ネバダ州を過ぎアリゾナ州に入り荒野の中の国道93号線を南に下りコヨーテパスを登りきると視界が開けて正面にウォーローパイピークが現れる。その手前の山のふもとに貼りつくように見える最初の町がキングマンという小さな町である。昔この場所に鉄道の駅が作られたのが町の始まりであった。その後国道66号線が開通すると、宿場町として発展したが、今は高速道路ができて、ルート66号の看板だけが昔の良き時代を懐かしむ観光地の目印として残っている。町には西部劇に出てきそうなホテルがあるが、すでに何年も前から営業しておらず建物だけが観光客の眼を引いている。ハンスは町の中をゆっくりと運転しながら、道沿いの古びたカフェを見つけ、車を停めてその店に入ると木製の古いカウンターの前に座った。カウンターの中の者にホットドッグとコーヒーを注文しこのカフェの主人らしき男に電話帳を借りた。そしてカウンターに電話帳を広げてめくりながらマーサ・ベーカーの名前を探しはじめた。マーサ・ベーカーはかつて子供だったモーテェックの育児の世話をした女性で、乳母と言ってもいい女性なのだが、モーテェックが児童施設に入ってしばらくして音信が途絶えてしまっていた。モーテェックが亡くなったことをこの児童施設へ連絡をしたときにいろいろ彼の生い立ちについての情報を聞くことができたので、ハンスはマーサに会ってモーテェックが亡くなったことを伝えたいと思ったのだ。しかし電話帳にはマーサ・ベーカーの名前は載っていなかった。ベーカーのつく名前は8件あって、ハンスは順番にすべてのベーカーに電話したが、マーサにたどり着くことはできなかった。カフェの主人らしい男がその様子を見て声をかけてきた。
「誰か探しているのかね、それとも仕事かい。」
暇を持て余したようなこの主人にとっては、なにか面白いことでも起きないかという期待とよそ者が何をしにきたのか探る思いで嘴を入れてきたのだろう。まして牧師の格好をした客ならなおさら興味がそそられたのかも知れない。
「ああ、黒人の女性を探している。マーサ・ベーカーという名前だ。この町にいると思っているんだが」
ハンスは地元の人に訊くのは悪くない考えだと思い即答した。
「マーサ・ベーカーね、黒人の女、歳は幾つぐらいだ」
「多分、60は過ぎていると思う。しかし古い情報だから確かではないけど」
カウンター越しに男はハンスを伺いながら、少し間を取ってから
「知らないね。・・黒人の女ならエレンに訊いてみたら。エレンは知ってるかもしれない」
「そのエレンって誰だい。」
「エレンっていうのは、あだ名でね、おしゃべりエレンっていうのが本名さ」
そう言って、にやけた顔でハンスをからかうような話し方でエレンについて教えてくれた。
「すぐそこの郵便局に6時ころまでいるよ。そこの職員さ。前は郵便配達してたけど、今は事務をやってるはずさ。なんせ、町中の住人で知らないものはいないと言うほどだから。でも気をつけて話をしろよ、秘密の話はするなよ。次の日には町中の噂になってるからな。はっはっ・・」
ハンスはこれはよい手掛かりを貰ったと思った。
「ありがとう、すぐに行ってみるよ。おしゃべりエレンって言えばいいのかい」
「ああ、あだ名はエレン・ファーガソンで黒人さ」
ハンスはホットドックをコーヒーで流し込むと、描いてくれた地図をもって近くの郵便局へ向かった。小さなスーパーマーケットのような大きさの平屋建ての郵便局は歩いて行けるほどの距離にあった。道路に面して茶色の煉瓦でつくられた大きな壁面の看板だけがよく目立っていた。この看板がなければ、ここが郵便局だとは分からないくらい特徴のない倉庫のような建物だったのであやうく車で通りすぎるところだった。中に入ると窓口業務は終わっていて、受付の女性にエレン・ファーガソンさんに会いたいと言うと、しばらくしてエレンがやってきた。頭にカラフルな布をまいて、紺色の仕事服の下は濃い緑色の地に白い植物の模様の入ったブラウスを着ていた。年齢はよく分からないが挨拶の声とその落ち着いた動作からバプテスト教会の聖歌隊にはふさわしくない年齢であることは見て取れた。ハンスは簡潔に用件伝えるとエレンは興味深そうにその話を聞きながら、いくつかの質問とハンスの意向を尋ねた。エレンは想像していた人物像とは違って軽薄なおしゃべり女というよりも上手な役者のように自分自身を見ているもうひとりの自分がいるような話しぶりであった。
「マーサ・ベーカーという人は知らないわね。でも・・マーサという名の人は心当たりがあるわ。黒人の女性よ。ちょっと待って、局にある名簿を調べて見るわ。こ・れ・は・秘密よ。ここで少し待っててもらえる」
冗談っぽくそう言って事務室の方へ去って行った。ハンスは案外スムーズにマーサに会えるかもしれないと期待をもって待っていた。しばらくして、こんどは反対側の方からエレンがやってきた。事務服を脱ぎ、手にはハンドバッグを持ってやってきた。
「だいたいその方の見当がついたわ。住所はここよ。いまから一緒に行きましょう案内するわ。もう仕事は終わったから」
そう言って紙に書いた住所をハンスに見せてハンスが同意する間もなく
「この方ちょっと問題がありましてね、つまり、病気なんですよ。他人に会いたがらないのよ。だからあなたが直接行っても会えないと思うわ。」
「ご家族はおられるんですか」
「詳しくは知らないけど、同居している人がいるかどうか分からないわ。以前は一人住まいでした。時々郵便物を届けていたので話はしたことがあるけど・・口癖はね『早くしないとコヨーテが来るよ』っていうんです。それでね、わたしいつのまにかその言葉を合図に話を切り上げるようになったわ。コヨーテもつかいようね・・」
「じゃよく御存じの方なんですね」
「まあ、それがあなたの探しているマーサならね。とにかく行ってみれば分かるわ」
二人はそれぞれの車に乗ってマーサのいる家へとルート66号を北東に向かって走り出した。あたりは山の影が長く伸びて砂漠の町に夕暮れの気配が漂っていた。
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