私を含め日本人は、外国人の日本文化批評を気にする傾向があると思うのですが、これも日本文化の特徴ではないかと思っております。その裏には、外国人は日本文化を理解できないという前提があって、つまり、これだけは、お前たちには理解できないだろうという優越感が働いていてそれは、外国、特に西洋文化にたいする劣等感の裏返しみたいもんだと思うのですがいかがなもんでしょうか。外国人の日本文化批評というのは、玉石混交ですが、特にナショナリズムや政治的にフィルターのかかったものや、経済的な発想からの批評ですら、なぜそのように思うのかを考えると、それなりに面白いので、ついつい見てしまうのです。しかし、これから紹介するのははどちらかといえば玉のほうです。イアン・ビュルマは(オランダで1951年に生まれ、75年から77年まで、日本の文部省留学生として、日大芸術学部に学んでいる)その著書(1986年発行)で、日本のサブカルチャーから見た日本の文化の特徴や日本人の精神的な特徴について述べているのですが、今までの日本論にはなかった角度から、攻めております。その内容について、各章の表題を紹介しますと、1)神々を映す鏡 2)永遠の母性 3)悪霊としての女 4)売春芸術 5)第三の性 6)硬派の伝統 7)忠義者の系譜 8)ヤクザとニヒリスト 9)さすらう男 10)やさしい日本人 となっております。ここに出てくるさまざまな対象について、はっとする意見が述べられている。
たとえば、「入浴は日本人にとって一種の礼拝である」という。入浴がみそぎのこころの表れであるという。もちろん現代において、それは、肉体的快楽としての側面が強いのを認めたうえで、「だが日本においては、快楽にはその反面がある。神道のみそぎの儀式は、日本人の克己的な快楽主義とよばれてきたものの例である。日本には、肉体的苦痛と損失は浄化体験であるという強い信仰がある。」と、つまり、この説によれば中高年の登山はみそぎである。ワシの場合も無意識ではあるがそうであったかも知れないと思ったのである。とすると、みそぎの対象となったけがれとは何だったのだろう。それがよくわからないのが<あいまいな日本の私>なんですが・・
また硬派の伝統について、「硬派の典型的な性格は日本人の言う”ストイシズム”であり、その意味するところは好んで困苦にぶつかること、性に怖気をふるうこと、荒々しい気質と裏腹の純粋さを保つことである。大衆文化のなかで讃えられるのは硬派のヒーローであり、そこには奇妙な国家主義も浸透している。」その硬派崇拝の例として高校野球をあげている。朝日新聞の記者であった飛田穂洲はこの熱愛する行事について次のように書いた。「もし学生野球が遊楽の野球と化し球を追う遊戯となる日が来れば学生野球の本義は失われやがて滅亡の日が来るに相違ない。学生野球はあくまでも心の糧として行われるべきものであり、学校教育の一部として厳たる存在でなくてはならぬ。グラウンドが清浄なる広き教室であるとともに、徳育の道場であらねばならない。この精神なくして学生野球の永久性は無い。」と坊主刈りにした高校球児たちは、青少年の純粋さに対する礼賛という、スポーツとはまず関係の無い日本的な礼賛の対象となっている。部員の一人が酔って女性といちゃついたばかりにチームが出場停止処分を受けた話が報じられている。朝日ジャーナルのような左翼的な雑誌さえも、この国民的行事の「真髄」を著名な作家や評論家が修辞的誇張をこめて語るのを掲載したことがある。その例をいえば、映画監督の篠田正浩は甲子園を「神の力」によって試合が推進される「聖地」と呼んだ。穂洲が亡くなったとき、高校野球連盟の会長が外国人記者をグラウンドから閉め出すことを「公的取り決め」として発表したのも理解できなくは無い。おそらく外国人はこの催しの汚れの無い神聖さに泥を塗ることになるのだろう。・・といっております。外国人記者の閉め出しが本当ならちょっと驚きですが、それにしても、今やほとんどの観客や、やっている高校球児ですら、このような精神をもっているとは思えないのです。おそらく茶髪の選手がいても誰も文句をいうことは無いし、球場で女性と抱き合っても誰も文句を言わないだろう。それが今の日本人の平均ではないかと思うのです。だから、「奇妙なストイシズム」なのです。野球はもともとアメリカから来たスポーツなんですよね。そのうちサッカーも甲子園化するのでしょうか。
この本についての突っ込みはいっぱいあるのですが、1986年発行で、今の日本文化とずれているところもあるけれど、読んでみて興味深いものがありました。
たとえば、「入浴は日本人にとって一種の礼拝である」という。入浴がみそぎのこころの表れであるという。もちろん現代において、それは、肉体的快楽としての側面が強いのを認めたうえで、「だが日本においては、快楽にはその反面がある。神道のみそぎの儀式は、日本人の克己的な快楽主義とよばれてきたものの例である。日本には、肉体的苦痛と損失は浄化体験であるという強い信仰がある。」と、つまり、この説によれば中高年の登山はみそぎである。ワシの場合も無意識ではあるがそうであったかも知れないと思ったのである。とすると、みそぎの対象となったけがれとは何だったのだろう。それがよくわからないのが<あいまいな日本の私>なんですが・・
また硬派の伝統について、「硬派の典型的な性格は日本人の言う”ストイシズム”であり、その意味するところは好んで困苦にぶつかること、性に怖気をふるうこと、荒々しい気質と裏腹の純粋さを保つことである。大衆文化のなかで讃えられるのは硬派のヒーローであり、そこには奇妙な国家主義も浸透している。」その硬派崇拝の例として高校野球をあげている。朝日新聞の記者であった飛田穂洲はこの熱愛する行事について次のように書いた。「もし学生野球が遊楽の野球と化し球を追う遊戯となる日が来れば学生野球の本義は失われやがて滅亡の日が来るに相違ない。学生野球はあくまでも心の糧として行われるべきものであり、学校教育の一部として厳たる存在でなくてはならぬ。グラウンドが清浄なる広き教室であるとともに、徳育の道場であらねばならない。この精神なくして学生野球の永久性は無い。」と坊主刈りにした高校球児たちは、青少年の純粋さに対する礼賛という、スポーツとはまず関係の無い日本的な礼賛の対象となっている。部員の一人が酔って女性といちゃついたばかりにチームが出場停止処分を受けた話が報じられている。朝日ジャーナルのような左翼的な雑誌さえも、この国民的行事の「真髄」を著名な作家や評論家が修辞的誇張をこめて語るのを掲載したことがある。その例をいえば、映画監督の篠田正浩は甲子園を「神の力」によって試合が推進される「聖地」と呼んだ。穂洲が亡くなったとき、高校野球連盟の会長が外国人記者をグラウンドから閉め出すことを「公的取り決め」として発表したのも理解できなくは無い。おそらく外国人はこの催しの汚れの無い神聖さに泥を塗ることになるのだろう。・・といっております。外国人記者の閉め出しが本当ならちょっと驚きですが、それにしても、今やほとんどの観客や、やっている高校球児ですら、このような精神をもっているとは思えないのです。おそらく茶髪の選手がいても誰も文句をいうことは無いし、球場で女性と抱き合っても誰も文句を言わないだろう。それが今の日本人の平均ではないかと思うのです。だから、「奇妙なストイシズム」なのです。野球はもともとアメリカから来たスポーツなんですよね。そのうちサッカーも甲子園化するのでしょうか。
この本についての突っ込みはいっぱいあるのですが、1986年発行で、今の日本文化とずれているところもあるけれど、読んでみて興味深いものがありました。
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