碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

ものの見方

2013-02-15 13:21:23 | 日記風雑感
ネットの中には膨大な情報があるのだけれど、自分が見ている情報はどれだけであろうかということを考えてみるに、その質と量ともにそれこそ鴻毛の岩山を撫でるがごとくに微かな微塵としか言いようのないくらいなもんだと思っています。しかも、その情報の質たるや、猫に小判、豚に真珠、象にキャッシュカードで重要な情報をどれくらい見逃しているかと思うことがあります。日本では情報が溢れおりまして、それを全てキャッチするのはどだい無理な話で、そこに優先的な選択をする作業が入るわけです。その選択の規準となるのは、各自、それぞれの基準というものがあると思うのですが、それは自分を基準にすることですから、主観の反映なんですね。つまり、自分に都合のいい情報を探しているわけで、情報の中に自分を反映していることになる。情報という鏡に自分を映している。まるで合わせ鏡のような状態にあるのです。そこでは、何が起こるかというと、見ているのが情報という姿の自我ですからそれがだんだん増幅されていくのです。とくにその傾向が強いのがネット情報です。自分本位の情報しか見ない傾向が強いから、自我の赴くまま、もっと言うと、自我の本能的な選択しか受け付けないようなことになる。その証拠に、エロティックな情報や暴力的な情報が幅を利かす。インターネットが爆発的に拡大したのは、エロと暴力的情念がこの情報媒体とマッチしたからだと思っています。しかも匿名性が拍車をかけた。観念的なアナーキーの世界を実現してしまった。俗に言うネット右翼なんていうのは、政治的には右翼っぽい発言をするのですが、政治的な言語としてはお粗末にのし紙がつくくらい幼稚なもので、実はこれは暴力的な破壊衝動が本質なのかもしれないと見ています。そいう意味では秋葉原事件の加藤智大の心の闇に通底しているのがあるかもしれません。このような破壊衝動も人間の本性だからしょうがない部分はあるのでしょうが、このようなアナーキーさは既存の守旧派には脅威として写った。政治的な秩序を破壊する衝動であるから、独裁的な国家ではこれを規制しようと躍起になっているわけです。じゃあ、開かれた国、日本や欧米ではどうなんだということですが、この情況というのはいわばナルシスの鏡ですから、いずれ水に落ちて溺れて死ぬしかないのです。それが国家的規模で起こるような時代になったと思っております。AKB48に浮かれているオッサンとかブログなんか書くヤツは危ないのです。(ワシのことですが)ついでに言うけどSNSにはまっている者もいずれ、自分の顔に見飽きる日が来るとき、そこに何を見出すのか、それは水の中に浮かんでいる姿か、白い虚無に青ざめている姿であると思っております。そしてこの水の底へ落ち切ったときから何かが始まるだろうという予感があるのですけれど。ちょっと漠然とした話で恐縮です。さてさて、情報の質はやはり現実に触ることが一番であるというのは古今東西一致しております。たとえ眼が見えなくても。・・・ ここで話はちょっとブレークします。               

都市生活に疲れたあなたが、ふらり、田舎へ旅に出る。肩がコッてしょうがないので、夜更けにアンマを呼ぶ。品の良い盲目のお婆さんがやってきてにがい肉をしこしこともみほぐしてくれる。お婆さんは問わず語りに盲いとけなげ一途にたたかった半生記を語り、今では点字でなくても普通の活字でも撫でるだけで全て分かるようになりました、嘘だと思うならお試しあれという。そこで枕元の、バッグから雑誌を出して渡すと、お婆さんは指で一撫でして、ア、わかりました、これは『文藝春秋』ですねと言い当てる。次に一冊渡すと、ア、わかりました、これは『プレイボーイ』ですねと言い当てる。何を渡してもピタリひと言で言い当てる。そこであなたは感動し、婆さんの手を取ってフトンのなかに引き入れ、ごぞんじにさわらせようとする。婆さんはするりと手を引き抜き、これはさわらなくても分かります。『主婦の友』ですね、といった。(作者は故 森繁久彌 文は開高健) 

これはもはや古典といってもいい話となりましたが、ことほどさように、現実とは深い、ちょっと触っただけですべてが分かる。ネットではこんなふうにはいきません。触覚も嗅覚も味覚もないのですから。現実というリンゴの皮を眺めているに過ぎない、その重さも硬さも香りもましてや味はわからないのです。話はこれからです。王敏という中国人の比較文化論の研究者であり法政大学の教授でもある方が、『中国人の愛国心』という本を出されているので、その本の中身について紹介したいのです。中国人のものの見方考え方について、中国ではどんなに能力がありお金を持っていても、愛国心を持っていなければ尊敬されない。その逆もまた真なりで、愛国心をもっている人は士であるという。その愛国心とは何かというと、国に対して忠誠を捧げることなのだが、国というものがしょっちゅう変わることが当たり前に中国では、天命とは民の声であり、皇帝は天命に従わなければならないというおきてがある。民衆の生活が苦しくなれば皇帝を倒すことは道理にかなっている、いわゆる革命は天命を革めることなのです。そのためには道理を尽くし、いかに革命が正当であるのかを表明しなければならない。したがって、そこに至った原因である歴史を重要視するのは、自分たちの存在の正当性と直結するためだ。歴史は自分たちの正当性のアイデンティティーなのであり、生活のマニュアルなのだ。なにか問題があると、歴史をひもどき、これこれの事例があるからこうしよう、あれらの事例があるからやめておこうというふうに、歴史にすべての答えを求めるのが中国人の発想であるそうだ。まさに歴史の鑑というべきものです。正義は時の権力者によってどうにでもされる、あやふやな正義に頼るのではなく、歴史の事実は動かない証左なのです。

<愛国心を持った知識人を「士」と呼ぶ。杜甫や屈原が知識人とみなされるのは愛国者と考えられているからだ。現代の学生たちがよく「愛国」を叫ぶのは知識人として「士」と認めてほしいという願望がある。典型的な愛国者モデルは「岳飛」(1103~41年)の抵抗精神。岳飛は南宋の武将で北方の金軍に対して徹底抗戦した。しかし金との和睦を目論む秦檜によって無実の罪で獄中にて毒殺された。>以後岳飛は英雄として秦檜は国賊として歴史に名を残す。これは900年も前の話であるが、今でもそのことは連綿と伝えられている。秦檜には子孫がいるのですが、その子孫が近年自分たちの境遇の改善を訴えたが未だに無視されているくらいで、中国における歴史というのは、日本人には想像し難いほど、意識の中に深く組み込まれている。<「愛国」の典型例は外国からの侵略の徹底抗戦が最重要要素と考えられる。近代史ではアヘン戦争です。1840年での林則徐(1785~1850)が愛国者として評価が高い。日清戦争のあと講和交渉に臨んだ李鴻章は不利な条件で講和に調印したので売国者とされてしまった。中国の近代愛国主義はもともと日本をモデルとして始まったものである。梁啓超は亡命した日本で明治維新の成果を見て「ここに優れた人々の国がある、その文化と人々は我々と同じである」と述べている、教育勅語によって儒教精神に基づいた愛国教育が全国の学校で徹底されるのを見て強い衝撃を受けたようだ。梁啓超は日本滞在中に愛国教育の重要さを意識するようになり、「徳育・知育・体育」の三つの方針を日本から学んだ。この方針は毛沢東も踏襲していた。しかし二十一カ条の要求以後、愛国=抗日となっていく。「愛国無罪」という言葉は1930年七君子事件に端を発している。抗日民主運動をしていた沈鈞儒、章乃器、鄒韜奮スウトウカン,史良、李公僕、王造時、沙千里、が国民党によって逮捕された。宋慶齢などがこれに抗議し七人を釈放するよう求めた。「彼らは国を救うために行ったのであり、国を愛する彼らが有罪であるならば、同じく国を愛する我々も入獄させろ」という趣旨の運動だった。この運動は「救国無罪」を勝ち取るための運動だった。張学良も国民党政府に釈放を求めた。結局政治的判断を加えて七君子を無罪としたが、無罪とするためには理由がいる。そこで出てきたのが「愛国無罪」であるその後今日まで「愛国無罪」ということばが使われるようになった。>

このように見ると、近代以降の中国の愛国心は日本の影響を受けていることが判る。日本の愛国心は日本の富国強兵政策の反映であり、現代において、めぐりめぐって、日本は中国を鏡として、自国の過去の歴史と向かい合っているようなものではないだろうか。現代中国が歩む道はかつての日本のように富国強兵で軍国主義的な色合いが強くなっていかなければ幸いですが、最近の動きを見ていると、国内矛盾がもっともっと激化すれば軍がクーデター的な行動を起こすこともありうるのではないかと想像するのでけれどそれが杞憂であることを願っております。これはいまだに、かつての戦争の総括をし得ない日本人に対する歴史の皮肉なのであります。ここでまたブレークします。

辺見:「中国という国はある意味、日本より西洋に近い国だと思います。もともと彼らの発想はウエットではないし、政治の発想自体根本的に乾いています。」 
吉本: 中国というのは歴然として多民族の集合で、中心を漢民族だと考えれば、漢民族のメンタリティーは半西洋ですよね。あるいは半近東というべきか」中国に対する付き合い方は「日本には二千  年間、中国から馬鹿にされ続けてきたという遺伝的記憶があって、逆に中国を馬鹿にし返すところから日本の近代が始まったような気がする。ぼくらは馬鹿にする態度と敬遠する態度のその二つの間を行ったり来たりしていた。敬して遠ざくでもなく馬鹿にするでもない、何かまっとうな付き合いというものがあるに違いないのですが、どうもそれがよくわからないのです」  

吉本隆明:辺見庸対談集『夜と女と毛沢東』より

中国人のものの考え方はタテの時間軸に重きをおくのです。なぜこのような問題が起きたか、その原因を除かない限り問題は解決しないと考える。それは長くさまざまな中国歴史において繰り広げられた人間の生き方としてのマニュアルであり、ある意味経典であり、規範である。そして大事なのは、それに誇りをもっているということです。中華思想というと、自己中心的なイメージで語られるけれど、その中身の中国文化について(この場合漢民族中心)どれだけ理解していたのかと問われると、ワシは自分の不明に愕然としたのですね。社会主義中国といえど、その思想の大元は儒教などの中国思想であるということを、あらためて認識させられたわけです。そんなことは当たり前のことで何をいまさらというかも知れませんが、ワシは儒教や老荘思想は社会主義中国ではとっくに葬りされた封建制の遺物だと思っていた。あの文化大革命を経ての中国です。改革開放の中国です。曲がりなりにも近代化を達成した国です。仏教とともに文化遺産的なものだとおもっておりました。しかし、どっこい、なかなか、中国人はしぶとい、社会主義、毛沢東主義なんぞは、儒教などの中国古来の思想に比べれば単なる技術論、方法論であるというふうな捉え方をしているような気がするのです。もともと諸子百家の思想の根本には春秋戦国時代の反省がある。いかに戦争を防ぎ、国を安定させ、民を治めるかということが発想としてある。従って、現在の社会主義政権においても、下部構造の構築後の問題を睨んで孔子の思想を持ち出しているのかもしれない。「衣食足りて孔子を知る」ということです。

<中国人の精神の中核は儒教であるが、その儒教はもともと「戦争への反省」から始まった。中国では殷、周王朝ののち春秋戦国時代と呼ばれる時代に孔子、孟子、など多くの思想家が生まれた。彼らは皆同じテーマを論じている。方法論はちがうけれど、テーマはいずれも「国家の統一と平和」なのである。春秋戦国時代は550年間も続き誰もこれ以上戦争の悲惨さを味わいたくなかった。国家の統一と平和を強く求めたのは戦国時代の反省なのである。諸子百家の根本にあるのはいずれも「戦争への深い反省」であった。以来中国では「武力」による国土の拡張を避けなければならないという考え方が根強く浸透する。これが孟子の説いた「王道」「仁政」という政治手法だ。また老子は「勝っても美しくない」とのべて、暴力暴動という手法を否定した。では武力の代わりに何を国の根幹にするのか。それが「徳」であった。「徳」というのは非常に抽象的な概念であって、「徳」を何で測るかということについて、いろいろ議論はあるが、「仁、義、礼、智、信」を持つことが「徳」の条件とされている。したがって中国人に対して最大の侮辱は「徳」がかけているということが言われる。「徳」:本性の良心をみがきあげた優れた人格。 「仁」:自分と同じ仲間として、すべての人に接する心。隣人愛や同情の気持ち。 「義」:利欲に引かれず、筋道を立てる心。みさお。かどめただしい。公共のために尽くすこと。君主への義理立ての意。 「礼」:人の守るべきかどめが正しい行い。 かたちよくととのえた作法 社会生活上の習慣社会の秩序を保つための経験によって作られた慣習  「智」:物事をとらえて理解する働き 「信」:まこと、本当であるさま、言明や約束をどこまでも通すこと。 国を治める方法論はあくまで「文治」と「徳治」によるものである。国際政治でも、「徳」によって行う「王道」が求められる。天意に基づいて「徳」をもって国を治めなければならない。天子に「徳」がなければ、天意によって、民衆が天子を辞めさせる権利を持っているとまで考えられている。この考えがいつまでも生き続けている。 したがった民衆は統治者を倒してもよい。 孟子の「民を貴しと為し、社稷これに次ぐ」を挙げて「社稷とは国家の意味で、人民がいるから国家が生まれ、国家を統治する君主がいる。軽重を問えば、民が最も貴いのだ。もともと、中国では、天子は民のなかから一番優秀な正人君子が選ばれるのであって、民があってその上に皇帝が存在する。ところが、日本では中国とちがって、天皇は万世一系で、民の中から選ばれるのではない。「民を貴しとする中国と、天皇が絶対的に貴い日本とでは大きな差がある」>

いろいろ突っ込みたくなることがありますが、天皇は皇帝とは違うと日本人は思っているが、中国人からみれば同じものであり、ひょっとしてこれが世界標準的なものの見方なのかとふと思うのですが、しかしながら天皇制の伝統は日本でしか見られないユニークさが際立っております。ガラパゴス島に生き残った亀のような存在なのです。世界遺産に登録すればいいと思うぐらいです。皇帝などという俗な存在ではない神聖で犯すべからざる存在であるとされている。天に近い帝である天皇は断じて中国の皇帝とは違う存在なのだ。冗談で言っているのではありません。日本人の天皇幻想は中国人の皇帝観とは質的に違うと思っております。中国人はその点を見落としていてはいけません。そこを見落とすと日本の文化がわからなくなる。中国の皇帝は実であるが、天皇は虚なんです、さらに言えば贄なんです。こんなことを言うと右翼に刺されるかも知れませんが、それが天皇制が存続する力の源泉だと思うのです。したがって、「民を貴しとする中国と、天皇が絶対的に貴い日本とでは大きな差がある」なんて冗談じゃねえと言いたくなるのです。同列にして語ると誤りを招くのです。政治力学と宗教力学の違いです。これは日本人がみんな武士道精神でもって生きているというのと同じ程度のあさはかな議論じゃないかと思うわけです。天皇が絶対的に貴いとされたことは歴史的に見るとまれなことなのです。明治から昭和の敗戦までのわずかな期間です。それも時の政権に担がれただけですから。自力で権力を取ったわけでもなく、直接国民に選ばれたわけでもない。だから皇帝ではないのです。武士が権力を取った鎌倉時代から天皇は長い間ずうと飼い殺しされてきたわけで、今も同じようなもんです。なんの権力もなく自由もなく国事行為だけやらされているわけですから。しかもやめたくてもやめさせてくれないし、これが飼い殺しでなくて何でしょうか。雅子妃がおかしくなるのはあったりまえで、天皇にもっと人権を与えるべきだと思います。話が本筋から外れてきました。
中国人の歴史に対する偏執というか、フェチシズムは、ちょっと我々には理解し兼ねるのと同じほど中国人は日本人の歴史観のなさ、タテの時間軸より横の空間軸に対するフェチシズムを理解しかねております。周りが何をしているか、何を考えているか、周りがどのように自分を見ているかが、(みんなで渡れば怖くない。)物事の判断規準は現在だけです。今が問題で、対処療法的な問題解決がすべてだとこの本の著者の王敏氏は考えている。A級戦犯でも死んだら神様や仏様になるなんてのは、中国人は到底理解できない。(ワシも理解できない)同じように900年経っても未だに秦檜の像に唾をかけるのは日本人には理解できない(ワシも理解できない)このように物の見方に大きな開きがあるということをまず認識しなければならない。そこからしか共通の理解は得られないのだと王敏氏は言っている。中国が日本と国交を回復したときに、中国政府は、中国国民に対しそれまで日本帝国主義は敵であると言っていた代わりに、過去の戦争は日本軍国主義者による戦争であり、日本国民もその犠牲者であり、悪いのは軍国主義者の指導者なのだという指導者(戦犯)と国民の分離論で、中国国民の理解を得ようとしたのです。そして「徳」の政治手法を発動して日本国民に対し戦争賠償請求を放棄するとしたのです。日本はこれに対し、中国への経済援助で報いるわけです。その裏にはソ連の脅威に対抗する必要があったからなのですが、日中二国間の国交関係から見ると、信頼の基礎と呼んでもいいものでした。ところがこれが崩れた第一歩は何かというと、岸信介の満州国建国記念式典なんですね。あの当時日本では大きな批判もなかったし、右翼のノスタルジーぐらいにしか思われていなかったのだが、中国にとっては、中国侵略記念式典として受け取ったわけです。戦後初の大きな反中行動であり中国侵略の亡霊を見るようなショックを受け両国の信頼の基礎にヒビが入ったのです。しかし、中国は傷を大きくすることを躊躇したなぜなら、中国にとっては日本の経済援助は国家予算に組み込まれていたから、耐え難きを耐えたわけです。そして次に起きたのが小泉首相の靖国参拝なんですね。中国国民に悪いのは日本の戦犯達だ、国民は犠牲者だと言っていた建前上、その戦犯に参拝することは、もはや、国民の納得を得ることはできないと判断して、大きく今までの路線を変えざるを得なくなったというのです。そして反日デモで答えたわけです。そして、尖閣問題に突入していくことになった。タテ軸で考える中国とヨコ軸で考える日本が尖閣で絡み合ってしまったというわけです。ここでブレークです。


パリで、フランス人がイギリス人やドイツ人やアラブ人や中国人と軽いパーティーを開くことになった。フランス人は葡萄酒をふるまうから、各自それぞれ好きなものを持って集まろうということになった。イギリス人はすぐりの実のジャムを持参し、ドイツ人は塩漬けのキャベツを、アラブ人は肉団子を、そして中国人は妻を連れてきた。

この話は本歌がありまして、それにはユダヤ人が参加しておりまして、ユダヤ人は弟を連れてきたそうです。あなたなら何をもっていきますか?ワシは決まっていますコンカいわしかクサヤの干物です

話は長いのでそろそろ、一旦お開きにしようと思います。また続きはいずれ





  

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