友人はクールシェアで喫茶店に行って涼しい中で本を読んでるという。わたしもどこかへ行きたいけど、我家の周りには適当な施設が無い。駅まで行けばドトールがあるが、駅ビルの中の狭い店で長居は出来そうにないなぁ。どこか入場料の安い美術展に行こうと探し出したのが、東京都写真美術館のフィオナ・タン写真展(?)
入場した第一番の感想は「また解らないものを観に来てしまった!」
入り口入ってすぐ、小さなテレビモニターに人の足が写っている。地面から20、30センチ浮き上がって進んでいる足だ。だんだんに上の方も写るのかと暫く見ていたが、いつまでたっても足だけなので、次の部屋に行く。壁一面に、たくさんの大きな風船に吊るされた人のモノクロ映像が写し出されている。それで、先ほどの足の意味が解る。風船で浮く人は、高い梢のあたりまで上がった。気持ちよいのだろうか?それとも怖いのか?微動だにせず、まるで人形のように吊るされている。次の部屋はカラー写真だ。あのたくさんの風船は実は真っ赤な風船だった。こんな風で、面白いけれど、作者の意図するものが理解できないのです。
同じ場所をいくつものカメラで多方向から捉えて大きな壁に同時に写したり、大きな肖像写真を小さなモニターでスクロールしながら見せたり、全体像をとらえるためには時間がかかるので、どの作品の前にもソファーやビーズクッションが置かれ、寝転がったり座ったり、ゆっくり鑑賞するので、くしくもクールシェアには最適な場所でした。更に2本の映像作品があり、おのおの1時間かかるので、映写室でゆっくり映画を観るように鑑賞出来ます。クッションのきいた椅子は座り心地がよくて、お昼寝だって出来ちゃいます。
作者の先祖は華僑の中国系インドネシア人で、政変でインとネシアを追われた華僑たちが流浪の民のように世界に散っている、そんな親戚たちを訪ね、いまでも中国人であると思うか、その時に中国に戻った親戚には、中国を故郷と感じたか、などを聞いて歩く自伝的作品は、とても面白くて、もう少し作者の事や華僑の事を調べて、もう一度見に来ようと思いました。
もうひとつ、「写真は刹那を写しているけれど、その前も後も写してはいない、だから写真は『事実』を写す事は出来ない」という作品の中で話される言葉が気になりました。私は写真こそがすべてを語れると思っていましたから。これに関しても、もう一度聞きたいです。