碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

久々の大雪で、うれしいやら、しんどいやら

2011-02-03 19:48:45 | 詩、漢詩、その他読書感想
ベストセラーの作品です。家内の友人から回ってきました。そのうち読む機会があるだろうと思っていたので、買わずにおりまして正解でした。村上春樹は若い人に人気絶大な作家で、ノーベル文学賞の候補?とかうわさされておりますが、彼の作品「ノルウェーの森」や「ねじまき鳥クロニクル」や「海辺のカフカ」その他の文章を読んでみた限りではそんなに高い評価をもらうのが疑問でした。たぶん文壇のヤラセ的なことがあるのではないかと思ったくらいです。島田雅彦氏の評価と同じように、ちゃらちゃらした恋愛小説のどこが面白いのか判りませんでした。だから、この作品にも大して期待はしておりませんでした。少なくとも買ってまで読むほどではないと思っておりました。しかし、今回のこの作品は正直面白いのです。ワシの偏見を修正してくれました。少なくとも島田雅彦の「悪貨」よりは面白い。作者はオウム真理教、やその他の新興宗教が出て来た背景を考えている。そして個人と宗教の関係を考えたに違いない。その点では、ワシの興味とは一致したのです。「世間のたいがいの人は、実証可能な真実などもとめてはいない。真実というのは大方の場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みをともなった真実なんぞ求めてはいない。人が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が存在する」と教祖に語らせて、それに対峙する個人の幻想を「私には愛があります」という風に言っている。「この世には絶対的な善も無ければ、絶対的な悪も無い」「重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、均衡そのものが善なのだ。・・・」教祖はその善に従うことを決意している。つまり、その為には自分が殺されることを受け入れている。このあたりは、フランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」に出てくる、ウィラード大尉に殺される、カーツ大佐を彷彿とさせる。どちらもジェームズ・フレイザーの「金枝編」を下敷きにしている。1Q84というもう一つの現実は、人間がもつ属性であり、多かれ少なかれその現実と幻想の世界の境を越えているのが我々人間の実態であると思う。合理性や効率性を象徴する高速道路から一旦降りてしまった者は、二度ともとには戻れないのが現実であり、1Q84の世界に閉じ込められてしまうことになる。それは自分自身の幻想性を引き受けること、つまり自分自身の外に神を見出すことではなく自分自身の中に神性を見出すこと、禅でいうところの、悟りに達することが、究極の生き方になる。ニヒリズムの砂漠に立ったキリストのように、というと見て来たような嘘になるかもしれませんが、個人的な記憶では、かつてオウム真理教による事件が明るみに出たとき、はっきり「敵」がいたと思った。悪とか善とかじゃ無くて、彼らは「敵」だという思いをはじめてはっきりと抱きました。それは「彼らが人間なら私は人間でないし、私が人間なら彼らは人間ではない」と言った詩人の言葉の意味そのままの、あいまいさの無い敵対心でした。そいう関係がこの世にはあることを認識せざるを得ないのでした。どちらかが物理的に力をなくすまでその関係は変わらないような定めというか宿命というか、そういうぎりぎりの関係がこの世に存在すること認識した次第です。それが当時考えたことです。政治的な党派性も似たようなものなのかも知りませんが、しかし政治は生活のほんの一部に過ぎないのだけれど、宗教は人間の生活全てを規定していく力があるから、危機感を持ったことを覚えております。宗教こそ諸悪の根源であるのだけれど、人間はそこから離れられないのも事実です。作品の話にもどると、村上春樹の作品は、どれも通底低音として、ナイーブな愛があるような気がする。ワシの目から見ると、むずがゆい、そんな御伽噺のような愛が若い人には受けるのだろうか。もしそうだとすればこれこそ、宗教的な心情と通底してるのではないか、皮肉ではなく、マジに心配しております。いかがなもんでしょうか。
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