1938年12月ニューヨークのライブハウスでチャーリーパーカーがはじめて演奏したジャズがジャズに命を吹き込んだ。それまでの、スィングジャズの形式を打ち破って、ビバップの誕生を宣言した。それは、ジャズの革命だった。演奏者は曲の形式に縛られることなく、自分の音で、自分を表現することに目覚めた。その表現方法としてインプロビゼーション「即興」があった。楽曲の約束事から解き放たれて自由に音を組み合わせていく、それは元の楽曲が何であったかわからないくらいになってしまうような、自己のインスピレーションとテクニックをかけての魂の表現を実現しようとするものであった。そして、すでに構築された曲の秩序への反逆であり解放であると同時に自己の音楽性がたえず問われる、厳しい自己への視線を意識しなければならないようなものだった。何百年に一人生まれるかどうかの天才チャーリー・パーカーが時代の扉をけ破った。ジャズや音楽の世界だけではなく、インプロビゼーション「即興」は演劇でも舞踏でも詩(連歌)でも方法として最もプリミティブではあったのだけれど、もっともラジカルな方法としてあるのではないかと思う。最初から楽譜があったのではなく、台本があったわけではなく、動作の型があったのではなく文法があったわけではない。すべては即興から始まった。状況に即反応する肉体と感性がすべてであった。体系化された方法ではなく、抽象化した認識ではないそれらのいわば思想ともいうべきものと対峙する関係にある。したがって「即興」を方法として用いるには、少なくとも、体系化された方法や抽象化された認識をすでに持っていなければならない。それを超える方法としての「即興」を意識しなければ意味がない。子供が紙に絵具を塗りたくって遊んで見せてもそれは「即興」という方法ではない。子供は方法として認識していないから。それは思想というものを裏からあぶりだして見せる方法であり、思想を相対化する。この関係を、拡大解釈すれば、我々の日常生活がそもそも即興性の中にあり、それを方法として認識しているいないにかかわらず、強力な磁力を発散しているのではないかと思うのです。逆に言えば、つまり思想の側から見れば、強力なこの磁力を無視して思想はありえないはずです。そういう意味で、かつて、吉本隆明が言っていた「大衆の原像」という視点が浮かび上がるのです。天皇制から一夜にして民主主義を口にする大衆の即興性を目の当たりにして、思想の側にいた吉本の苦渋と発見と自己批判の結果だったと思う。昔は「大衆の原像」と言う概念がよくわからなくて、吉本個人のコンプレックスかトラウマ程度に解釈していたが。いまごろ気がついても遅いか。同じ吉本つながりで、漫才の即興性なんですが、(これぞ即興です)ご存じのように漫才の方法として、ボケとツッコみのネタ披露という方法は、擬似的な即興性を持っていて、観衆はどこまでがネタでどこまでが即興かその境目で虚実の相対化を楽しむ芸だと思うのです。笑うことにおいて、虚実を相対化してしまう。 「やすしきよし」の漫才で横山やすしの即興性が興味深いのです。
即興ついでに又吉直樹著『火花』を読んだのでその感想ですが、タイにいると日本のあたらしい小説が貴重品で、日本のベストセラーになった本でも2~3年あとに読めればいい方で、ほとんど縁がないのです。日本に帰った時に、図書館で半分ぐらい読んでそれっきりになっていたのですが、やっと読むことが出来ました。小説というのはやはり思想の側の表現ですから、漫才に対してどのような視点をもっているのかという点が気になるわけで、その観点から読むと、新しい視点があったようには思えない。きわめてまっとうなというか、先人たちが述べてきたような表現論を踏襲しているように見える。芥川龍之介の作品『地獄変』に似たところがある。つまり師匠の芸術至上主義的な表現との関係についての葛藤を描き出している部分です。全体として私小説風に描いているのですが、この葛藤の部分を膨らますともっと面白くなっかも知れないと感じました。文章で即興するのは同じ場で同じ時に居なければできないのですが、擬似的なものとして、漫才師らしくギャグっぽいフレーズがところどころにありました。しかしどうもこちらの感度が悪いのかピンとこないのでした。
話はもどります。アートにおける「即興」ということを考えたのです。「即興」は一期一会です。同じ時間に同じ場所にいなければ共有することが出来ないわけです。1960年代から70年代に繰り広げられた様々なライブアートつまりパフォーマンスを思い浮かべると、隔世の感がある。日本で言えば反芸術としてのパフォーマンスからいまや、アートと言えばライブアート的な感じさえします。さまざまなジャンルとつながり、ウエッブ的な増殖と結合をもって、広がっているのですが、これについて語るのは、ここではしんどいので、結論的なはなしです。それは、さまざまな要素が絡み合ってきて、増殖し、量より質の転化によっておそらくライブアートは思想化してくるのだ。どのような思想に転化していくのか、はっきりとは見えませんが、おそらくきわめてパーソナルな土壌から生まれる、細い連帯のウエッブのなかで、アナーキーなものとなるか、逆に生物的な共生を土台とした新たな全体主義?のようになるか、これは神の即興によって決まってくる。いずれにせよ、ワシはその結果を確認することはないと思っているので、他人事のような話で恐縮なんですが、少し個人的な話をすると、なにがしかの作品を作る場合、ワシの場合陶芸なんですが、全く何を作ってもいい状態ではじまるわけです。無限のイメージの中から、一つの形を選ぶことが出来るのですが、その選ぶという主体的な意志はどこからくるのか、なぜその形なのか、と言うようなことを考えるわけです。そんなことを考え始めると、手が動かなくなるわけです。つまり作品が造れなくなるのです。まず思想があって、それに合致するような形、デザインを選択していくと言うようなことはできない相談であって、コンセプトがまずあってそれにしたがってデザインを決定していくのは、違うのではないかと思っていて、それに代わる方法として、「即興」という方法をもって制作しているわけです。ワシの場合「即興」と言っても観客が見ているわけではないのですが、素材(粘土、釉薬、顔料)との対話、取引、騙しあい、をその場で即興的にやるわけです。したがって最初から作品のイメージはほとんどないのです。今日はこんな形を作ろうとか、以前に造ったものをもう少し変えてみようとか、そういうことがほとんどないので、計画性がない。テクニックの積かさねが薄い。一貫性がない。頭に何も浮かばない日もあるし、イメージが一気に増殖する日もある。その日限りの一期一会です。あとから作品を見て、他人の作品ような気にもなります。子供の泥遊びみたいなもんで、頭の中では、その泥の塊が、ライオンだったり飛行機だったりしているのです。人がそれをどう見るかなんて考えていないわけで、ひたすら泥遊びが楽しいのです。楽しくなければアートではない。美しくなければその資格がない。
と言うわけで、お口直しにデレク・ベイリー [improvisation]をお聞きください。
即興ついでに又吉直樹著『火花』を読んだのでその感想ですが、タイにいると日本のあたらしい小説が貴重品で、日本のベストセラーになった本でも2~3年あとに読めればいい方で、ほとんど縁がないのです。日本に帰った時に、図書館で半分ぐらい読んでそれっきりになっていたのですが、やっと読むことが出来ました。小説というのはやはり思想の側の表現ですから、漫才に対してどのような視点をもっているのかという点が気になるわけで、その観点から読むと、新しい視点があったようには思えない。きわめてまっとうなというか、先人たちが述べてきたような表現論を踏襲しているように見える。芥川龍之介の作品『地獄変』に似たところがある。つまり師匠の芸術至上主義的な表現との関係についての葛藤を描き出している部分です。全体として私小説風に描いているのですが、この葛藤の部分を膨らますともっと面白くなっかも知れないと感じました。文章で即興するのは同じ場で同じ時に居なければできないのですが、擬似的なものとして、漫才師らしくギャグっぽいフレーズがところどころにありました。しかしどうもこちらの感度が悪いのかピンとこないのでした。
話はもどります。アートにおける「即興」ということを考えたのです。「即興」は一期一会です。同じ時間に同じ場所にいなければ共有することが出来ないわけです。1960年代から70年代に繰り広げられた様々なライブアートつまりパフォーマンスを思い浮かべると、隔世の感がある。日本で言えば反芸術としてのパフォーマンスからいまや、アートと言えばライブアート的な感じさえします。さまざまなジャンルとつながり、ウエッブ的な増殖と結合をもって、広がっているのですが、これについて語るのは、ここではしんどいので、結論的なはなしです。それは、さまざまな要素が絡み合ってきて、増殖し、量より質の転化によっておそらくライブアートは思想化してくるのだ。どのような思想に転化していくのか、はっきりとは見えませんが、おそらくきわめてパーソナルな土壌から生まれる、細い連帯のウエッブのなかで、アナーキーなものとなるか、逆に生物的な共生を土台とした新たな全体主義?のようになるか、これは神の即興によって決まってくる。いずれにせよ、ワシはその結果を確認することはないと思っているので、他人事のような話で恐縮なんですが、少し個人的な話をすると、なにがしかの作品を作る場合、ワシの場合陶芸なんですが、全く何を作ってもいい状態ではじまるわけです。無限のイメージの中から、一つの形を選ぶことが出来るのですが、その選ぶという主体的な意志はどこからくるのか、なぜその形なのか、と言うようなことを考えるわけです。そんなことを考え始めると、手が動かなくなるわけです。つまり作品が造れなくなるのです。まず思想があって、それに合致するような形、デザインを選択していくと言うようなことはできない相談であって、コンセプトがまずあってそれにしたがってデザインを決定していくのは、違うのではないかと思っていて、それに代わる方法として、「即興」という方法をもって制作しているわけです。ワシの場合「即興」と言っても観客が見ているわけではないのですが、素材(粘土、釉薬、顔料)との対話、取引、騙しあい、をその場で即興的にやるわけです。したがって最初から作品のイメージはほとんどないのです。今日はこんな形を作ろうとか、以前に造ったものをもう少し変えてみようとか、そういうことがほとんどないので、計画性がない。テクニックの積かさねが薄い。一貫性がない。頭に何も浮かばない日もあるし、イメージが一気に増殖する日もある。その日限りの一期一会です。あとから作品を見て、他人の作品ような気にもなります。子供の泥遊びみたいなもんで、頭の中では、その泥の塊が、ライオンだったり飛行機だったりしているのです。人がそれをどう見るかなんて考えていないわけで、ひたすら泥遊びが楽しいのです。楽しくなければアートではない。美しくなければその資格がない。
と言うわけで、お口直しにデレク・ベイリー [improvisation]をお聞きください。
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