“悪法も法なり”とは、哲学者 ソクラテスが言った言葉である。悪法も法なりとは、たとえ悪い法律であっても、それが存在する限りは従う必要があるという意味の諺である。
法やルールが存在している状態で、それが理不尽や不合理に思われる状況であると知りながら、ルールである以上は守らなければならないという時に、この諺が使われる。
先日、年齢がひとつ若い知人と話す機会があった。彼は、人間には自由が大切だというのである。私はそのことを否定しないが、その前に人間は社会的な動物だから、「公共」が大切だと思っている。公共が無ければ、人間社会は成り立たないのである。これはある意味で、“悪法も法なり”に似ている。
これには全く関連していないが、いま、学童保育が危機に立っているらしい。そのひとつに、高齢保育員と児童との価値観の違いがあるらしい。学童は「自由」を重んじ、高齢保育員は、「公共」を重んじているらしい。時代が変われば、「公共」の中身も変わってくるのだろう。
先日、三人の対談集である“この国の「公共」はどこへゆく”の本を読んだ。対談者のうち二人は、文部科学省 キャリア官僚だった 寺脇研氏と前川喜平氏で、あとの一人は、城南信用金庫理事長 吉原毅氏 であった。この本には、「公共」のことが書かれており、その抜粋は次のとおりである。
『 オウム真理教事件の時もそうでしたが、社会に重要な出来事をやり過ごすだけの人々ばかりでした。社会の動きに無関心でいる人々がすごく多くなった気がします。
かつては、社会や政治について考えようという姿勢は多くの人々にあったのではないでしょうか。街を守る、国をどうする、という庶民層が考えていて、行動して、自分たちと考えの違う活動家の学生たちとも対話しようじゃないかという姿勢があった。当時は社会が若かった。戦後の、国土再建という時代のテーマの中で多くの人々は生き、同じ国民としての連帯、繋がりがあった。そういうことは、今はない。
つまり自分たちの生存を支える「公」について考えていたということですね。自分たちが生きる日々のあり方に「公」が直結する可能性があった。そして貧富の格差はよくない。教育格差はいけない、戦争はよくない、平和は大事だとか、そうした価値観を持って議論し、行動していたと思います。』と。
この「公共」について、憲法12条には次のように書かれている。
第十二条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
私たちは、生まれながらにして持っているのが基本的人権であり、不断の努力によってこれを保持しなければならないとされている。他人の人権を奪ってまで、自分の人権が保障されて良いのではない。
人権と人権を調整するのが「公共の福祉」であり、全ての人権には公共の福祉による他人の人権への配慮が必要である。個人の自由と権利は大切であるが、「公共」の立場からどのように考えていけば良いかが、今後の課題となろう。
公共経済を主張したのは、アメリカの経済学者 ガルブレイス氏である。日本は貧しい国になってしまったので、道路・水道などの「公共施設」を今後、いかに維持していくかも問題になる。市場経済に任せれば資源の有効活用が図られるというが、資本主義は利潤を追求するので、格差拡大につながっている。
ある仏教学者が、「私たちは、利他的であることによって全員が利益を得ることができる。それがコロナ危機の教訓の一つなのだ」と言っていた。利他とは、自己の利益のためでなく、他の人々の救済のために尽くすことをいう仏教用語で、新型コロナ禍を早く収束させるためには考えさせられる言葉である。
「十勝の活性化を考える会」会員