とどちゃんの縁側でひとり言・・・。

日々の生活の中で見たこと感じたことを記録していきます。

子の心親知らず・・・。1

2006-09-04 22:25:31 | 家族
そろそろ私の生い立ちについて書いてみようと思う・・・。
私は1972年福島県二本松市に生まれた。
1歳になって間もなく両親は離婚。元々できちゃった結婚で私の父の家では出産は反対していたらしい。
それもそうだ、当時としてはあまりいなかっただろうし、父の家は建築業で父は後とり、世間の目もあっただろう。
そんな家に嫁に行って姑と母がうまくいくはずもなく、色々確執もあり離婚となった。
なので、幼い頃の私に父の記憶は断片的にしか残っていない。
離婚後、母は実家の近くに家を借り二人の母子家庭生活が始まった。
朝、祖父母の家に預けられ夕飯を食べ、お風呂に入って二人の家に帰るそんな毎日だった。
私の父の記憶は、小学校入学前だったろうか?叔父さんの家に行った時「お父さんだよ」と紹介され何だか複雑だった。
初めて見る「お父さん」本当に知らない人だった。
対して話もせず、外で従妹と地面に絵だか何だか書きながら「あの人お父さんなんだって」と話した事を覚えている・・・。
その後またしても「お父さん」と再会することになる。
あれは母とアパート暮らしの時。何故来たのか記憶が定かでは無いが家に「お父さん」がいてお酒を飲んでいたのか?何だったのか?
小遣いをあげると言われもらった1000円は朝には無くなっていた・・・。
「お父さん」のタクシー代がなかったのだ。
その後3年生になるまで私には「お父さん」は存在しない。
さて、子供の頃の私は今と変わらず「お笑いキャラ」だった。
かなり小さい頃からその要素はあったのか?
一度は、茶の間で祖母に抱かれて、祖父と母と大人3人がお茶を飲んでいた時に急須の注ぎ口が自分の方に向いていたので「こっちから吸ったらみんな笑うかな?」と思って注ぎ口に口をつけて思い切り吸い込んだら熱いお茶が流れ込んで、自分よりも大人がびっくりして大騒ぎになった事がある・・・。
即行で病院に連れていかれた・・・。
ちょっと喉がヒリヒリしたくらいで済んだのだが・・・。
この話は今でも語り継がれている・・・。
10人兄姉の末っ子の母の連れ子を祖父母はいたく不憫に思っていたのは確かで、欲しいものは何でも買ってもらった。
どこに出かけるにも祖母が後から着いてきて、どこかで転ぼうものなら恐ろしい顔でやってくる・・・。
祖母曰く「痛かっただろうと思うと腹が立つ」のだそうだ・・・。
保育園に通い始めると、そんな追っかけ祖母にある日反抗を企てた・・・。

つづく・・・。
コメント
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