快読日記

日々の読書記録

「芝桜(上・下)」有吉佐和子

2014年05月01日 | 日本の小説
《4/30読了 新潮文庫 1979年刊(1970年に新潮社から刊行された単行本を文庫化) 【日本の小説】 ありよし・さわこ(1931~1984)》

冒頭、縁日の場面。
大きい金魚に正面から挑む、勝ち気な優等生の正子は15歳。
白米1升50銭の時代に1円もつぎ込み、あえなく惨敗します。
一つ年上の蔦代は、正子が破いた手網を使って(それに対してテキ屋が何も言わないのを見越している!)簡単に5匹もすくいます。
ところが蔦代は、それを返す代わりに、生け簀の中で弱って死んだ金魚6匹を要求(テキ屋に文句があるはずがない)。
そして、その先の鉢植え屋で芝桜の苗を買い(代金は10銭に値切った挙げ句、正子に出させた)、しかし肥料となる油粕は買わず、金魚の死骸で代用する。
なんて賢いんだ蔦代、恐るべし!
これからの2人の人生を暗示する名場面でした。

生真面目な正子と知恵者の蔦代は雛妓(おしゃく)と呼ばれる見習い芸者で、これはそこから戦争を挟んだ約30年間の物語です。

「正ちゃんは字が読めるから気の毒ね」
「どうして」
「字で読んだものは間違いがないって思うから、それより他の考えが浮かばないのよ」(下131p)

蔦代は文盲で(ひょっとしたらそれも嘘かも)、信心は欠かさず、親孝行で動植物を育てるのが上手な反面、嘘の名人で、真実を知らない者はもちろん、知っている者までを「もしかしたらそうかもしれない」と丸め込む。
周囲の人間や状況を常に俯瞰的に把握し、人心の先の先を読み、鮮やかに自分の利益につなげる見上げた女、言い換えれば関わりたくない女。
正子は蔦代の機転のおかげで何度もピンチから救われる一方で、その策略によって人生を狂わされたりします。
読者というのはどっちかと言えば正子タイプ(蔦代タイプは読書なんかしない)なので、一緒に翻弄される気分で読み進むことになります、「いるよねー、こういう女。」ってかんじで。
どうにも信用ならなくて「もう絶交だ!」と宣言までするのにいつの間にかヨリが戻ってる、なさそうでありそうな関係。
読者から見ると、蔦代の気持ちはその言動から推測するしかなくて、「友達になりたくないなー」と思いつつ、底知れない不気味さに怖いもの見たさが高まるから不思議です。

蔦代みたいな人のこういう“実力”って、年齢や経験を積めば誰でも身につくってもんじゃないですよね、ある種の資質であって、だから余計に怖い。
正子への好意や敬意をよく口にするけど、本音が見えないからどう受け取っていいかわからない。
年老いた蔦代の母親が“あの子はお人好しですぐ人にだまされる”という、そのセリフにもぞっとします。
こういう人、いる!という恐怖。
でも、それがサスペンスにもミステリーにもならず、世事に紛れて切り離せない日常の一部になっているすごさ。

正子の人生にとって蔦代は腫瘍みたいなものか。
だとしたら悪性?良性?


/「芝桜(上下)」有吉佐和子