十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

「市長と語る会」

2019-12-21 05:00:00 | 投稿

先日、帯広市内の施設で「市長と語る会」が開かれた。市長は、スマホ、小売店舗の変遷など、今と昔の違いなどを数値や映像を示しながら語っていた。これら数値や映像は、全て人と人とのつながりや人口減少に関係していた。

確かに高度資本主義は、非正規社員の増加、未婚化、晩婚化などをもたらし、人間関係の希薄化や人口減少をもたらす一因でもある。資本主義は人間関係を希薄化し人間疎外をもたらすとカール・マルクスが言っていたが、本当かも知れない。だから、将来的に資本主義は、共生主義が加わる時代がやってくると思う。

 

またフランスの経済学者トマ・ピケティは、その著書『21世紀の資本』で資本主義の不平等を指摘している。

世界経済に不穏な影が差し始めたいま、国際貧困支援NGO「オックスファム」の報告が、各国に衝撃を与えている。世界のトップ62人の大富豪が、全人類の下位半分、すなわち36億人と同額の資産を持っているという。

「たったの62人」大富豪が全世界の半分の富を持つ、あまりにも異常な世界の現実(出所:2016.2.24号、「週刊現代」より)

 

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 注)カール・マルクス

カール・マルクス(1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、ドイツプロイセン王国出身の哲学者思想家経済学者革命家

社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年にプロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。

フリードリヒ・エンゲルスの協力を得ながら、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治思想に多大な影響を与えた。    

(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 注) トマ・ピケティ

トマ・ピケティは、フランス経済学者クリシー出身。経済学博士パリ高等師範学校フランス国立社会科学高等研究院の出身。経済的不平等の専門家であり、特に歴史比較の観点からの研究を行っている。2002年フランス最優秀若手経済学者賞 を受賞。パリ経済学院 設立の中心人物であり、現在はその教授である。また、社会科学高等研究院の研究部門代表者でもある。

 経済学界において、ピケティは経済的不平等の専門家と見なされている。この方面でのピケティの業績は数多く、理論的かつ標準的なものとなっているが、1990年代末からは、歴史的、統計的視角からの研究がなされている。

 (出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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連載:関寛斎翁 その12 生三さんのこと 

2019-12-20 05:00:00 | 投稿

 

子どもたちのなかで、寛斎の後半生に消しがたい苦悩を刻みこんだのは、長男生三(せいぞう)の存在だった。彼は一八五四(安政元)年、郷里前之内で仮開業した寛斎二四歳のときの出生である。
生三は、父母のもとにあって銚子で暮らすが、父の長崎遊学に当たり、六歳で東金の祖父母に預けられたまま、父母と離れての生活を続けた。九歳のとき順天堂に入門、一八六九(明治二)年、一五歳で、尚中の出向した大学東校に学んでいる。
しかし、その翌年から肺を患い、山梨病院長当時の父のもとで療養した時期もあったが、快復後は、一八七四(明治七)年、二〇歳で再び大学東校の後身、東京医学校に再入学した。そして三年後、西南役に際し大阪陸軍臨時病院長となった佐藤進につくため大阪に行き、翌年再び上京して佐藤尚中にも師事したが、結局その時点では開業医となることはできなかった。
このような生三の医学研修をめぐり、佐藤尚中・進父子や長与専斎らの助力を求めて父寛斎が奔走したことが「……白井、長与の両氏は法を侵して生三を救ふにあらざるも然れども生三をして自ら法に適当せしむるの順路に導くの厚きは思ふて尚余りあり」との日記からわかる。もう一つは、このころ、生三が何か法に触れるトラブルを引き起こしていることである。これ以後一八八四(明治一七)年、生三が三〇歳までの10年間。父と子との対立は相当深刻なものがあったようだ。

関寛斎 最後の蘭医 戸石史郎著

 

 

 生三は東京医学校から慶応義塾医学所を経て、洋行帰りの医師佐藤進に師事したのち、徳島で医師をしていた。今春、寛斎の勧めに従い嫁を娶ったが、先月、一言の相談もなしに離縁して家から追い出していた。
 生三は縁側から庭へ降りて、母に背を向けたまま続けた。
「父さんは気付いておられぬか、心底自分に惚れてくれる女が傍らに居る幸せ、というのは確かにあると私は思います。そうでなければ、生きることはあまりに寂しい」
しんとした哀しみが静かに伝わってくるような、生三の声だった。
ふいに、あいの脳裡に霧の中の情景が浮かんだ。幼い日の寛斎が山桃の樹に槌って泣いている姿が、記憶の底からあいを呼ぶ。
もしかしたら、とあいは愕然とする。
私はこの子に、先生と同じ思いをさせたのではないだろうか。七つでその手を放して以来、生三はずっと孤独の中に身を置いて生きてきたのではないか。
だからと言って今さらどうすることもできないし、生三にしたところで、もう二十七、親の情がどうこう言う歳でもない。あいは自身に言い聞かせるのだが、じくじくとした胸の痛みをどうすることもできなかった。
長男に対する寛斎の怒りは冷めやらず、あいや年子の懸命の取り成しにも耳を貸さずに生三を廃嫡とし、新たに齢七つの餘作を相続人と定める法的手続きを取った。廃嫡、という不名誉が息子の人生に暗い影を落とすことを憂い、あいは幾度も懇願を試みたが、どうしても夫の決断を覆すことは不可能だった。

髙田郁著 あい永遠に在り

 

子どもに賭けた夢
●梅村 寛斎は自分がこれだけ好き勝手に生きているくせに、自分の長男の生三を、「明治天皇の侍医にしたい」と考えて、わずか10歳で佐藤泰然の順天堂へ預けているわけですよ。自分は18歳まで養父の塾で勉強をしていたのに……。生三は精神的にまいってしまって、途中で順天堂をやめてしまうんですが、その後また大学東校(東大医学部の前身)に入り直しているんですね。寛斎が生三を大学東校へ無理やり入れるんですけど、やっぱりなじめないで結核に罹り、また精神的に病んでしまって、そこも休学してしまいます。
その後生三は医者になるんですが、貧民救済運動や運動に身を投じて大活躍をするんですね。それが爛に障って、寛斎は生三を廃嫡処分にしてしまいます。「徳島新聞」には”ここに父と子の思想的な対立が生まれた。ついに寛斎は生三を廃嫡するに至った”と書かれていました。
◆長尾 子どもを親の考える枠にはめようとするのは、愚かなことですよね。生三にとっては気の毒なことでしたね。立派な親父の束縛から逃れて自分を取り戻したいという思いが、「明治天皇の侍医」とは真反対のところに自分を向かわせたのかも知れませんね。しかし生三は生三で、徳島では社会運動家としても評価されているし、その貧しい人たちに対する思いは、寛斎の思想行動に通底しているように思いますが。
●梅村 そうなんです。この二人の思想は対立してない。同じだから、けんかになったんですよね。生三という人は、ものすごく利発で勉強もできて、寛斎も実は一番期待をかけていたんです。期待をかけていたのに自分の思いどおりにならないからという怒りが、廃嫡処分につながっているんですね。でも貧民救済運動は、寛斎自身がやっていることじゃないですか。親子って何で仲が悪くなるのだろうと考えると、お互いが似ているからなんですよね。

梅村聡・長尾和宏著 蘭医学・関寛斎 平成に学ぶ医の魂

 

§

寛斎と生三さんの確執は、よくある親子の対立ではあるけれども、晩年まで尾を引くこととなります。
晩年の寛斎に対し、生三さんの二男が相続をめぐる訴訟を起こしていますが、これが寛斎の自死の原因と主張される研究者もいます。
しかしここで大変注目すべきことがあります。
それは、生三さんが慶応義塾医学所に在籍していたことを、髙田郁先生が掘り起し、記録してくれていたことです。
寛斎が北海道陸別で開拓に成功したのち、十勝監獄典獄 黒木鯤太郎と懇意になり、その娘を又一の嫁に迎え入れたのですが、寛斎と黒木鯤太郎の関係が、「地元の名士」という事だけではなにか動機として釈然としない思いがありました。
ところが、ある研究者が「黒木鯤太郎と生三は、慶応義塾で接点があったのでは」との情報を提供してくれました。それならば、黒木が自分の長男と知り合いだったという事で、意気投合したことは想像に難くありません。それで生三さんの慶応義塾での足跡を探していたのですが、なかなか記録には出会うことができませんでした。
しかし髙田郁先生は、しっかり調べて記録に残してくれていました。


 Good Job!! Kaoru

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巧みな質問ができる人できない人

2019-12-19 05:00:00 | 投稿

               

先日読んだ本、「巧みな質問ができる人できない人」には、次のように書かれていた。


『つい口を出したくなるのをこらえてじっと聞け。「賢者は聞き、愚者は語る」というイスラエル王ソロモンの言葉を持ち出すまでもないが、まさに聞き上手の人ほど賢い。

 

ところが、頭のいいようで愚かな人間は、会議をまるで自分のワンマンショーと錯覚しているのか、周囲の意見を吸い上げない。そして、最初から終わりまでしゃべり続けるのである。逆に愚かなようでいて賢い人間は、周囲のいい分をじっくり聞き、そして判断する。それが上手な人間関係の築き方なのである。上に立てば立つほど聞き上手でなければならないと思う。  (中略) 

 

松下幸之助のこと~

「ああしろ、こうしろと自分から結論を出さず、何回も根気よく質問を繰り返し、担当者たちに徹底的に考えさせる。そして、ひとつ結論が出ると、それまでの労をねぎらう。あれほどまわりの人に感謝をした人はいない。けれども何事にも満足しなかった人もいない。最初の頃は自分ですべてを決めて、部下に命令するというのが普通だったようです。

 

創業オーナーなのですから、当たり前といえば当たり前です。相談役になられてからは、責任の発生するような命令は一切せず、すべて部下に考えさせるようにされていたようです。かなりの努力が必要だったのではないでしょうか。つい、口を出したくなるものだからです」。 そのときのシーンが目に浮かぶようだ。』

 

自分のことを言われているようで、何かの参考になれば幸いです。

 

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注) 松下幸之助

パナソニック(旧社名:松下電気器具製作所、松下電器製作所、松下電器産業)を一代で築き上げた経営者である。異名は「経営の神様」。

その他、PHP研究所を設立して倫理教育や出版活動に乗り出した。さらに晩年は松下政経塾を立ち上げ、政治家の育成にも意を注いだ。

 PHP研究所

株式会社PHP研究所は、パナソニック株式会社の創業者である松下幸之助によって創設され、出版事業を主体に行っている出版社2010年10月1日政策シンクタンクを標榜する株式会社PHP総合研究所吸収合併した[1]。)。

 PHP」とは、「Peace and Happiness through Prosperity」の頭文字をとった語で、「物心両面の繁栄により、平和と幸福を実現していく」という松下幸之助の願いのもと、1946年(昭和21年)11月に創設された。

 (出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 

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「アイヌ文化の基礎知識」の本

2019-12-18 05:00:00 | 投稿

先日、児島恭子著「アイヌ文化の基礎知識」の本に、以下の興味深いことが書かれていた。

 

<「蝦夷」アイヌ説と非アイヌ説>
 『「蝦夷」という語は、元来、中国の歴史の中で漢族以外の野蛮人をさす蔑称であったが、古代日本ではヤマト政権が、東北地方のヤマトに屈伏しない人々をこの語(えみし)でよんだ。のちには北海道の地を蝦夷島(えぞがしま)とか蝦夷地とよんでいる。

 

古代の歴史書に出てくる「蝦夷」がアイヌと同じであるかどうかという問題は、江戸時代の新井白石や本居宣長等の説いらい、明治になると人類学者や考古学者などにより論争されてきた。小金井良精や鳥居龍蔵は石器時代人アイヌ説、坪井正五郎は石器時代人コロボックル(アイヌ神話のなかの人物)説を唱えた。

 

つまり日本列島の先住民であるはずの石器時代人をアイヌと想定していたのである。その後、これらの説は批判され、アイヌ民族の由来は、相変わらず不明とされた。

考古学からの説明も。古代東北の文化は弥生時代にすでに農耕文化が成立していたという発掘の成果もあり、さらに金田一京助や山田秀三による東北地方におけるアイヌ語地名の研究もあり、「蝦夷」とアイヌの関係はいまだすっきり解明されていない。

 

要するに、蝦夷アイヌ説は、「蝦夷」が北海道のアイヌ文化に、蝦夷非アイヌ説では日本(ヤマト)文化につながる面を強調していることになろう。』

 

縄文人は日本人としての始まりであり、あとから来た弥生人との混血を繰り返しながら北方と南方に分かれたという。北方は「エミシ族」であり、南方は「琉球民族」と言われている。私が日本人のルーツについて無知であったことは、恥ずべきことのひとつであった。

 

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注) アイヌ

アイヌは、北海道を主な居住圏とする先住民であり、少数民族である。独自の文化を有する。かつては北海道のみならず、北は概ね北緯50度線付近より南の樺太、東は千島列島全域、南は本州北端にまたがる地域に居住していた。母語アイヌ語で、縄文人の遺伝子を色濃く受け継ぐ民族とされている。

アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。生業から得られる毛皮海産物などをもって、和人からはなどの食料漆器木綿鉄器などを入手。黒竜江下流域や沿海州との山丹交易を仲介したほか、カムチャツカ半島南部の地域と交易を行い、永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。

19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が編入されたが、19世紀中頃にはアイヌも同様の運命をたどった。 1855年2月7日安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約により、当時の国際法の下、一部がロシア国民とされた。現在、日本とロシアに居住し、日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。

 

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族和人)とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。

( 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

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気にしすぎる自分がラクになる本

2019-12-17 05:00:00 | 投稿

先日、精神科医師 長沼睦夫著「気にしすぎる自分がラクになる本」に、興味深いことが書かれていたので、紹介したい。

 『(前略) 「乳幼児期にわたって両親に虐待をされて、周囲から暴言や暴力を受けたことによって、愛情を深める行動(愛着行動)を絶たれると、さまざまな心の問題が引き起こされます。これを「愛着障害」といいます。愛着障害もトラウマ同様、母親のイライラをぶつけられた」 「母親に無視された」などの比較的小さなトラブルでも起こりうる、だれでもが持つ可能性のあるものです。  

  もっとも身近な人の愛を感じることができずに育つと、自分は他人から愛される価値のない人間だと思い込むようになり、そのような自分を受け入れることも、好きになることもできず自分を過小に評価して、つねに劣等感にさいなまれマイナスで物事を考えることが多くなります。

 また、愛着障害は周囲の人から愛されないことだけでなく、両親からとても過保護にされたり、過剰に干渉された子どもにもみられます。この場合、起きるのは「自己の肥大」です。両親の愛情が不足した場合と同様に、このような子どもは、親の期待を裏切らないようにみせかけの自分をつくり、本当の自分の気持ちには無頓着で、両親に対して過度な従順な態度をとるようになってしまいます。のちほど詳しく説明しますが、この見せかけの自己意識が「自己愛性パーソナリティ」という自分中心の性格のゆがみにつながります。そして、それもまた、マイナスの思考のクセを呼び起こす原因になるのです。  (中略)

 「損して得取る」という言葉があります。『広辞苑』(岩波書店)によると、「一時は損しても将来の大きな利益を計る。損をしたようで実は大いに得をする。」ということです。自分のことを客観的にみたり、心の内側を考えたり・・・・・そうやって受け入れる作業をする以前にも、それなりの自尊心や誇り(プライド)、自信はあった。でも、本当の自分を受け入れることで、その自尊心や誇り、自信さえ失うこともあります。失うのだから、これは一時的に損をすることになります。

でも、考えてみてください。それは本当の自信や誇りだったのでしょうか。もしかしたら、弱い自分を必死に守るためのごまかしの自尊心、誇り、自信だったのかもしれません。一皮むけば、子どもの頃の傷を引きずったまま、心の内では、不安や悲しみや恐れなどが渦巻いていたのかも・・・・。

そのような自分にしがみついていないで、手放してしまいましょう。流れに身をまかせ、手放して、何もなくなった時に、新しい自分が見えてきます。ごまかしの自尊心に包まれていたことで見えなかった、もっとステキな自分がいるかも知れません。

勇気を持ってありのままの自分を受け入れ、許して、手放したからこそ、もっとステキな新しい自分に出会えることもあるのです。』

本に書かれているように、ごまかしの誇りや見栄っ張りは、捨てた方がよいと思っています。

「十勝の活性化を考える会」会員

 

 

注) 愛着障害

 

愛着障害

1.  生まれて2年目までに形成される通常の母子間の愛着形成;

2.  通常の愛着が2-3年以内に形成されない場合には、愛着は遅れて形成される

とする愛着理論に基づいている心理学用語である。

愛着障害は、研究文献においては見られる用語であるが、反応性愛着障害 とえばアメリカ精神医学会DSM-IVにあるような)の臨床的な診断基準よりは広い意味を持つ。

愛着障害をDSM-IV-TRにおいては「抑制型」と「脱抑制型」に分けられ、ICD-10では「反応性」と「脱抑制性」に分けている。

愛着理論が用いられるのは、たとえば、里子・養子に出された幼児のように、生後すぐに慢性的な虐待を経験した幼児の行動障害を説明する場合などである。

愛着療法 は、用語の用い方に合意がなされているとは言い難い、意味の広い用語であるが、多くの狙いをもつ療法である。それゆえに、この用語は実用的ではないと考えるものもある。

愛着療法は1940-50年代にジョン・ボウルビィによって開発され、幼児精神医療、小児発達  や関連する領域における先進的な理論である。理論の研究はよくなされており、愛着関係がどのように発達するかや、どうして後の正常・健康的な発達に必須であるのかや、幼少期の虐待やこの期間における他の障害がどのような効果をもつのか、などを示す。

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

 

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