前回、2002年から03年にかけて4回にわたって偽造旅券で来日し、通算9ヶ月間、新潟を中心に日本に居住していたというイスラム過激派のフランス人で、フランスのイスラム過激派組織「ルーベ団」の一員として北フランスで強盗などを働いた筋金入りのイスラム・テロリスト「リオネル・デュモン」のことに触れたが、この男に関して、ごく最近、新しい動きがあった。男のたどった道をたどり直し、知られることの少ないひとりの筋金入りのイスラム過激派の姿を描いてみた。
本稿は、主としてフランス内務省に所属するテロ対策を担う特殊部隊(RAID)のサイト(http://raid.admin.free.fr/roubaix.htm)を参照した。
------------------------------------------
リオネル・デュモン(Lionel Dumont)は、1971年、北仏ルーベの隣町トゥールコワンで職人家族の8人兄弟の末っ子に生まれた。理想家肌で、不義を憎むというタイプ。91年、ジブチとソマリアの軍事基地での訓練期間に(このときフランスにはまだ徴兵制度があった)兵器の保守や狙撃の訓練を受けた。その地でイスラムに開眼し、帰国してイスラムに改宗したという。
当時、北フランスのリールやルーベの一帯には、アルジェリアやモロッコ生れのカナダ人で、早くもアフガニスタンのビンラディンの軍事基地(アルカイダ)で訓練を受けたイスラム過激派のファテフ・カメルやモハメド・オマリなどがひそみ、ボスニア支援活動を行い、またそこから実際にボスニアへ赴いて戦場で銃をとって戦っていた。
そのボスニアで、ルーベ出身のフランス人で人道支援に来ていた医学生のクリストフ・カズが仲間に入り、イスラムに改宗したカズを通して、リオネル・デユモンもこのファテフ・カメルをボスとする北アフリカ系カナダ人グループに参加するに至る。93年ごろ、リオネル・デュモンは、アフガニスタンとパキスタンへ行っているという。彼らは、94-95年の2年間は、ほとんどボスニアで戦闘に従事していたらしい。
さて、95年11月のデイトン和平合意でボスニアの独立が認められると、国外から来ていたムジャーヒディーンは退去を求められた。そのため、ほかに支援する戦争がなく、行き場のなくなった一同は、北フランスに戻ってくる。
資金が必要になったため、ファテフ・カメルはモントリオールのイスラム過激派仲間が作った偽造旅券さばきに従事し、一方、カズとデュモンは、北アフリカ出身の仲間とともに、後に「ギャングのルーベ団」と呼ばれる凶暴な強盗グループに変身する。もっともこれもイスラムの大義からからすれば、不信の徒に対する戦い、即ちジハードであるのだが。彼らは、ボスニアから持ち込んだ自動小銃、機関銃やロケット砲、手榴弾などを含む重火器で武装していた。
96年1-2月、商店、スーパーマーケット、銀行、現金輸送車などを襲う。一味は、全部で6件の強盗を働き、15万フランを得たという報道もある。
次いで、96年3月28日、リールで7カ国蔵相会議が予定されていた日の3日前に、リールの市庁舎前に3本のガスボンベを使った自動車爆弾を仕掛ける。午後8時半に点火が仕掛けられていたが、小さな爆発しか起らず、失敗に終わった。もし狙い通りに爆発しておれば、半径200メートル以内が破壊されただろうという強力なものだった。
翌29日の早朝、テロ対策を担う特殊部隊(RAID)がルーベの一味の隠れ家を急襲し、激しい銃撃戦の後4人を殺害、ボスのクリストフ・カズは逃げ込んだ先のベルギーで通報を受けていたベルギーの警官隊と撃ち合って殺され、モハメド・オマリは捕まった。リオネル・デュモンと2人の共犯者は逃亡した。一味は全部で9-10人だったと見られている。
その後デュモンは、97年、ボスニア第二の都市ゼニカのガソリンスタンドでボスニア人警官を撃って重傷を負わせて逮捕され、20年の刑を受ける。ところが、99年5月 フランスに引き渡される直前に、サラエボの刑務所から、看守がテレビでサッカー世界大会を見ほうけている隙に脱走する。
日本に関係してくるのはその後で、脱走後、恐らく世界のイスラム過激派組織の支援を受けて、イタリア、クロアチア、スロベニア、ハンガリー、マレーシア、タイ、日本、インドネシアに入国した。その間、02年7月から03年9月まで新潟県に滞在した。日本では、リオネル・デユモンに関する前史は抜きで、このことだけが報道された。
タイに滞在中、タイの海岸で観光に来ていた二人のドイツ婦人を口説いて、うちの一人とマレーシアで結婚式をあげてもいる。口のうまいいい男で、夫が逮捕されてからも、夫人はリオネルの正体を信じられないと言っているそうである。
マレーシア当局の協力もあり、ついに各国の捜査陣が追い詰めて、03年12月、ミュンヘンの自宅でシャワーを浴びているところを英独連合の捜査官に逮捕された。
長い審理の後、最終的に、本年4月4日 パリの重罪裁判所は、1996年にフランス北部で発生した「強盗事件」や「警官との銃撃戦」及び「爆弾テロ未遂事件」の首謀者として、25年の禁固重労働刑とする判決を下した。25年の禁固重労働のうち、3分の2(16年4ヶ月)の刑期短縮不可条項がついている。
われわれには、刑が軽いように見えるが、これは、もちろん、イスラム過激派としてボスニアで戦闘を行ったり、日本を含むフランス国外でのテロリストとしての活動は一切顧慮されておらず、ルーベにおける2件の強盗とリール市役所前での失敗に終わった自動車爆弾への加担のみを問われているためと思われる。
デュモンは、03年12月にミュンヘンで捕まっているので、拘束期間はその時から勘定される。仮に16年4ヶ月で条件つき出所(日本でいう仮出所か)が認められるとすると、それは2020年となり、50歳前に再び世間に出てくることになる。まだモロッコ出身の仲間2人が逃げたままである。ファテフ・カメルはフランスで服役後出所し、今も悠然とカナダで暮らしている。日本人はそのときまでこの男のことを記憶しているであろうか。
日本の当局には、今一度リオネル・デュモンの日本での所業を調べ、今後とも立ち回り先のパキスタン人グループなどの監視をゆるめることのないよう要望したい。
本稿は、主としてフランス内務省に所属するテロ対策を担う特殊部隊(RAID)のサイト(http://raid.admin.free.fr/roubaix.htm)を参照した。
------------------------------------------
リオネル・デュモン(Lionel Dumont)は、1971年、北仏ルーベの隣町トゥールコワンで職人家族の8人兄弟の末っ子に生まれた。理想家肌で、不義を憎むというタイプ。91年、ジブチとソマリアの軍事基地での訓練期間に(このときフランスにはまだ徴兵制度があった)兵器の保守や狙撃の訓練を受けた。その地でイスラムに開眼し、帰国してイスラムに改宗したという。
当時、北フランスのリールやルーベの一帯には、アルジェリアやモロッコ生れのカナダ人で、早くもアフガニスタンのビンラディンの軍事基地(アルカイダ)で訓練を受けたイスラム過激派のファテフ・カメルやモハメド・オマリなどがひそみ、ボスニア支援活動を行い、またそこから実際にボスニアへ赴いて戦場で銃をとって戦っていた。
そのボスニアで、ルーベ出身のフランス人で人道支援に来ていた医学生のクリストフ・カズが仲間に入り、イスラムに改宗したカズを通して、リオネル・デユモンもこのファテフ・カメルをボスとする北アフリカ系カナダ人グループに参加するに至る。93年ごろ、リオネル・デュモンは、アフガニスタンとパキスタンへ行っているという。彼らは、94-95年の2年間は、ほとんどボスニアで戦闘に従事していたらしい。
さて、95年11月のデイトン和平合意でボスニアの独立が認められると、国外から来ていたムジャーヒディーンは退去を求められた。そのため、ほかに支援する戦争がなく、行き場のなくなった一同は、北フランスに戻ってくる。
資金が必要になったため、ファテフ・カメルはモントリオールのイスラム過激派仲間が作った偽造旅券さばきに従事し、一方、カズとデュモンは、北アフリカ出身の仲間とともに、後に「ギャングのルーベ団」と呼ばれる凶暴な強盗グループに変身する。もっともこれもイスラムの大義からからすれば、不信の徒に対する戦い、即ちジハードであるのだが。彼らは、ボスニアから持ち込んだ自動小銃、機関銃やロケット砲、手榴弾などを含む重火器で武装していた。
96年1-2月、商店、スーパーマーケット、銀行、現金輸送車などを襲う。一味は、全部で6件の強盗を働き、15万フランを得たという報道もある。
次いで、96年3月28日、リールで7カ国蔵相会議が予定されていた日の3日前に、リールの市庁舎前に3本のガスボンベを使った自動車爆弾を仕掛ける。午後8時半に点火が仕掛けられていたが、小さな爆発しか起らず、失敗に終わった。もし狙い通りに爆発しておれば、半径200メートル以内が破壊されただろうという強力なものだった。
翌29日の早朝、テロ対策を担う特殊部隊(RAID)がルーベの一味の隠れ家を急襲し、激しい銃撃戦の後4人を殺害、ボスのクリストフ・カズは逃げ込んだ先のベルギーで通報を受けていたベルギーの警官隊と撃ち合って殺され、モハメド・オマリは捕まった。リオネル・デュモンと2人の共犯者は逃亡した。一味は全部で9-10人だったと見られている。
その後デュモンは、97年、ボスニア第二の都市ゼニカのガソリンスタンドでボスニア人警官を撃って重傷を負わせて逮捕され、20年の刑を受ける。ところが、99年5月 フランスに引き渡される直前に、サラエボの刑務所から、看守がテレビでサッカー世界大会を見ほうけている隙に脱走する。
日本に関係してくるのはその後で、脱走後、恐らく世界のイスラム過激派組織の支援を受けて、イタリア、クロアチア、スロベニア、ハンガリー、マレーシア、タイ、日本、インドネシアに入国した。その間、02年7月から03年9月まで新潟県に滞在した。日本では、リオネル・デユモンに関する前史は抜きで、このことだけが報道された。
タイに滞在中、タイの海岸で観光に来ていた二人のドイツ婦人を口説いて、うちの一人とマレーシアで結婚式をあげてもいる。口のうまいいい男で、夫が逮捕されてからも、夫人はリオネルの正体を信じられないと言っているそうである。
マレーシア当局の協力もあり、ついに各国の捜査陣が追い詰めて、03年12月、ミュンヘンの自宅でシャワーを浴びているところを英独連合の捜査官に逮捕された。
長い審理の後、最終的に、本年4月4日 パリの重罪裁判所は、1996年にフランス北部で発生した「強盗事件」や「警官との銃撃戦」及び「爆弾テロ未遂事件」の首謀者として、25年の禁固重労働刑とする判決を下した。25年の禁固重労働のうち、3分の2(16年4ヶ月)の刑期短縮不可条項がついている。
われわれには、刑が軽いように見えるが、これは、もちろん、イスラム過激派としてボスニアで戦闘を行ったり、日本を含むフランス国外でのテロリストとしての活動は一切顧慮されておらず、ルーベにおける2件の強盗とリール市役所前での失敗に終わった自動車爆弾への加担のみを問われているためと思われる。
デュモンは、03年12月にミュンヘンで捕まっているので、拘束期間はその時から勘定される。仮に16年4ヶ月で条件つき出所(日本でいう仮出所か)が認められるとすると、それは2020年となり、50歳前に再び世間に出てくることになる。まだモロッコ出身の仲間2人が逃げたままである。ファテフ・カメルはフランスで服役後出所し、今も悠然とカナダで暮らしている。日本人はそのときまでこの男のことを記憶しているであろうか。
日本の当局には、今一度リオネル・デュモンの日本での所業を調べ、今後とも立ち回り先のパキスタン人グループなどの監視をゆるめることのないよう要望したい。