピソードがこの作品でも紹介されていますが、
なんで日本は中国に対してこんなに気を遣うんでしょうか。謎すぎる。
彼らの犯罪行為は決して許されるものではない。
ナチスドイツ以下の非道、という表現はおおげさではないと思います。

「暴走老人 犯罪劇場」高橋ユキ

2021年07月26日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
7月6日(火)

「暴走老人 犯罪劇場」高橋ユキ(洋泉社新書 2017年)を読了。

この前読んだ春日武彦の本で話題になっていたので読んでみました。
「つけびの村」の人の本だし、と思って。

老いると円熟方向に行く人と先鋭化する人とに分かれる。
(先鋭化、というのは、もともとある猜疑心や攻撃性や被害者意識などが、という意味で)
後者のさらに一部が犯罪に走る、
そんな“暴走老人”たちが被告になったいくつもの裁判傍聴記です。

取り上げられた事件はどれも興味深いものばかりだけど、
ところどころ文章が読みにくい、わかりにくい。
慣用的な表現の誤用や文法的にどうか、という表現もあり、
誤解したまま読み進め、途中で気づいて引き返すのはストレスでした。

あと、それぞれの章の冒頭に事件当時の新聞記事が出ていて、
そこで被告人以外の人物の実名が明らかになっているのに、
なぜか本文では仮名になっていて(たとえば記事には佐藤とある人物を本文では鈴木と呼ぶ)混乱します。
小さい記事の部分なんか読まないと思ってるのかな。わからん。
仮名にするなら記事の実名部分は消しとけばいいのに。

終盤、春日武彦が登場してびっくりしました。
これ、高橋&春日の対談だったらよかったです。

「ある日の入管~外国人収容施設は“生き地獄”~」織田朝日

2021年06月11日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
5月31日(月)

「ある日の入管~外国人収容施設は“生き地獄”~」織田朝日(扶桑社 2021年)を読了。

スリランカ人女性の死亡事件で、
いったいどんなところなんだ入管って?と思ってたタイミングで、
図書館でみつけた本。

入管に収容された外国人を支援している人が書いた漫画です。

タイトルどおり、
日本の入管施設がいかにひどい場所か、
職員がいかに冷酷か、
収容された外国人はどれほどむごい目に遭ってるかというエピソード満載ですが、
そのどれもがだいぶ感情的なレポートに終始しているので、
気持ちは分かるんだけど、
ちょっと求めてたものとは違うかも、と思いました。

そもそも、なぜ入管ってこんな状況なのか、
いつからこうなのか、
法的にはどうなのか、
改善する可能性はあるのか、
他の国はどうなのか、
死亡事件や事故は過去にどのくらいあるのか、などなど、
次から次へと疑問がわいてきて、
もやもやした挙げ句、
ちゃんと取材したり論じたりしてる本が読みたくなるという仕掛け、です。

「アメリカ炎上通信 言霊USA XXL」町山智浩

2021年06月09日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
5月31日(月)

「アメリカ炎上通信 言霊USA XXL」町山智浩(文藝春秋 2019年)を読了。

アメリカに生まれなくてよかった、と胸を撫で下ろしたり、
むしろアメリカの方がマシだ!と思ったりしながら読了。

澤井健の絵も相変わらずうまいしおもしろい!
(表紙はあびる優ではない)

「コロナ脳 日本人はデマに殺される」小林よしのり 宮沢孝幸

2021年06月09日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
5月23日(日)

「コロナ脳 日本人はデマに殺される」小林よしのり 宮沢孝幸(小学館新書 2021年)を読了。

ここで、二人が展開する「コロナなんてただの風邪」説はほぼ正しいんだろう。

マスコミに振り回されてる人々は「コロナ脳」で彼らに言わせればおばかさんなんだろう。

こういう、俺たちは真実を知っていて、知らないやつはバカ、みたいな言説は、
啓蒙というより攻撃、
議論するというより「ののしってる」ってかんじ、
読んでて不快で疲れます。

「どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2」宮口幸治

2021年06月09日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
5月20日(木)

「どうしても頑張れない人たち ケーキの切れない非行少年たち2」宮口幸治(新潮新書 2021年)を読了。

前作「ケーキの切れない非行少年たち」を読んだときは、仕事柄、ああ、こういう子いるよな~(特定のところに固まって存在してる)、という感想を持ちましたが、

この「2」は、彼らを支援する立場からの考察や提言が前作より増していて、
中でも、“支援したくなくなるような人物こそが支援の対象”という言葉が重いです。

支援者だって人間なので、彼らに傷つけられながら助けてやる、というのはなかなか過酷だろうと思います。
助けてやるという発想がいかん、という声が聞こえてきそうですが、よほどの宗教的使命感でもない限り無理だと思う。

結局、彼らを信じて支援し、導くことは、まわりまわって社会にとってはいいことなんだけど、
今みたいな社会に余力がない状態ではかなり大変です。

「加害者家族を支援する」阿部恭子

2021年03月04日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
2月14日(日)

「加害者家族を支援する」阿部恭子(岩波ブックレット)を読了。

犯罪被害者とその家族への支援が必要なのは当然ですが、
同様に相当な苦痛を強いられる加害者家族への支援はかなり遅れています。
彼らは自力で耐えるしかなかった。
世間への引け目があるため、まず助けを求めることもできません。
住処を移ったり、最悪の場合、自殺してしまうこともあります。
大きく報道される殺人事件はもとより、性犯罪件とか窃盗だって家族はひどく苦しめられる。

この本は、具体的なケースの紹介がなされたうえで、そこには我々がこういう支援をしました、という話になっていて、
ただ「加害者家族はこんなひどい目にあってますよ」で終わらせない、そのための支援の話がメインで、
本格的な加害者家族に対する支援がようやくスタートした、というかんじがしました。

驚いたのは、欧米では加害者家族は世間の同情や励ましの対象になるんだそうで、
犯人の親を引きずり出せ!とか言われちゃう日本はなんだかむごいですね。

なんでもかんでも外国が進んでいる、とは全く思わないけど、この件に関しては差がありすぎてちょっとショックです。

「だからここにいる」島崎今日子

2021年02月26日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
2月12日(金)

「だからここにいる」島崎今日子(幻冬舎文庫 2021年)を読了。

山岸凉子と木皿泉の項が読みたくて購入。

いわゆる“ファン”ではない、思い入れが(ほぼ)ない、ちょっと距離のある視点からの人物ルポが新鮮でした。

山岸凉子のお兄さんの話は貴重だし、
木皿泉が演出家と喧嘩したり、鬱になったりしたのも、本人のエッセイを通して知ってしましたが、こうして別の目から見るとまた違うものが見えてくる。

この2人以外では安藤サクラと長与千種がおもしろかったです。
とくに長与千種に関しては、もっとボリュームがある評伝が読みたい!

「辛酸なめ子の現代社会学」辛酸なめ子

2021年02月08日 | ノンフィクション・社会・事件・評伝
1月25日(月)

「辛酸なめ子の現代社会学」辛酸なめ子(幻冬舎文庫 2016年)を読了。

辛酸なめ子の文章には慣れているけど、漫画にはあまり免疫がないので新鮮でした。
蛭子さんの絵にも感じるような、気味悪さがいい。
この気味悪さは、世界への不信感とか悪意とかにつながっていると思われます。
そして、“現代日本社会”なるものに卑屈な視線(=そこに混ざれない私。)を送ってるかと思えば、せせら笑っている(=そこを超越してる私。)ようでもあって、クセになります。