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中東断章

中東問題よこにらみ

<日本への教訓>(続き2-リオネル・デュモン)

2007年04月28日 | フランス人記者誘拐事件(2)
 前回、2002年から03年にかけて4回にわたって偽造旅券で来日し、通算9ヶ月間、新潟を中心に日本に居住していたというイスラム過激派のフランス人で、フランスのイスラム過激派組織「ルーベ団」の一員として北フランスで強盗などを働いた筋金入りのイスラム・テロリスト「リオネル・デュモン」のことに触れたが、この男に関して、ごく最近、新しい動きがあった。男のたどった道をたどり直し、知られることの少ないひとりの筋金入りのイスラム過激派の姿を描いてみた。

 本稿は、主としてフランス内務省に所属するテロ対策を担う特殊部隊(RAID)のサイト(http://raid.admin.free.fr/roubaix.htm)を参照した。

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 リオネル・デュモン(Lionel Dumont)は、1971年、北仏ルーベの隣町トゥールコワンで職人家族の8人兄弟の末っ子に生まれた。理想家肌で、不義を憎むというタイプ。91年、ジブチとソマリアの軍事基地での訓練期間に(このときフランスにはまだ徴兵制度があった)兵器の保守や狙撃の訓練を受けた。その地でイスラムに開眼し、帰国してイスラムに改宗したという。

 当時、北フランスのリールやルーベの一帯には、アルジェリアやモロッコ生れのカナダ人で、早くもアフガニスタンのビンラディンの軍事基地(アルカイダ)で訓練を受けたイスラム過激派のファテフ・カメルやモハメド・オマリなどがひそみ、ボスニア支援活動を行い、またそこから実際にボスニアへ赴いて戦場で銃をとって戦っていた。

 そのボスニアで、ルーベ出身のフランス人で人道支援に来ていた医学生のクリストフ・カズが仲間に入り、イスラムに改宗したカズを通して、リオネル・デユモンもこのファテフ・カメルをボスとする北アフリカ系カナダ人グループに参加するに至る。93年ごろ、リオネル・デュモンは、アフガニスタンとパキスタンへ行っているという。彼らは、94-95年の2年間は、ほとんどボスニアで戦闘に従事していたらしい。

 さて、95年11月のデイトン和平合意でボスニアの独立が認められると、国外から来ていたムジャーヒディーンは退去を求められた。そのため、ほかに支援する戦争がなく、行き場のなくなった一同は、北フランスに戻ってくる。

 資金が必要になったため、ファテフ・カメルはモントリオールのイスラム過激派仲間が作った偽造旅券さばきに従事し、一方、カズとデュモンは、北アフリカ出身の仲間とともに、後に「ギャングのルーベ団」と呼ばれる凶暴な強盗グループに変身する。もっともこれもイスラムの大義からからすれば、不信の徒に対する戦い、即ちジハードであるのだが。彼らは、ボスニアから持ち込んだ自動小銃、機関銃やロケット砲、手榴弾などを含む重火器で武装していた。

 96年1-2月、商店、スーパーマーケット、銀行、現金輸送車などを襲う。一味は、全部で6件の強盗を働き、15万フランを得たという報道もある。

 次いで、96年3月28日、リールで7カ国蔵相会議が予定されていた日の3日前に、リールの市庁舎前に3本のガスボンベを使った自動車爆弾を仕掛ける。午後8時半に点火が仕掛けられていたが、小さな爆発しか起らず、失敗に終わった。もし狙い通りに爆発しておれば、半径200メートル以内が破壊されただろうという強力なものだった。

 翌29日の早朝、テロ対策を担う特殊部隊(RAID)がルーベの一味の隠れ家を急襲し、激しい銃撃戦の後4人を殺害、ボスのクリストフ・カズは逃げ込んだ先のベルギーで通報を受けていたベルギーの警官隊と撃ち合って殺され、モハメド・オマリは捕まった。リオネル・デュモンと2人の共犯者は逃亡した。一味は全部で9-10人だったと見られている。

 その後デュモンは、97年、ボスニア第二の都市ゼニカのガソリンスタンドでボスニア人警官を撃って重傷を負わせて逮捕され、20年の刑を受ける。ところが、99年5月 フランスに引き渡される直前に、サラエボの刑務所から、看守がテレビでサッカー世界大会を見ほうけている隙に脱走する。

 日本に関係してくるのはその後で、脱走後、恐らく世界のイスラム過激派組織の支援を受けて、イタリア、クロアチア、スロベニア、ハンガリー、マレーシア、タイ、日本、インドネシアに入国した。その間、02年7月から03年9月まで新潟県に滞在した。日本では、リオネル・デユモンに関する前史は抜きで、このことだけが報道された。

 タイに滞在中、タイの海岸で観光に来ていた二人のドイツ婦人を口説いて、うちの一人とマレーシアで結婚式をあげてもいる。口のうまいいい男で、夫が逮捕されてからも、夫人はリオネルの正体を信じられないと言っているそうである。

 マレーシア当局の協力もあり、ついに各国の捜査陣が追い詰めて、03年12月、ミュンヘンの自宅でシャワーを浴びているところを英独連合の捜査官に逮捕された。

 長い審理の後、最終的に、本年4月4日 パリの重罪裁判所は、1996年にフランス北部で発生した「強盗事件」や「警官との銃撃戦」及び「爆弾テロ未遂事件」の首謀者として、25年の禁固重労働刑とする判決を下した。25年の禁固重労働のうち、3分の2(16年4ヶ月)の刑期短縮不可条項がついている。

 われわれには、刑が軽いように見えるが、これは、もちろん、イスラム過激派としてボスニアで戦闘を行ったり、日本を含むフランス国外でのテロリストとしての活動は一切顧慮されておらず、ルーベにおける2件の強盗とリール市役所前での失敗に終わった自動車爆弾への加担のみを問われているためと思われる。

 デュモンは、03年12月にミュンヘンで捕まっているので、拘束期間はその時から勘定される。仮に16年4ヶ月で条件つき出所(日本でいう仮出所か)が認められるとすると、それは2020年となり、50歳前に再び世間に出てくることになる。まだモロッコ出身の仲間2人が逃げたままである。ファテフ・カメルはフランスで服役後出所し、今も悠然とカナダで暮らしている。日本人はそのときまでこの男のことを記憶しているであろうか。

 日本の当局には、今一度リオネル・デュモンの日本での所業を調べ、今後とも立ち回り先のパキスタン人グループなどの監視をゆるめることのないよう要望したい。

<日本への教訓>(続き)

2005年08月22日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 いや、もっとはっきり言おう。自衛隊あたりで担当部署と担当者を決め、日頃から米英仏伊西さらに今回のルーマニアなどの当局との接触を深め、情報収集に努めることは、近い将来日本にも向けられるであろうイスラム過激派によるテロ攻撃への対策として、どうしても必要なのだ。外務省には権能がなく、府県単位の自治体警察ではカバーしきれない。さしづめイラクに派遣されている自衛隊の出番である。

 振り返れば、旧ソ連が、1979年末、「アフガニスタンの治安を回復する」という名目でアフガニスタンに軍事介入し、10万人を越える軍隊を投入した。それに対し、非力なイスラム同胞国を支援するため、西はモロッコから湾岸産油国まで、多数のアラブ国、イスラム国から数千人と言われる義勇兵がアフガニスタンに入った。義勇兵と言えば聞こえはよいが、ほとんどは軍隊経験もないただの若者で、アフガニスタン各地の基地で即席の軍事訓練を受け、アメリカから提供された武器を手にアラーの名を唱えながらソ連軍に立ち向かったと言う。10年後、ソ連軍がなすところなく撤退した後、これら義勇兵は、野戦技術を身につけた筋金入りのイスラム原理主義者となって、あるいは祖国に戻り、あるいはチェチェンやコソボなど他の戦地に散っていった。その中から、アルカイダ(「基地」の意)なる組織も生まれ、アフガン帰りが各地でテロ活動を続けていることは周知の通りである。

 ところで、いつの日か一連の「イラク戦争」が終り戦闘が終息すると、アフガン戦争後の比ではない大量の「イラク帰り」が発生し、各地に散開して西側世界への復讐の意味をこめたテロ活動を繰り広げるであろうことが予想されている。すでに日本への攻撃も何度か予告されている。あってはならないことだが、ある程度は予想し、対策を立てておかないわけにはいかないはずである。

 その対策の第一歩が、現在イラクで活動しているイスラム武装勢力についての情報収集であり、西側各国の当局(情報機関)とのコネ作りである。こればかりは泥ナワではまったく間に合わず、わが国一国だけでもどうにもならない。今から地道な努力を積み重ねなければならない。体を張って各国を飛び回って当局者と顔つなぎをし、イラクでも土地の人間から直接情報をとるような地べたを這う作業である。それには、こちらから提供できる情報をもつことも必要だろう。インターポルに何年出向していたとか、どこそこの大使館に何年勤務したといったような警察官僚や武官の関与する話ではないのである。

 イラクに国外からどれほどのイスラム義勇兵が入っているか、米軍にも見当がついていないであろう。イラクへは航空機で入る手はないが、ぐるりとイスラム国にとり囲まれた長い国境から、容易ではないかも知れないが、自由に侵入することができる。イラン、トルコ、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、クウェートとの国境の中で、いろいろな観点から見て、やはり東西のイランとシリアからの侵入が多いのではないか。シリアからはシリア砂漠を横断してイラク入りすることになるが、以前はトラックや相乗りタクシーは夜のシリア砂漠を星を頼りに天測によって運行していた。運転手が星の名前に詳しいのは驚くほどだったが、考えてみれば、アルゴル、アルデバランなど多くの星の名前はアラビア語由来で、天文学のゆりかごのような土地であった。現在は日本製のGPS受信機を備え、イスラム義勇兵を満載して砂漠を疾走していることであろう。

 ともあれ、一昨年、日本にもイスラム過激派が潜入していたことが判明した。アルジェリア系(?)フランス人のリオネル・デュモンが2002年から03年にかけて4回にわたって偽造旅券で来日し、通算9ヶ月間新潟を中心に居住していたという。フランスのイスラム過激派組織「ルーベ団」のメンバーで、96年のボスニアでの殺人事件で国際刑事警察機構から手配されていたが、03年9月、ドイツで逮捕され、その後の調べで日本に潜入していたことが判明したという心細さであった。男がもっていた携帯電話の通話先から、在日パキスタン人ら十数人と連絡をとっていたことが分かった。このリオネル・デュモンや通話先の中古自動車輸出商のパキスタン人たちの動静を、その後だれが追跡、監視しているのだろうか。

オブナス記者とイラク人運転手解放さる

2005年08月12日 | フランス人記者誘拐事件(2)
 今年の始め、バグダードでイスラム武装勢力によって捕らえられたフランスのリベラシオン紙の女性記者フロランス・オブナス氏とイラク人案内人兼運転手が、150日余の監禁の後、ようやく解放された。特に健康被害もなく、八方めでたしめでたしの結末となったのは、よそごとながら喜ばしい。フランスでは内閣改造直後だったが、現閣僚とともに、前首相も前外相もその努力を讃えられ、右も左も、国内のイスラム諸派の指導者たちも、アラブ世界も、みんな一様にほっとしたようである。

 当のオブナス記者は、自分でもどうしてか分からないと言いながら、非常な上機嫌で、出迎えたフィリップ・ドストブラジ外相によれば、経由地のアテネからパリへの帰国の特別機では「彼女は元気だった。飛行中しゃべり通しだった」という。

 その後の記者会見でも彼女はいろいろのことをしゃべり、各紙は数ページにわたる特集を組んでいるが、しかし、われわれが知りたい肝心なことは何一つ話していない。全然面白くない。多分、実際に多くのことは知らず、いみじくもご当人が言うとおり、監禁生活は「暮らすには長すぎるが、話すには短かすぎる」ということであろう。外界のことは何も教えられず単調極まりない毎日の繰り返しであったらしい。また、話すことでよそに悪影響が予想されるところがあるという理由もあろう。

 バグダード北部の農家の地下室に閉じ込められていたが、解放を告げられたのは突然で、「土曜日(05/6/11)の正午のことでした。みっともないジョギング・スタイルから普通の服に着替えました。拘束の縄が解かれ、坐ることができました。紅茶と若鶏の昼食が出され、『終わったよ』と言われました」ということである。

 囚われの5ヶ月間は、幅2メートル、奥ゆき4メートル、高さ1.5メートルほどの、真っ暗で通気が悪い地下洞窟に監禁されていたという。洞窟での生活は、1日に2度トイレに連れて行かれる。「囚人番号6番、洗面!」などと呼ばれた。寝床は分厚いスポンジゴムのマットレスで、そこへ食事がもってこられる。そこから離れることを禁じられた。朝はサンドイッチとゆで卵、昼は米飯、夜はローストチキンなどだった。自分のすぐ近くにフセインがいることを最後まで知らなかったと言う。

 フセイン運転手の話も似たりよったりである。
 「誘拐者は単純な連中だった。どこでもそうであるように、いい人間もいれば悪い人間もいた。彼らとはあまり話さなかった。彼らは命令し、われわれはそれに従った。彼らは、自分たちはスンニー派のサラフィスト(サラフ主義者、原理主義者)で、アメリカと戦うムジャーヒディーンだと言ったが、どの組織に属するかは決して言わなかった。
 彼らが毎朝洗面に連れて行ってくれた。冬場は2週間に1度シャワーがあった。食事はサンドイッチや米飯で、十分ではなかった。自分は18キロやせた。拘留の状況は厳しかった。最初の2ヶ月は、ずっと手を縛られ目隠しをされたままだった。私が洞窟に来たときフロランスの声を聞いたので、彼女が同じところに閉じ込められていることが分かった。しかし、話すことは禁じられていたので、フロランスは最後まで私が90センチメートルの近くにいることを知らなかったという。
 6月11日の朝、解放を告げられた。目隠しをしてミニバスに乗せられ、長い時間走ったのち、フランス大使をはじめ関係者が待つところに着いた」

 この同じ地下洞窟に、3月28日、バグダードで誘拐されたルーマニア人記者3人とイラク系米国人が同居させられた。これらのルーマニア人たちは、5月22日、オブナス記者らを残して(他にも囚人がいたらしい)、55日ぶりに解放される。捕まったプリマ・テレビの女性記者マリー・ジャンヌ・イオン氏は、当然のことながら、オブナス記者と仲よくなった。暗い洞窟の中であらゆることを語り合ったに違いない。解放後、マリー・ジャンヌはルーマニアとフランスの当局に全てを話していると思われるが、当局が何も話さないので何も分からない。ともあれルーマニアのアラブ・コネクションによってまずルーマニア人が解放され、次いでフランス人も解放されるに至ったようで、後にシラク大統領がルーマニアのバセスク大統領に会って謝意を表している。

 まことにすっきりしない、いろいろな疑問が残る事件であった。
1)どのような組織が何の目的で外国人ジャーナリストを誘拐しているのか。
 犯行声明なし、加害なしでは、意味不明というほかない。
2)身代金稼ぎなら、どうして何ヶ月も拘留するのか。
3)今回、どうしてディディエ・ジュリア議員の名前が出てきたのか。
4)なぜフランスやイタリアは報復しないのか。


<日本への教訓>
 イラクで日本人が捕まったとき、日本政府に何ができるだろうか。イラクの武装勢力と渡り合って、相手を説得して人質を取り戻す組織もなければ、そうすることのできる人材もいそうにない。わが国としてできることは、イタリアと同じく、言われるままに身代金を払って解放を得ることだけである。それも一刻を争うはずである。
 ところが、現状では、どの武装勢力であれ、こちらからは先方と接触することすら難しいだろう。とすれば、自衛隊あたりで担当者を決め、日頃から米英仏伊さらに今回のルーマニアなどの当局との接触を深め、情報収集に努めることではないか。現地事情に通じた人材養成に尽きるのではないだろうか。こうした人材は、イラク戦争後のわが国の対イラク政策にも役立つはずである。

フランス人女性記者、未だ解放されず

2005年05月24日 | フランス人記者誘拐事件(2)
<フランス人女性記者、未だ解放されず>

 フロランス・オブナス記者の誘拐、拘留も今日で139日に達したが、解決への糸口はまだ見えていないようだ。フランス政府のたまの発表も苦しい限りで、誘拐犯側の気まぐれに振り回されているような印象を受ける。政府は、100人体制で臨んでいると言うが、安定的な、まともな交渉にはなっていないようだ。記者の生存の証拠も新しいものは得られず、フセイン(ハヌーン)運転手の状況はまったく分かっていないというのが真相らしい。

 国境なき記者団も連帯を訴えるだけで、手の打ちようがない。しかし、フランス国民のあいだから上がる連帯の声は途切れることがない。このような非道を許してはならないということを一人一人が理屈を立てて訴えている。イラク人にとっては「戦争なんだ」のひと言だろうが。


<ルーマニア人記者3名は解放される>

 例によって、5月24日付リベラシオン紙(電子版)記事「人質解放でルーマニアはひと安心」「ルーマニア人人質ブカレストに帰る」のつまみ食い紹介を行ないたい。非力な小国と思われるルーマニアが思いがけない作戦力、交渉力を発揮して、フランスの苦悩を横目に、3名の人質記者の解放をかちとった。

<要約開始>
 3月28日、バグダード郊外で同国大統領に同行取材していたプリマ・テレビの女性記者マリー・ジャンヌ・イオン氏(32歳)、カメラマンのソリン・ミスコチ氏(30)、日刊紙ルーマニア・リベラの記者エドゥアルド・オハネシアン氏(37)の3人が誘拐されたが、5月22日、55日ぶりに解放され、無事帰国した。

 同時に誘拐されたルーマニア在住のスポンサー兼案内人のイラク系米国人ムナフ氏も解放され、バグダードで米軍の事情聴取を受けているよしで、当初、この人物が誘拐者と関連があるようにとり沙汰された。

 ルーマニア人3人を誘拐した組織は、これまで知られていなかった「ムアド・イブン・ジャバル旅団」であることが判明した。

 ルーマニアのバセスク大統領によれば、この解放作戦は、100パーセント、ルーマニアの秘密情報機関が行なったとのこと。ルーマニアの外交政策についても身代金についても交渉しなかった。誘拐者は、860人のルーマニア軍をイラクから引き上げるよう要求し、もし受け入れなければ人質を処刑すると脅していた。

 アル・ジャジーラ放送が流した誘拐犯のコミュニケによれば、「この解放はサウジアラビアの高位の宗教者サルマン・ビン・ファハド・アルウーデ師とルーマニアのイスラム教徒の要請に答えたもの」ということである。短いビデオ放映の中に、覆面をして手にメモをもった誘拐犯のスポークスマンが3人のルーマニア人と案内人とともに現われた。ビデオでは「ムアド・イブン・ジャバル旅団」の名に言及し、誘拐の犯行声明を行なった。アル・ジャジーラは、サウジの穏健なイスラム主義者サルマン・ビン・ファハド・アルウーデ師のイニシアティブの詳細には触れなかった。


<斉藤昭彦氏、捕まる>

 英国系の警備会社ハート・セキュリティー社の日本人職員、斉藤昭彦氏が、5月8日、イラク西部のヒート近くで有力なイスラム・ゲリラの「アンサール・アルスンナ軍」と銃撃戦の末負傷して捕まったという。

 日本政府は、この苦境にある日本国民に対して、一体どんなことをしてくれたのか、いま何をしているのか、できる限り発表してもらいたいものである。日本政府が国民を助けなければ、米軍もイラク政府も何もしてくれない。マスコミも忘れずに報道を継続してもらいたい。見殺しにしてはならない。


記者の解放いまだなし

2005年04月21日 | フランス人記者誘拐事件(2)

<前置き>
 フランスのリベラシオン紙の女性記者フロランス・オブナス氏(43)とイラク人運転手が、05年1月5日、バグダードで何者かに拉致されてから100日を越え、この機会にフランス各地で解放を求めるデモや集会が行なわれた。このまま何もなく推移すると、前回のシェノ、マルブリュノ両記者の監禁期間124日を越えることが心配され、政府の対応の仕方について批判が出る事態にもなりかねない。

<最新情報>
 本事件についての最新の情報は、4月1日、ミシェル・バルニエ外相が、フランス2テレビを通じて、「イラクで誘拐されてから86日になるフロランス・オブナス記者と案内人のフセイン(ハヌーン)氏が生存している証拠を掴んでいる。これほど危険な国でのこれほどこんがらがった事件であるので、私は二人の安全、二人がそこから脱出する瞬間のことしか考えていない。どこまでも慎重でなければならない」と語ったことである。だが、どのような証拠を掴んでいるかは明らかにしなかった。
 これ以後目立った情報はない。

<さまざまな見方>
 政府の言う「生存の証拠」については、オブナス氏をよく知るものが電話で本人と話したのかも知れないし、ひょっとするとすでに政府は身柄を確保していて、イラクから脱出させる方法を探っているのではないかとの見方もあった。

 解放交渉を妨げているものは何か。フランス側の政治問題か、スカーフ問題か、身代金にかかわる問題か。逆に誘拐犯側の路線問題か、組織問題か。米軍やイラク政府のからみか。
 犯行声明がないままで推移している。誘拐犯(交渉相手)についても政府はまだ国民に何も知らせていない。
 オブナス記者がビデオの中で求めたディディエ・ジュリア下院議員の救援介入をフランス政府があっさり排除したことにメンツをつぶされた誘拐犯が反発しているのかも知れない。そうであれば、国民の命を救うためには、政府が折れてジュリア議員を呼び戻すべきではないか。そうなれば、フランス政府、というよりラファラン首相のメンツは丸つぶれとなり、もしジュリア議員を呼び戻して失敗するとなると、痛手は底なしとなる。
 さまざまな見方や憶測が飛び交う中で、いまのところ、フランス政府は従来通りの慎重な姿勢を変えていない。

<ルーマニア人記者>
 また、3月28日、バグダードで誘拐されたルーマニア人記者3人の情報もない。リベラシオン紙から代表者がブカレストを訪れ、連帯を呼びかけている。

ジャーナリストの誘拐が続く

2005年04月01日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 バグダードでのイスラム武装抵抗組織によるジャーナリストを狙った誘拐が続いている。フランス人、イタリア人に続いて、今度はルーマニア人記者3人とアメリカ人(あるいは米系イラク人)1人が誘拐された。


フランス人記者:

 フランスのラファラン首相は、3月29日、誘拐されてから83日になるリベラシオン紙のオブナス記者とフセイン(ハヌーン)運転手の状況は「安心できる」ものであると発表した。議会での下院議長の質問に対し、首相は「われわれは慎重でなければならないのは絶対だが、誘拐犯に向けてわが国の公的機関への接触を求めた呼びかけに対し、情報機関(DGSE)は安心できる情報をつかんだ」と語った。両者の接触は安定的に行なわれているという。


イタリア人記者:

 3月22日づけリベラシオン紙の記事で、ジュリアナ・スグレナ氏が、若干、監禁中の様子を語っている。

<以下要約>
 スグレナ氏は、イタリア山岳部出身の57歳の独身、筋金入りの共産主義者、平和主義者、女性解放論者で、アルジェリアからアフガニスタンまで、紛争地を歩いてレポートしている。イラクへは7度目の入国であった。

 誘拐犯は、謎の「国境なきムジャーヒディーン(ジハード戦士たち)」という組織とされている。2月5日、バグダード大学傍のモスクでファルージャ避難民を取材後誘拐された。「そこに4時間いました。もっと早く切り上げるべきだったかも知れませんが、イマーム(導師)に説教が終わるまで待つように言われたのです。勝手に帰るようなことはしたくありませんでした」。テロリストに囲まれたとき、うちの一人が首に手をやって、自分たちは<首切り>集団ではないということを分からせた。

 国境なきムジャーヒディーンは、こっそりユーロニュースを見ることを許してくれたが、そこでローマのキャピトル広場に掲げられた自分の巨大な写真と最初の支持デモを見た。「自分さえしっかりしてれば、みんなが私を救出するためにあらゆることをやってくれると確信しました」。部屋の窓には目張りがしてあり、奥に簡素なベッドが一つあるきりで、本も鉛筆も鏡も何もなかった。一日30分の体操を日課としていた。

 トイレに行くために部屋を離れるときや、3-4日に一度、体を洗いに行くとき、監視人たちとすれ違う。時々彼らがコーランを朗誦しているのを聞いた。夕方には果物が差し入れされた。時に会話することがあったが、いつもこう繰り返した、「私を誘拐するのは意味がありません。私はアメリカの介入にも占領にも反対です」。相手の答えはいつも決まって、「戦争なんだ、使えるものは何でも利用しなきゃならないんだ」というものだった。ある日家族のだれかれ宛てに手紙を書くよう言われた。これは解放交渉が開始された合図だと思って、寒さや停電を我慢することができた。

 解放時の状況は、3月4日午後遅く、誘拐犯が、バグダード市内のある通りに彼女を放り出した直後、後に空港近くで米軍の射撃で殺害されるイタリア秘密情報機関員のニコラ・カリパリ氏がやって来た。
<要約終わり>


ルーマニア人記者:

 ルーマニアのトライアン・バセスク大統領がアフガニスタン、イラクをかけ足訪問し、29日、ブカレストに戻った。ルーマニアはイラクに800人の部隊を派遣しており、その視察に行った。

 その前日の28日(月)、バグダード郊外で大統領に同行取材していたプリマ・テレビの女性記者 マリー・ジャンヌ・イオン氏(32歳)、カメラマンのソリン・ミスコチ氏(30)、日刊紙ルーマニア・リベラの記者エドゥアルド・オハネシアン氏(37)の3人が誘拐された。

 ここで劇的なのは、ブカレストのテレビ局で編集会議の最中、詳しい状況は不明だが、誘拐犯に囲まれたイオン記者の携帯から電話が入り、ドゥミトル編集長が受話器をとった。編集長によれば、「アラビア語、英語、ルーマニア語で叫ぶ声が聞こえた。彼女が攻撃者に対し『私たちは身代金も払えない貧しい国から来たんだから、誘拐しないで』と泣きながら訴えているのを聞いた」ということである。前後関係は分からないが、母親にも電話があり「私たちは誘拐された。冗談ではないのよ。助けてえ!」と叫んだという。

 カタールのテレビ局アルジャジーラが、30日(水)、誘惑されたルーマニア人記者3人のビデオ映像を流したが、画面には4人目の人質と思われる人物も写っていた。これはアメリカ人(あるいは米系イラク人)のビジネスマン、モハメド・ムナフ氏と見られ、同氏がルーマニア人記者3人の滞在費を負担し、取材先を案内していたという。
 覆面をした二人の男が怯えて床に座り込んでいる4人の人質に銃を向けていた。誘拐した武装組織はまだ特定されていない。

 ルーマニアのタリチェアヌ首相は、身代金の要求はないと語った。

オブナス記者のビデオ放映、その後

2005年03月20日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 記者の解放は、今日か明日かと待たれる状況であるが、フランス側に決め手を欠いているもようで、3月18日現在まだ実現していない。
 (以下、リベラシオン紙をはじめ、各紙のさわりの部分をかすめただけの報告で気がひけるが、当方の関心は、日本人が捕まったとき非力な日本に何ができるかの一点にあり、もって諸紙は諒とされたい。)


<メディアを通じて報道されたこと>

 3月2日、オブナス記者のディディエ・ジュリア議員を名指しして助けを求めるビデオテープが流されたが、翌々日の4日、ラファラン首相は、ジュリア議員はいかなる交渉ルートも情報ももっていないとして同議員の介入を拒絶し、誘拐犯との交渉にはこれまで通り政府当局一本で当たるむね決断した。事実、ジュリア議員のもとに具体的な情報が届いていたわけではなかったようで、同議員は前回ともに行動したフリップ・ブレットおよびフィリップ・エヴァノ両氏とともに政府とは一線を画した独自行動をとることを求めたが、容れられなかった。イラクの誘拐犯(武装抵抗勢力)から投げられた思いがけないくせ球に対し、フランス政府は大きなリスクをとって、これを見送った。これが何かのワナであった可能性も指摘されているが、詳細は伝えられていない。政府には、当然、従来通りの正攻法で行けるとの自信があると見られるが、その内容はいっさい明らかにされていない。

 (この間、ジュリア議員とフランス政府との間でみっともない悪口雑言劇が生じた。これは中東問題ならぬ「フランス問題」であり、詳細には触れないが、ラファラン首相とジュリア議員との個人的な確執が混乱の軸としてあった。ジュリア氏とラファラン首相とのいがみ合いは極限にまで達しており、「もしオブナス記者がラファラン首相の娘であったら、1ヶ月も前に解放されていただろう」と悪態をついた。同議員は、所属する与党UMP(国民運動連合)を追われることになった。)

 これに対する誘拐犯からの反応は、18日現在まだ報道されていない。旧サダム・フセイン政権と関係をもっていたジュリア議員の名前が出てきたことから、オブナス記者の誘拐犯は、サダム・フセイン政権を支えていたバース党員、特に情報機関(ムハーバラート)の残党とシリア人の支持グループが関係するのではないかとの見方がなされている。誘拐犯の側にもメンツがあり、ディディエ・ジュリア議員の名前を出した意図が何であれ、フランス側にあっさり一蹴されては、簡単に「では返しましょう」とというわけにはいかないだろうとの指摘もある。

 3月7日づけ「フランス=ソワール」紙が、編集長の署名記事で、ディディエ・ジュリア議員に近い謎の複数の情報提供者の話として、「オブナス記者はおそらく週内か遅くとも翌週(14日の週)には解放されるだろうと言っている」と報じた。
 この情報提供者は、同編集長に対して、昨年12月末のシェノ・マルブリュノ両記者の解放が実行される2日前に、その旨を示唆していたこと、さらに、オブナス記者が誘拐された数日後には、同紙に対し、誘拐者と記者らの居場所を知っていると話しており、また後には、オブナス記者のビデオが流される1週間前にそのビデオテープの存在を同紙に話していたという。(しかし、記者は解放されなかった。)

 オブナス記者が属するリベラシオン紙のセルジュ・ジュリー編集長が3月11日から3日間バグダードを訪れ、フセイン(ハヌーン)運転手の留守家族と会って連帯を約束するとともに、イラクのスンニー派の主要団体であるイラク・ウレマー委員会の責任者、およびガジ・ヤワル大統領、ホシュヤル・ゼバリ外相などと会談した。同氏は、二人の人質は生命を脅かされるような状況にはないと確信していると述べるとともに、イラクのテレビを通じて、誘拐犯に対し、フランス首相が呼びかけたように、フランスは、(ジュリア議員を通すような複数のチャネルではなく)、唯一、公的な外交ルートで協議に応じる用意があるとして、直ちに在バグダードのフランス大使と接触するよう求めた。

 17日、各種メディアの編集長ら約40人が首相府に呼ばれ、ラファラン首相は、ビデオ放映以後、「いささかの希望」が見られると語った。相変わらす政治的な犯行声明も身代金の要求もないという。オブナス記者がビデオの中でジュリア議員の名前をあげたことについては、それは依然として「ミステリー」であるが、まだ解明されていない何らかの「つながり」があるに違いないと語った。


<イタリア人記者は解放される>

 イラク武装勢力に2月5日拉致されたイタリア紙の女性記者ジュリアナ・スグレナ氏が、バグダッドで、3月4日、1カ月ぶりに解放された。ところが、車で空港に向かう途中、米軍の射撃を受け、スグレナ氏が肩を負傷、同行していたイタリアの情報機関員1人が死亡、2人が負傷した。

 イタリア情報機関員2人が解放交渉と身柄の引き取りに当たった模様であるが、記者の身柄引き取り後の米軍による射撃事件のみ大々的に報道されて、イタリア側のイラクの誘拐者との接触の模様をはじめ、イラク武装勢力に関することは一切明らかにされていない。スグレナ記者も拘禁中のことは、「敬意をもって扱われた」というありきたり以外、何も話していない。
 何も話さないことが、イラク武装勢力との合意事項に入っているのであろうが、われわれとして知りたいのはまさにその点であり、残念このうえない。


仏リベラシオン紙・オブナス記者のビデオ届く

2005年03月02日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 今年1月5日にバグダードで誘拐されて以来ほぼ2ヶ月消息が知れなかった仏リベラシオン紙フロランス・オブナス記者の自らの救出を訴えるビデオが届けられたという。これを伝えるリベラシオン紙およびルモンド紙など(アルジャジーラも参照した)の記事をまとめれば、要点は以下の通り。

(要点はじめ)
 3月1日(火)朝、バグダードのロイター通信社代理店はじめ複数の報道機関に宅配業者(走り使い?)によってビデオテープが届けられ、まずイタリアの情報チャンネル「スカイ・イタリア」で放映された。

 テープは50秒ほどの短いもので、記者は、一面無地のくすんだ赤色の布地のようなものを背景に、両手で両膝を抱えるようにして床に坐っている。頬はこけ、髪は乱れ、やつれて見える。犯行声明もなければ、撮影日時も、要求事項も分からないというこれまでにない異常なものである。
 記者は、英語で救出を訴えたが、その中で三度にわたりフランス下院議員ディディエ・ジュリア氏の名前をあげて救助を求めた。

 これを受けて、政府は、まだ犯行声明もなければ確実なコンタクトもないとして、同議員に早急な個人的行動を慎むよう求めた。ジュリア氏は、「政府が何もできないときに、自分に何ができるのか」とコメントしている。「私の名前を言うように要求したのは誘拐犯だ。私を知っている連中であり、多分私も知っている。ともあれ、政府の方針に従うつもりだ」

 これとは別に、昨1日、次のふたつの事実が明らかになった。
1)本物かどうか未確認ながら、前回のシェノ・マルブリュノ事件におけるディディエ・ジュリア氏の役割を再評価する「イラク・イスラム軍」の署名のあるコミュニケが、数日来、ヨルダンのアンマンで流れていた。「フランス人ジャーナリスト二人の解放はドゴール派議員ジュリア氏とそのチームの介入によって実現した」というものだが、フランス当局は信憑性が乏しいとしている。
2)先週の24日(木)、政府は、今回のものとは別のオブナス記者を撮ったビデオを入手し、留守家族に届けていた。この最初のビデオには、やはり健康がよくない、助けてほしいという趣旨のことが英語で述べられていたが、ディディエ・ジュリア氏には触れていない。

 ラファラン首相は、新しい事態に対して総動員体制で最善を尽くすと約束し、バルニエ外相は、2本のテープをよく調べることが第一で、ジュリア氏に出馬を求めることもあり得ると述べた。

 ハヌーン運転手についてはまったく情報がない。

 一方、アルジャジーラによれば、別に誘拐されたイタリア「イル・マニフェスト」紙のジュリアナ・スグレナ記者に関しては、イラクのファラハ・アルナキブ内務大臣は、同記者が生存していることを確信していること、近いうちによい知らせがあることを期待していると語った。
(要点おわり)

 唐突に、謎のようなビデオテープとディディエ・ジュリア氏の名前が出てきたことで、事態は暗闇から抜け出して、深い霧の中に入り込んだ。これまでの三つの誘拐事件は互いに無関係としてきた政府の見解や動きが根本的に間違っていたことになる。対アラブ外交では歴史と伝統を誇るケー・ドルセー(仏外務省)を手玉にとるほどのイラク・イスラム抵抗組織とは何ものか。イラクの底知れない淵をのぞくようである。

 日本人記者が捕まったときには、日本政府はいったい何ができるのだろうか。

イラクでの記者誘拐事件

2005年02月18日 | フランス人記者誘拐事件(2)

1)仏・リベラシオン紙フロランス・オブナス記者、ハヌーン運転手

 相変わらず犯行声明はない。

 2月17日づけリベラシオン紙記事によれば、以下の動きがあった。(要約)

 政府はずっと沈黙を守っていたが、2月16日、すべてのメディアの編集長、オーナーなど50人がマティニョン館(首相府)に呼ばれ、ジャン=ピエール・ラファラン首相から状況説明を受けた。
 首相はいくつかの情報を提供し、政府は「不確実で心配な状況に直面している」と述べた。
 オブナス記者とハヌーン運転手が生存しているということをうかがわせる情報もあるにはあるが、16日の時点で確実な生存の証拠はない。誘拐犯と思われるものとの安定的なコンタクトはない。
 首相によれば、この事件は、イタリア人女性記者ジュリアナ・スグレナ氏の誘拐や前回のシェノ、マルブリュノ記者誘拐事件とはまったく関係がない。

 フランス外務省や情報機関の力量が問われる事態になっているが、どうやら政府は記者の生存をつかんでいるように思われる。かなり確実になってきたので、16日の説明会になったのではなかろうか。身代金の交渉になっているのかもしれない。


2)伊・イル・マニフェスト紙ジュリアナ・スグレナ記者

 2月4日(金)、イタリアの左翼紙「イル・マニフェスト」の女性特派員ジュリアナ・スグレナ記者(56歳)が白昼堂々バグダード大学構内で誘拐された。

 2月6日(日)、今まで知られていなかった「ラフィダイン(メソポタミア)の国におけるジハード機構」を名乗る組織から、第2の犯行声明がアルカイダに近いサイトで公表された。「もし犯罪的なベルルスコーニ政府が48時間以内にイラクからのイタリア軍の引き上げを発表しなければ、イタリア人女性捕虜に対する神の判決が実行される」と告げている。

 しかし、誘拐当日の4日に他のサイトで発表された「イスラム・ジハード機構」のコミュニケによれば、こちらは72時間以内にイタリア軍の撤退を要求しており、イタリア当局は新しい犯行声明の正当性に疑問を示している。

 2月16日(水)、ローマのAP通信(米系テレビAPTN?)に1本のビデオテープが送られてきたが、それにはスグレナ記者が数分にわたって助けを求める姿が写っており、直ちに放映された。「この国の国民が苦しむのはもう十分です。イラクから撤退してください。それが私の命を救う唯一の方法です・・・」

 両手を前で組んで涙ながらに切々と訴えるスグレナ記者の画面の左上に、アラビア語で「国境なきムジャーヒディーン」と書かれているという(写真では「国境」の部分が見えない)。国境なき医師団、国境なき記者団をもじったもので、「国境なきジハード戦士」とはテロリストのユーモアのセンスもなかなかのものである。

誘拐から1ヶ月、音沙汰なし

2005年02月05日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 ジャーナリズムに見る限り、まったく音沙汰ない状態が続いている。

 2月1日付けリベラシオン紙電子版によれば、ラファラン首相は記者会見で、「早急に二人を取り戻すために、やらねばならないことはすべてやっている」とした上で、「得られている限りの情報では、前回のシェノ、マルブリュノ記者の件で分かった状況とはかなり違った状況にある。二人の安全確保のためにこれ以上は言えない」と語った。来週、各政治団体のトップを集めて状況説明を行なうとのこと。

 これによれば、首相は二人の生存を握っているような印象を受けるが、どうだろうか。
 一般には、卑劣漢による拉致犯罪ではないかとの見方が広がっている。


 オブナス記者の誘拐とは別に、新たに、今度はイタリア人女性記者が誘拐された。2月4日午後2時ごろ、アルジャドリヤ地区のバグダード大学構内にあるアルムスタファ・モスクを取材をすませて出たところで、1台のミニバスとオペルに道をふさがれ、武器をもった4人の男に車から引き出されて連れ去られたという。イラク人運転手と通訳は連行を免れた。モスクの周辺には破壊されたファルージャの住民117家族、約1000人がテントでの避難生活を余儀なくされており、それを取材に行った。
 今回はネット上で犯行声明が出ており、その信憑性は未確認ながら、「イスラム聖戦機構」の名で、イタリア政府に対して72時間以内にイタリア軍のイラクからの引き上げを要求している。