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中東断章

中東問題よこにらみ

ひとつのパレスチナ支援 - 女の園でソフト開発を

2008年12月18日 | パレスチナはいま

 われわれ日本人にとって、イスラム世界の難しさはなかなか捉えられるものではない。しかし、何ごともグローバル化の時代となれば、同じ地球上にいる限り、末永くおつき合いをしていかなければならないことは勿論である。何より、わが国に対する石油・ガスの供給地であり、他に求めることができないのだ。それには、やはり、相手のことをよく知った上で、無用の摩擦や軋轢を回避しながら、できる範囲でやっていくという当たり前の姿勢が必要であろう。相手は、こちらの事情にはお構いなしであるので、無理は無理と指摘し、できないことはできないと峻拒する一方、双方が利益を得ることであれば、ともに実現の道を探るということになるであろう。

 中東問題、特にパレスチナ問題絡みで日本が政治・外交面でできることは何もない。しかし、ただひとつ物質的な支援だけは可能で、事実、パレスチナをはじめ中東諸国に対して、長年、少なからぬ金額の直接間接の援助を行っている。しかし、露骨ではあるが、これが現地でどれだけ感謝され、国益としてはね返っているかははなはだ心もとない。(イスラム教徒からすれば「当然」となるのかも知れないが、こちらは異教徒であるので感謝されてもよい。)このように、ただ差し出す端から消えていくだけの援助ではなく、もう少し形になって残る、持続性のある支援方法はないものか。

 いささか突飛ではあるが、ひとつ考えられるのが、中東の女性の力の活用である。中東の女性に働いてもらおうというわけである。わが国が資金と技術と機会を提供して、若い女性の力を活用して産業振興に結びつけることができないかということである。中東諸国、特にアラブ産油国での女性の大学進学率の向上は著しいものがあり、男性を大きく超えているところもあるという。ところが、イスラム世界では、女性は、学校を出ても男性にまじってともに働くことがほとんどできない。女性だけの職場もほとんどない。こうした社会的に活動する機会の少ない若い有能な女性たちに働く機会を提供することができれば言うことないであろう。

 イスラムと女性と言えば、外界から見るとき、これはもうイスラムにかかわる最後最大の問題である。われわれには、本来天の半分を支えるべき女性が、イスラム社会ではそのように待遇されていないように見えるのだ。しかし、今はこれについて論じるときではない。しかも当然のことであるが、イスラムの中では、女性問題などあるべくもない。イスラムが外界と接触するときに始めて「問題」として現れるのである。これには地球上の人間全部がイスラム教に改宗しない限り「解決」はない。

  話を現実に戻せば、中東諸国には働く意欲も能力もありながらその機会に恵まれない高学歴の若い女性がたくさんいるという。高品質で安価な労働力があふれているという意味で、地上最後の秘境かもしれない。この貴重な労働力を生かすことを考えない手はない。そこで日本からの支援の方法として考えられることは、男性の介入を完全に排して、日本人の女性リーダーによる女性のための職場を作ることである。女の園である。巨大な投資を必要とせず、日本からノウハウと簡単な設備を持ち込んで出来そうなことに、たとえば、ソフト開発がある。コンピュータ・ソフトウェアの開発である。一見非現実的に見えるかも知れないが、実は大きな可能性を秘めていると考える。

 現在日本は、ソフト開発の一部を中国や香港、シンガポール、フィリピン、インドなどに外注している。これが金額的にどの程度になるのか把握しないが、この仕組みも短期間にすんなり立ち上がったものではない。ちょうど20年前、インドのソフト会社が初めて日本に売り込み(即ち日本企業からのソフト開発の注文の獲得)に訪れた。当初は荒唐無稽と思われたが、インド側の強い意欲と日本側の需要とがマッチして、以来、いくつもの国のいくつもの企業が参入し、大成功とはいかないにしても、今日のオフショア開発体制が出来上がった。最大の障害は、言うまでもなく日本語の習得であるが、それを乗り越えて一定の実績をあげている。ということは、そこにアラブ・イスラム国が入らない理由はない。

 いま、中東の若い女性が自発的に日本語を学んでくれることはあり得ず、しかも日本側の企業負担で日本語教育を含む初期投資を行うこともできないので、ここは政府援助の出番である。支援は、既存のルートにとらわれず、プロジェクト毎に事業主体に対して、語学研修費、機材費、事務所費などの立ち上がり費用を直接提供する形が望ましい。日本語訓練期間は、集中的に行って、三ヶ月か半年、いくら長くても一年である。彼女たちの言語能力は高い。プログラム開発能力については、当初は大学でその方面を履修したもののみを採用し、必要な補習を行っていく。技術面の訓練や技術担当役員には、必要であれば欧州から女性技術者を雇用すればよい。

 さて、プロジェクトの要となる日本から現地に出向くビジネス開拓者、すなわち現地会社の社長であるが、それにふさわしい候補者のイメージは、一定規模以上のソフト会社あるいは一般企業に勤務する管理職クラスの女性のソフト技術者で、海外で働くことに意欲的でかつ英語で意思疎通のできる人ということになろう。開発チームを束ねることができる女性技術者であること、英語が使えること、後々出身会社を通して日本から注文を引っ張ってくることができる人ということになる。このような人は一人いれば十分である。彼女にはイスラム世界にどっぷり浸かってもらって、日本文化との間の通訳者にもなってもらわなければならない。

 一方、海外でビジネスを行うにはどうしても現地のパートナー、あるいはスポンサーが必要となる。なかなか難しいが、有力者であることに越したことはない。だが、有力な女性企業家の存在は考えにくいので、王族の指導的な女性と組むのが次善の策となる。経営上のアドバイスは期待せず、法的な手続きやさまざまな口利きに力を発揮してくれればよいとする。

 創業の地は、パレスチナ難民の雇用を増やすという観点から、まずヨルダンの首都アンマンである。ヨルダン大学をはじめ、IT教育に力を入れている学校も少なくないようである。その他さまざまな観点から、最初はアンマン以外は考えにくい。業務が発展して事業を拡大するときが来れば、次はクウェートやジェダ、リヤド、カタール、アブダビ、ドバイなどのアラブ産油国の諸都市が候補地となるであろう。イランも忘れることはできない。

 日本のソフト会社や一般企業で、このようなプロジェクトに関心をもつところがあれば、飛び出してみることである。日本政府からの支援の求め方は、こちらのプロトコールが難しいが、ある程度の見通しをつけたところで当局(?)に話をもち込むのか、始めから当局と意を通じながら現地側と話し合うのか、スポンサーを通して現地政府を動かして日本政府に支援を要請させるのか、いろいろ考えられるはずだ。パレスチナ支援、引いては中東支援は、日本としてやらないわけにはいかないことなのである。

 この土地でソフト開発が適当と思われるのは、何よりイスラムに直接抵触するところがないことである。しかも当面大がかりな設備が不要である。納期厳守の高品質の製品が生まれる可能性がある。女性ならではのユニークで斬新なソフトが生まれる可能性がある。幸いにも事業が軌道に乗って、パレスチナの女性たちに給料を払っていくことができるようになれば、そのことの意味は小さくない。使用する言葉にこだわらず、パレスチナ人女性のソフト技術者養成を国の事業としてもよいではないか。わが国にとって、援助の名に値する援助とはこのようなことを言うのではないだろうか。

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「ヨルダン内戦」余聞  - 「黒い九月」によるミュンヘン・オリンピック事件

2008年11月26日 | パレスチナはいま
 ヨルダン内戦という戦争で、パレスチナ・ゲリラは、正面の敵であるイスラエル軍によってではなく、同胞でかつ味方であるはずのヨルダン軍によって壊滅的な打撃を受けた。ゲリラ軍は、ヨルダン軍の大きな憎悪の塊が炸裂したかのような、一兵たりとも許さぬという勢いで掃討された。生き残りのほとんどはレバノンへ逃げた。周囲のアラブ国は拱手傍観するのみであった。イスラエルはともに高見の見物をしておればよかった。目の前で敵同士が戦って消耗してくれたのである。48年の建国から僅か20年余、吹けば飛ぶようなこの国にとって、ヨルダン内戦は逆に神風となったことであろう。

 圏外の第三者にとっては、ヨルダン内戦は依然として謎である。どう考えていいか分からない。この土地の出来事は、ほとんどすべてイスラム教と関係づけて考えなければ理解できないが、こればかりはそうも行かない。民族の資質か。しかしそのようなものが取り出せるのかどうか。こちらが頭を抱えているあいだに、パレスチナ・ゲリラ、引いてはアラブ・イスラム世界は、さらなる混迷ぶりをさらけ出す。そこには、組織なき組織、戦略なき「PLO」の迷走と、PLO支援を使命としながら組織できない組織「アラブ連盟」の幽霊のような痛ましい形骸が見られるのみである。

 ヨルダン内戦からちょうど2年が経過した1972年9月5日、ドイツはミュンヘンで行われていたオリンピックの中日、会場内のイスラエル選手宿舎にライフル銃をもつ8人のパレスチナ・ゲリラが侵入し(1人は内部にいた手引き者か)、その場にいた11人のイスラエル人選手やコーチを人質として、イスラエルに捕虜となっている200人余りのパレスチナ人の釈放などを求めて、立てこもった。もとより要求が容れられるわけもなく、結果的に場所を移して銃撃戦となり、人質全員とゲリラ、さらにドイツ人1人の犠牲者を出して終わった。ゲリラのうち3人はドイツ側に捕まったが、その後の別のアラブ・ゲリラによる航空機乗っ取り事件の人質交換で釈放された。しかし執拗なイスラエルの復讐部隊の追及により後に消されてしまったという。

 ミュンヘン・オリンピック襲撃は、世界中の人々の意表を突くまったく突拍子もない事件であった。このようなことが起こるとは、イスラエル人を含めて、だれ一人夢想だにしなかったことは明らかだ。平和の祭典であるはずのオリンピックの場で惨劇を引き起こすとは。この事件は、アラブ・イスラム人のオリンピックに対する冷淡な態度をよく示している。思いもかけない、突拍子もない事件という点で、「9.11」をとっさに「ミュンヘン・オリンピック事件」と結びつけた米国人記者の視点は確かである。また、「9.11」を見て、街頭に飛び出して空に銃弾を放って喜こぶパレスチナ人群衆の映像が流れたが、ミュンヘン・オリンピック事件でも、記録は見ないものの、アラブ・イスラム世界では同じように慶事と受けとられたであろう。再び東京にオリンピックを招致するのはいいが、今の自衛隊では警備は心もとない。

 この事件を引き起こしたのが「黒い九月」という組織だと聞いて違和感をもつ人が多かった。パレスチナ・ゲリラは、開戦の経緯はお構いなしに、ヨルダン内戦での屈辱を晴らすために「黒い九月」部隊を組織し、ヨルダン首相をカイロで殺害するなどの報復活動を行っていた。それはそれで理解できるのだが、その組織がオリンピックの最中にイスラエル選手団を襲撃するのはおかしな話である。やるのであれば、別の組織名でやらなければ筋が通らない。イスラエルは飛び上ったのではないか。けじめなきアラブ・イスラム世界の実態を示している。

 ミュンヘン・オリンピック事件によって、パレスチナ・ゲリラ、パレスチナ人、アラブ人は、世界に向かって、特にヨーロッパに対して、イスラエルの非理に異議申し立てをする足場を自ら崩してしまった。もうパレスチナ人、アラブ人が何を言っても、聞く人は留保つきである。パレスチナ・ゲリラは「これをやれば泥沼にはまり込むことになるぞ」という自覚も反省もないまま、やみくもに飛び込んでしまった。ヨーロッパには、フランス人を中心として、もともとプロ・アラブ感情をもち、米英が後押しするイスラエルの非道に眉をひそめる人々が少なくない。その人たちの気持ちを逆なですることになってしまった。ヨーロッパに根深い「ユダヤ人嫌い」にうまく乗って、親アラブ派を拡大すべきときであった。それから30余年、各国で百万人のオーダーに膨れ上がった国内のイスラム教徒移民の異質性に悩まされることと相まって、嫌イスラム感情が広がっているという。

 中東アラブ・イスラム社会の変調は続き、さらに広くイスラム世界に拡大し、深刻化していく。すぐこの後は、今度はシリアが介入してのレバノン内戦である。シリアからは、レバノンはシリアの一部であるといった時代錯誤の主張が、パレスチナ問題に便乗して出てくる始末である。(この後のイラクのサダム・フセイン大統領によるクウェートはイラクの領土であるという主張は、これと軌を一にする。)山と海と歴史の国レバノンの国土は荒廃に帰し、数えきれないレバノン人、パレスチナ難民、パレスチナ・ゲリラが死に、また仕事や住む家を失った。いまも混乱のうちにある。

 イスラム社会の混迷にまつわるわれわれ日本人にとっての最大の問題は、これが外部世界と協調して暮らしていけるようになる目途が立たないことである。われわれの側からは打つ手がない。繰り言にならざるを得ないのである。

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パレスチナはいま7

2008年04月19日 | パレスチナはいま
ヨルダン内戦 - 「黒い九月」1970(2/2)


3)ヨルダン内戦とは何であったか-パレスチナはいま

 市街戦後のアンマンは、凄まじい様相を呈していた。アンマンは、七つの丘(ジャバル)の町と言われるように、凸凹の多い町である。その丘のひとつ、下町に近い早くから開けたジャバル・アンマンは、まったく人気のない死の町と化していた。街路の両側に並ぶ石造りの高級住宅街は、ことごとく被害を受けていて、半壊、半焼のものばかり。壁という壁には銃弾のあと。扉は壊されて、まともな窓ガラスは一枚もない。中を覗くと、家具、什器類は一切なく、見事に持ち去られている。避難に時間があったので丹念に持って逃げたのか、イスラムに特有の略奪(戦利品の分配?)に遭ったのか。ことほど左様に、アンマンは廃墟のようになった。
 また、バカアの難民キャンプにゲリラが逃げ込み、それをヨルダン兵が追撃したため、見渡す限りぼろぼろのテントの波が続く粗末な汚いキャンプが足の踏み場もないほどの混乱に見舞われていた。完成間近の衛星地球局も砲弾の雨を浴びた。
 アンマンに近いザルカーの町の製油所は完全に焼け落ち、町も死んだようになっていた。後にイラクで活躍したアルカイダの指導者の一人、ザルカーウィの出身地である。

 中東に関心をもっているもので、このヨルダン内戦を契機として、パレスチナ人、パレスチナ問題に対する見方が変わったという人が少なくない。アラブ・イスラムに対する気持ちが離れていったという人もいる。気の毒だが救い難い、というのが大方の感想であった。たしかに、これは、イスラエルという共通の敵を前に、パレスチナ人とヨルダン人が同士討ちをして、どのアラブ国も介入せず、パレスチナ・ゲリラを見殺しにした図である。イスラエルの呵々大笑が聞こえる。ヨルダンに続いて、パレスチナ・ゲリラとアラブ国は、同じようなことをレバノンで繰り返す。

 さて、この内戦にはいくつもの互いに絡み合った疑問や問題があるように思われるのである。


(1)同士討ち - 憎悪

 パレスチナ人とヨルダン人の反目から殺戮と破壊に至った今回の事件の底流をなすものは、互いの「憎悪」の感情である。あらゆる点から見て「同士」であるはずの、というより「同士」でなければならない、両者の間に同情は感じられなかった。春の小川のようなヨルダン川をはさんだ西と東の住民の間で、どうしてこうなのか。両者には、地理的、歴史的に一体性があり、抗争の種も事実もない。それにもかかわらず、どう見てもこれは憎悪にもとづく同士討ちであった。

 もし両者が同士なら、明らかにイスラエルは共通の敵となり、ヤセル・アラファトPLO議長とフセイン国王は共闘の協議に入らなければならない理屈である。しかし、この二人は、敵対こそすれ、話し合った形跡すらない。両者には、もともと、同士としての相互の信頼などあったものではなかったのであろう。なぜかよく分からない。アラファトは、ヨルダンとの共闘なくして、イスラエルに勝てるとでも、真面目に考えていたのだろうか。もともとイスラエルとまともに戦う気があったのかどうか。

 それとも、ヨルダンに避難してきたパレスチナ人、パレスチナ・ゲリラの目にあまる傍若無人ぶりに、ヨルダン人の心に憎悪の気持ちが芽生え、それが急速に膨れ上がって強硬な対決に至ったのか。パレスチナ難民の群れが混迷を続けていたのは当然としても、若いゲリラたちの無統制ぶり、増長ぶりは目に余るものがあった。それが砂漠の民の憎悪を呼び起こしたのか。いずれにせよ、逆にパレスチナ人が勝利していても、ヨルダン兵士に対して厳しい殲滅作戦がとられたであろうことは想像に難くない。

 このことに関連して、内戦の直前にAUB(ベイルート・アメリカ大学)で学んでいた上記のDeAtkine氏は、次のように記している。AUBは、米国宗教ミッションにより1866年に設立されたたアラブ圏最初の総合大学で、多くの有為の人材を輩出している。

 「中東出身の学生は、表面的には、革命的な変化の必要性とパレスチナの大義への支援で一致していた。しかし一皮めくれば、彼らの会話を聞いていると、学生集団は、民族ごとに互いに軽蔑しあう(少なくとも信用しない)多くのグループに分かれていることが明らかだった。皮肉にも、多くの場合、西洋人学生のほうが非パレスチナ人のアラブ人学生よりずっと親パレスチナだった。・・その後起こったことを予想させるように、パレスチナ人学生と東岸出身のヨルダン人学生の間には厳しい敵意があった。」

 現在のパレスチナの状況を見て、パレスチナ人が他のアラブ人、アラブ国から心からの支援を受けているとは言えない。アラブ産油国からの金銭的支援も、お義理か、お付き合い以上のものではない。パレスチナ支援の中心となっている国連機関(UNRWA)でも、アラブ人の存在感は希薄である。アラブ人は、あれはヨーロッパ人やアメリカ人が起こしたことだからそっちで勝手にやってくれ、と言う以上に無関心である。

 アラブ人とユダヤ人は、もとはおそらくひとつで、今日の争いは近親憎悪の発現のようでもある。しかし、それ以前に、パレスチナ人とヨルダン人との間に限らず、さまざまな民族的、宗教的、地域的アラブ人グループの間に根深い反目-憎悪が横たわっていると見ないわけには行かない。それを乗り越えない限り、アラブ人に勝利はない。


(2)フセイン国王 - ヨルダン

 パレスチナ・ゲリラ側の指導者、ヤセル・アラファト氏は、将軍や政治家として適格性に疑問符がつく人物であったが、一方のフセイン国王は、さらに理解しがたい面妖な人物であった。もし背後のヨルダンがしっかりパレスチナをサポートしていたら、パレスチナの今の惨状はなかった。

 ヨルダンは、英国がヒジャーズ地方のどこからか”7世紀”の預言者の血筋を引くという国王を連れてきて、首都をアンマンに定めたものである。どなたかが指摘されたように、イスラムの預言者マホメットの在世は、ちょうどわが国の聖徳太子のそれと重なる。その時からの「直系の子孫」だと言われても、気が遠くなる思いがするのだが。一人だけでなく、あちこちに子孫と言われる人がいるところを見ると、少なくとも直系というのは言い過ぎのようではある。

 さて、トランスヨルダン王国は、建国が1946年で、初代アブドラ国王のもとで48年の第一次戦争に参戦して西岸の一部と東エルサレムを占領した。その後、短命のタラール国王を経て、53年に16歳とか17歳とかいう少年のフセイン国王が即位するが、70年の内戦当時は30台半ばの分別盛り。パレスチナの大義のため、アラブ・イスラムの大義のために身を賭し、国を挙げてイスラエルと戦って当然のところと思われる。ところが、フセイン国王が銃口を向けた先はパレスチナ・ゲリラであった。

 しかも、あにはからんや、フセイン国王は、その頃は既に当時のイスラエルのゴルダ・メイヤ首相と情報を交換し、支援を求めていたのである。両者は、特別の通信手段をもっており、何度も会って会談していたという。アメリカ-イスラエル-ヨルダン連合が出来上がっていたのである。上記のふたつのメモワールとも、そのことを証言している。ヨルダン内戦は、イスラエルは事態の帰趨を先刻ご存知で、ただ突発事態に備えておればいいというだけの、出来レースだった。もし、そのようなことはアラファト氏も先刻承知で、知らぬは兵士ばかりなりということであったとすれば、何をか言わんやである。エジプトのナセル大統領、シリアのアサド大統領、イラクのフセイン大統領こそいい面の皮である。

 こうしたアラブ国の一連の動きを、特にフセイン国王の生涯を通じてのそれを、さすが国際政治を踏まえた冷徹な計算に基づく果断な行動だと肯定的に評価するか、或いは、ただ吐き気を催すか。おそらく、日本人の大方のところは、パレスチナ問題などどこの問題かと涼しい顔のアラブ国の指導者や、それに盲従するアラブ・イスラム大衆や、果てしない内部抗争を続けながら、今なおカラシニコフ銃を振り回し、イスラエルに手作りの爆弾ロケットを打ち込んでこと足れりとしているパレスチナ人には、ただただ溜め息が出るばかり、というのではないだろうか。今も38年前そのままである。


(3)四分五裂

 イスラエルから見て、もっとも恐ろしいのは、アラブ側の団結であったであろうし、今もそうに違いない。周囲のアラブ人が手を組んで襲ってきたらひとたまりもない。事実、上記の回想にもあるとおり、1970年の緊張の高まりの中で、イスラエルは、エジプト-シリア-イラク-ヨルダン-パレスチナ連合軍が向かってくることを何よりも恐れていた。即、破滅である。ところが、それは起こらなかった。それどころか、あろうことか、当面の敵、パレスチナのテロリストがヨルダン軍と白兵戦を繰り広げ、自滅してくれた。周囲のアラブ国ともども四分五裂している。

 アラブ・イスラム世界は、二者の相反のみならず、四分五裂が常態である。アラブ世界は、「団結」あるいは「結束」という言葉の対極にある。ヨルダン内戦に際しても、パレスチナ人、ヨルダン、エジプト、イラク、シリアがそれぞれの思惑のままに動いたり、動かなかったりした。団結さえすれば、今日のようなパレスチナの惨めな状態を招くことはなかったし、今からでも事態の改善は可能である。アラブ世界の四分五裂ぶりは、「アラブ連盟」の歴史と今を見れば一番よく分かる。

 この四分五裂をもたらしているものは、言うまでもなく、対立と抗争である。対立と抗争自体は、どこにでもあることだ。だがアラブ・イスラム世界には、対立と抗争をとりまとめて、或いは乗り越えて、一定の結論に導き、その結論に従うというプロセスがない。日本のサラリーマンであれば一度や二度は聞かされるであろう「会して議し、議して決し、決してこれを守る」という標語がアラブ世界には存在しない。

 では、アラブ・イスラム世界に対立と抗争をもたらしているものはなにか。アラブ・イスラム世界に特有の対立と抗争の根には一体何があるのか。不可解というほかない。四分五裂を繰り返すと、行き着くところは個人である。結局、いま目の前に見る四分五裂の状態は、アラブ人個人々々に由来すると考えるほかない。


(4)戦略的思考がない

 パレスチナ・ゲリラは、どうしてこうも行きあたりばったりなのか。そこには戦略というものがまったく感じられない。戦略という語が適当でなければ、作戦的思考である。西洋人に比べて、およそ戦略など苦手な日本人の目から見ても、パレスチナ人やアラブ・イスラム人がまともにものごとを順序だてて考えていると思えない。四分五裂も、支離滅裂も、行きあたりばったりも、どれもこの一点、戦略思考のなさに尽きるように思われる。

 どうして、イスラエルを倒すという一点に絞って、パレスチナ人を中心として、アラブの大義をいうアラブ諸国がひざを突き合わせて戦略や作戦を話し合うことができないのか。やられてばかりいないで、四方八方から、一夜、一気呵成にイスラエルに奇襲攻撃をかけることもできるではないか。どうしてそれを示し合わせて、実行することができないのか。破れかぶれの行きあたりばったりでは事態を打開できる見込みはない。

 こちらもやぶれかぶれのついでに言えば、9.11(2001年の米国における同時多発テロ)の直後、このテロ攻撃と「黒い九月」による1972年のミュンヘン・オリンピックでのイスラエル選手団襲撃事件との類似性を指摘する記事があった。詳細は記憶にないが、どちらもアラブ人しか思いつかない作戦だ、という趣旨であった。突拍子もないことを思いついて、やみくもに突っ込んで行く。次は何をやってくれるのだろうか。ジハードの名の下に。


 現在のパレスチナを含むアラブ・イスラム世界のありようは、ヨルダン内戦の時にすっかりその姿を現わし、そのまま今日に続いている。そのパレスチナについて考えようとすると、堂々めぐりに陥るのが常である。いいところを見つけるのが難しく、あれが悪い、これが悪いと言っているうちに、それらがどれも互いに関連していることに気づく。ともあれ、いまパレスチナ人がとるべき道は何かと言えば、それは全面的な無条件降伏しかないと思うのだが・・。それも難しいとすると・・。今しもガザで戦闘が起きている。ハマスがイスラエル兵3人を殺害し、その報復にあって、パレスチナ人19人が死亡したとメディアが伝えている。


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パレスチナはいま6

2008年04月19日 | パレスチナはいま
ヨルダン内戦-「黒い九月」1970(1/2)

 「パレスチナはいま」を考えるには、どうしても、1970年9月、ヨルダンの首都アンマンを中心として起こったパレスチナ解放武装勢力とヨルダン正規軍との間の戦闘、いわゆるヨルダン内戦に触れないわけには行かない。戦闘は、ヨルダン正規軍の大勝、パレスチナ開放武装勢力の大敗に終わり、イスラエルに漁夫の利をもたらした。後に「黒い九月」戦争などと呼ばれることになるこのヨルダン内戦こそ、パレスチナの現状のみならず、アラブ・イスラム世界のありようを示すまことに象徴的な事件であった。(以下、パレスチナ「ゲリラ」というのは、開放武装勢力、別に、コマンド、コンバット、フェダイーンなどとさまざまに呼ばれているものを総称している。イスラエルが言うところのテロリストである。)


1) 事件前史

 この事件に入る前に、それに先行するふたつのできごとを見ておきたい。

 ひとつは、ヨルダン内戦に先立つ3年前、1967年6月5日に起きた第三次中東戦争、いわゆる「六日戦争」である。当時、イスラエルとそれを取り囲むアラブ諸国との間で開戦の機運は頂点に達していた。その瞬間をとらえ、まさに国の存亡をかけたイスラエルによる奇襲攻撃によって、アラブ側、特にエジプトの戦闘体制が壊滅的な損害を被り、6月10日、あっけなく六日間で停戦に至った。エジプトのシナイ半島の砂漠の空軍基地にむき出しで並べられてあった400機とも言われるソ連製の戦闘機が、対空砲火を避けるため超低空で侵入してきた180機に及ぶイスラエル機による爆撃にあって、全滅したとされる。ひとのことを言えた義理ではないが、イスラエルのずるさ、機敏さと、アラブの鈍重さが際立った一幕であった。このみじめな敗戦によって、アラブの星、当時のエジプトのナセル大統領の威信は地に落ちた。

 この戦争の結果、イスラエルは、エジプトからシナイ半島とガザ地区、シリアからゴラン高地、ヨルダンからは東エルサレム-旧市街を占領して、エルサレムを首都とする宿願の実現を図った。また、パレスチナから15万~30万人とも言われる多数の住民を追い出したため、それらが難民となって周辺諸国にあふれ出した。当然のことながら、小さなヨルダン川を跨ぐだけの東隣のヨルダンにもっとも多く流入した。ヨルダン内戦の主要な戦場のひとつになるアンマン北方のバカア難民キャンプもこのとき急膨張した。

 その後、アラブ側の仕掛ける復讐の砲撃やパレスチナ人によるゲリラ攻撃が続き、それに反撃するイスラエルとの間で消耗戦に突入した。

 いまひとつのできごとは、翌68年3月に起きた「カラマの戦い」である。死海の北にあるヨルダン渓谷の町カラマは、当時、パレスチナ解放武装勢力の中心地となっていたため、イスラエル軍旅団の掃蕩攻撃を受けた。この時、パレスチナ側は善戦し、イスラエル軍は20人とも200人(パレスチナ側数字)ともいう戦死者を出して、撤退した。アラブ側は、若きヤセル・アラファトの指揮のもとに、劣悪な装備の300人のゲリラで戦ったが、ほとんどが戦死するか捕虜になった。しかし、これは、パレスチナ武装勢力がイスラエル軍と戦って「勝利」した最初にして唯一の戦いとされている。ところが、実際は、ヨルダン国王の禁止命令に反して、現地司令官の決断により参戦したヨルダン正規軍による支援作戦によるものと言われている。ヨルダン軍が正面の敵イスラエルと戦った唯一の例かもしれない。ともあれ、重要な点は、この「勝利」によってヤセル・アラファトがPLOの指導者としての地歩を固めたことと、これに奮い立ったパレスチナの若者によるPLO軍をはじめとする、さまざまなゲリラ組織への志願者が急増したことである。六つとも七つとも言われるゲリラ組織が膨れ上がった。翌々年のヨルダン内戦に直結しているのである。


2)ヨルダン内戦

<ネット情報>
 このような状況の下で1970年9月のヨルダン内戦が勃発した。首都アンマンを中心とするこの内戦についての記録は多数あるが、現在ネット上で興味深い回想記を読むことができる。

 この年の夏、在アンマンのアメリカ大使館は慌ただしいさ中にあった。大使がヨルダン政府より、他のアラブ国に対する政治的なジェスチャーとして、ペルソナ・ノングラータ(好ましからざる人物)として退去を求められ、ついで国防省から派遣されていた大使館付き武官補が、過激派のPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のメンバーと思われるゲリラに自宅に踏み込まれ、射殺されるという事件に見舞われていた。そこに新しい大使が着任し、さらに国防省と国務省からいずれもアラビストの館員が相次いで着任した。偶然この2人がメモワールを残している。 「AMMAN 1970, A MEMOIR (by Norvell B. DeAtkine)」 「Service at Embassy Amman, 1970 (by Hume Horan)」がそれである。

 さらに、ちょうどこの時、日本電気㈱がヨルダン政府から衛星通信地上局の建設を受注し、十数人の日本人が入ってアンマンの北方20キロほどのバカアで工事を進めていた。ヨルダン最大のバカア難民キャンプの入り口にあたるところである。日本人はアンマン下町のフィラデルフィア・ホテルを宿舎とし、毎日建設サイトまで通っていた。工事も完成に近づき、引渡しが間近に迫ったときに戦闘が始まり、日本人はもちろん全員引き上げた。当時そのうちの二三の方からアンマンの様子の実見譚を聞くことができた。ただ技術者ばかりで、事件の背景にはまるで関心はなかった。今もこのプロジェクトの技術責任者であったという岩村成昭氏の「昭和の子」ホームページの中の 「黒い九月(その1)」と、一年後に破壊された地上局の修復に当ったという林蔵氏のホームページ 「地球を歩く」 の中にわずかにその間の様子を伺うことができる。


<事件の流れ>

 ヨルダンという国もその首都アンマンも、いずれローマ時代はおろかずっと大昔からの古い土地には違いないが、われわれが考える国や首都とは大違いである。周知のように、戦後イギリスが勝手に(トランス)ヨルダンという国を作り、たまたまそこに住んでいた人たちが「ヨルダン国民」となったわけだが、もともと過疎もいいところ、僅かの砂漠の民しかいなかった。アンマンは、交通の要衝にあるとはいえ、当時の人口は2万人程度だったらしい。しかもその多くはチェルケス人だったという。地図を俯瞰すればよく分かるのだが、中央アジア、特にコーカサス地方と中東はほとんど一体で、中東にはそこからトルコや帝政ロシアの圧政を逃れてきた移民が多い。レバノンに数多いアルメニア人が最たるものだが、ヨルダンのチェルケス人もそのひとつで、外務省のHPに要領のよい年表がある。その中の一節に、「チェルケス人は、ヒジャーズから来てヨルダンの初代国王となったアブダッラーを支持した。それが当時ヨルダン中部の中心であったサルトではなく、アンマンに首都が置かれた理由の一つと言われている」という。チェルケス人は、主に軍人となって国王に忠誠を尽くし、王政を支えた。

 そこへ、ヨルダン川の西側、農業地帯で、エルサレムもあり、地中海沿岸の都市の並ぶ人口稠密地帯から、イスラエル軍に追われたパレスチナ人が難民となってなだれ込んできた。資力があったり、その後財をなしたものはアンマン市内に邸宅や住居を設けたが、何も持ち出せなかったものは難民キャンプに入るということになったのであろう。昨日までエルサレムの古い商店街で巡礼客相手に千年の商売をしてきた人たちが、突如イスラエル兵に銃口を突きつけられ、追い立てられて逃げてきた。こうして、ヨルダン川を超えたヨルダンの西部はパレスチナ人であふれかえった。

 イスラエル占領下で無政府状態のパレスチナの地にかわって、アンマンがパレスチナ人の首都のようになっていった。このころにはゲリラ組織は、アラブ産油国からの支援も少しは得られるようになっていた。こうした状況下で、おかしな現象が起こってきた。新天地を得たパレスチナ人は、この国をぶん取ってしまうことを考えたのである。大多数のパレスチナ人がそう考えたかどうかは分からないが、少なくともゲリラたちは確実にそう志向し、後には広言した。フセイン国王を倒す、ヨルダン王政を転覆させるというのである。当面の敵イスラエルを忘れたのか、イスラエルは敵わないので、ヨルダンに矛先を向けてきたのか。

 実際、まず、国の中に国があるようなおかしなことになってきた。象徴的なことだが、上記のメモワールにもあるとおり、空港での二重のパスポート・コントロールである。当局によるチェックとゲリラ組織によるもうひとつのチェックと、二度ゲートを通らなければならない状態になった。道路上には、至るところにゲリラ組織による検問所が設けられ、だれかれ構わず停止させては身分証明書をチェックした。しかし、何のためにだれをチェックしようとしているのか、さっぱり分からなかった。まだ幼な顔の残る少年兵士がパスポートをさかさまに見ていたという笑い話は、実際によく聞かれた。ゲリラは、機関銃を手にもって町中をうろつき、砲台に銃を据えた小型トラックが走り回っていた。夜になるとどこからか銃撃戦の音が聞こえた。

 こうした中で、パレスチナ人やゲリラに対する「ヨルダン国民」の憎悪や危機感が増していった。当然のことながら、その最右翼は、チェルケス人や砂漠の民、いわゆるベドウィンよりなる王政を支える軍隊であり、当然のことながらパレスチナ・ゲリラ排除を強硬に主張したことであろう。両者の間で、ゲリラによる町中での武器の携行の禁止を中心とする合意が何度もできたが、できるはしから破られた。だれの目にも行き着くところは軍事衝突しかないように見えた。

 ためらっているかのような国王もついに決断するに至る。日増しに緊張が高まる中、9月6日から9日にかけて、TWA、スイス航空、パンアメリカン、BOACの国際線の航空機がハイジャックされ、いずれも乗客乗員を解放した後に、ヨルダンやカイロ、ベイルート空港で相次いで爆破された。イスラエルのエルアル航空機は危うく難をまぬがれた。この一連のハイジャックを実行したのは過激なPFLPを先頭とするパレスチナ・ゲリラ組織である。これには世界中が震撼したが、同時に世界に対して国家としての面目を失ったヨルダンの国王には、もはやパレスチナ・ゲリラとの武力対決以外ないことを知らしめたであろう。(新聞報道によれば、PFLPの創始者、ジョージ・ハバシュが今年、08年1月26日、アンマンで病死した。81歳であったという。イスラエルの国を挙げての追及を逃れて、よく天寿を全うしたものである。)

 ところで、周辺アラブ諸国であるが、いずれも難しい立場に置かれたことになる。イスラエルや背後のアメリカの出方に脅えながら、どう動けばいいか分からず、明確な方針などもちようがなかったのかも知れない。事実、ゲリラを支援するようでもあり、単にヨルダンにちょっかいを出すようでもあり、すっきりしない。南のエジプトは、ナセル大統領がアラファトの後盾であるとはいえ、ヨルダンの倒国に加担するわけに行かない。北のシリアは、アラファトからの支援要請を受入れたのかどうか、200輌の戦車部隊を国境を越えて進入させたが、空軍の援護がなかったためヨルダン空軍の戦闘機による攻撃にあって、一台づつ次々に破壊された。イスラエルから、もし介入すると反撃すると脅され、早々に撤収したという。国境を越えてヨルダン北部に軍を展開したイラクは、若きサダム・フセインの時代であったが、特にヨルダンとことを構える意思はなく、これまた早々に引き上げた。イラクはその後もフセイン国王と友好関係をたもち、湾岸戦争やイラク戦争を通じて、バグダード・アンマン道路はイラクと外界とを結ぶ唯一の交通路となっていることはよく知られている。

 さて、ヨルダン国内では軍事衝突が不可避であることはかねてよりだれもが感じているところであり、早くから住民は持てるだけのものをもって続々と避難を行っていた。情報は漏れていた。衝突勃発の前日、1970年9月17日には、下町は人っ子一人いなくなった。その間の様子は、上記ホラン氏の回想に詳しい。毎日下町に偵察に出かけていたが、その日いつもとは違う異常な静けさを見てとってブラウン大使に報告すると、ちょうど宮廷から連絡があったところで、翌朝早く国軍が対ゲリラ攻撃を開始すると知らされる。住民は先刻ご承知であった。

 激しい戦闘が、1週間から10日間続いた。アンマンでの市街戦でも、北方における野戦でも、装備と訓練と兵員と士気に勝る国軍がゲリラ軍を圧倒した。各地で凄惨な殺戮が行われたという。ゲリラ側の戦死者は3500-10000人と言われる。追われたゲリラは武器を捨ててヨルダン国軍や敢えてイスラエルに投降した。ヨルダン国軍の報復のほうが怖かったからだ。レバノンに逃げ込んだゲリラも多かった。後にはPLOの本部がレバノンに移されるが、レバノンの悲劇の始まりである。

 ナセル大統領の斡旋により、停戦協議がカイロで行われた。ヤセル・アラファト氏とフセイン国王も出席し、停戦合意書にサインしたというが、両者の間でどのような会話があったのであろうか。このとき小柄なアラファト氏は、黒衣をかぶり女性に変装してアンマンを脱出したという伝説がある。ともあれ、当面の停戦は成立した。それから二三日後、70年9月28日、ナセル大統領は急死する。

 アンマンを追われたパレスチナ・ゲリラの残党は、今度は北ヨルダンのアジュルンに集結した。今は十字軍の城砦で知られる観光地となっている。翌1971年6月、パレスチナ・ゲリラが北ヨルダンで亡命政府を作ろうとしているとの動きに対し、今度はフセイン国王はすばやく動いた。ここでも圧倒的な戦力でのぞみ、再度激しい攻撃を行った。これによって、ヨルダンからパレスチナ・ゲリラ勢力が完全に排除され、国内に残るものは武装解除され、ようやくヨルダン内戦は終結した。

(続く)
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パレスチナはいま5

2007年12月08日 | パレスチナはいま
<アブラハムの子>

 「マイライフ クリントンの回想」の中でも、「アブラハムの子」という言葉が何度か登場する。ユダヤ人もアラブ人も同じアブラハムの子なのだから和平できないはずはないとか、アブラハムの子どものために、破壊と死ではなく、彼らにふさわしい未来を残さねばならない、のように使われている。アラファトたちが口にする「アブラハムの子」とは何であろうか。この地になじみの薄いわれわれ日本人には分かりにくいことばである。

 この言葉そのものは明快である。ユダヤ人は、旧約聖書にもとづいて、自分たちはアブラハムの子イサクの子ヤコブの子孫であると信じている。一方、アラブ人イスラム教徒は、コーランにもとづいて、自分たちはアブラハムの子イシュマエルの子孫であると信じている。いずれも彼らの父親アブラハムに戻るところから、ユダヤ人もアラブ人も自らをアブラハムの子と思っている。コーランにはアブラハムの名前は70回ほども登場し、「アブラハムの章」まである(ただ、コーランでは一般に章の名前と内容とはほとんど関係がない)。それのみならず、メッカにあるカアバ神殿はアブラハムとイシュマエルによって建設されたという。

 このことから、パレスチナ戦争は、近親間の争い、近親憎悪の見本のように言われることがある。しかしこれは当を得ていない。長年欧州各地に住んでいた多数のユダヤ人が、ヨーロッパ人の「ユダヤ人嫌い」に合って虐待を受け、安住の地を求めて大むかし先祖が住んでいたと称するパレスチナの地になだれ込んできただけで、たまたまそこにアラブ人イスラム教徒が住んでいたというだけのことである。偶然であり、悲劇的でもある。始めに近親憎悪ありきではないが、激しい戦いになってから後に、双方に近親憎悪的な感情が生まれてきたかどうか。ありそうでもあり、ありそうでもない。

 今ではユダヤ人やアラブ人の定義でも、血統とか皮膚の色や鼻の形がどうこうという人種的要素はどこかへ消えて、ユダヤ教を信ずるものがユダヤ人で、アラビア語を話すものがアラブ人ということになっている。まるで噛み合わない。

 さて、「アブラハムの子」は同時に「セムの子」でもある。セムの子、即ちセム人という言い方は、ユダヤ人とアラブ人以外に、本来、人種的見地から同族とみなされるもう少し幅広い民族を含んで言われるが、今ではセム人といえばほとんどユダヤ人とアラブ人を指している。事実、この語は18世紀末にドイツの歴史家によって、「アブラハムの子」を念頭において作られたと見られ、ノアの子でアブラハムを9代遡る族長セムに因んでいる。その後、セム人の話す言葉が「セム語」と呼ばれるようになり、より一般化した。ただし、ユダヤ人やアラブ人が自らをセム人ということは、恐らく、ないであろう。

 「セム人」の造語から100年たった19世紀末になって、アンティセミティズム(反ユダヤ主義)ということばが生まれてきた。ヨーロッパ人によるホロコースト、ポグロム、民族浄化等々の根底をいうことばである。セム語というときには、ユダヤ人のヘブライ語やアラビア語やその他さまざまなセム系言語全体を指すにもかかわらず、アンティセミティズムというときの「セム人」は、眼前のユダヤ人のみを指している。これは直接的なアンティジュダイズムを避けた(この語もあるようだが)緩和表現らしい。

 ところで、ユダヤ人とアラブ人の顕著な近親性は、両者の言語にもっとも端的に現われている。どれほど近いかといえば、敢えて神とは言わないが、神に近い主権者が机上でひとつの機械的な強固な構造をもった言語を設計し、それをユダヤとアラブの民に使わせたようなものである。もちろんことばは時代とともに変るので、大本のところは分らないし、いまも変化や分化は止まらないが、少なくともヘブライ語の旧約聖書とアラビア語版のそれを上下に並べてみる限り、両者があまりによく似ていることに打たれるであろう。文字も楷書体と草書体ほどの違いしかない。セム語は共通して際立った特徴をもち、互いに紛れようもなくよく似ているのである。

 このあたりの事情は、「未解読の文書が出てきても、もしそれがセム語で書かれてあれば必ず解読される」ということばがよく説明している。セム語の単語は、ほとんどは三子音を含み、その中間や前後に長短の母音を挟む仕掛けになっている。ところがこの三子音が語の意味の重要な部分を担うためか、セム語では一般にこの三子音しか書かず、長母音があれば書き入れる。ということは、未解読文書で二十数個の異なる文字が特定され、それらの出現場所や出現頻度を調べると、既知のヘブライ語やアラビア語と照合して、訳なく読める理屈である。60年代に死海文書の解読にIBMの初期のコンピュータが用いられたことが話題になったが、多分こうした統計処理に使われたのであろう。

 ところで、旧約聖書のヘブライ語と比較して、コーランのアラビア語のほうが文法的に古格を保っていると言われる。ということは、旧約聖書がいつ成立したのか分からないが、コーランよりはるか昔であることは間違いないにもかかわらず、7世紀のアラビア語であるコーランのアラビア語のほうがセム語としてより古い形を示しているというのである。一見逆のようだが、そこには両民族の歴史が隠されているのではないだろうか。ユダヤ人は、早くから世界各地に進出し、自らのことばを擦り切れさせるほどに他民族と接触したが、一方アラブ人は、それまでアラビア半島かどこかの沙漠や山の中にこもって、ほとんど外界と接触することなく、古いセム語の形を維持してきた・・。

 そのアブラハムの子、セムの子どうしが争っている。アブラハムの子イシュマエルの子、アラブ人に利がない。利がない上に、それに対処する力もない。どうしてそうなのか。



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パレスチナはいま4

2007年11月30日 | パレスチナはいま
<戦争の日常化>

 しかし、これまで書いてきたことは、どうやら、世間知らずの書生論に過ぎないようである。これらは周知の事実であり、言い聞かせられれば小さな子どもでも理解できることだ。パレスチナは即時全面降伏すべきだ、と。とすると、ここまで非勢がはっきりしていて、期すべき将来もなく、有力者の調停をはねのけてまで、なおかつパレスチナがイスラエルに降伏し停戦できないのは、理屈ではない別の何か大きな理由があるはずだ。それもひとつではなく、いくつもの理由があって、それらが絡み合って身動きがとれなくなっているという状況ではないのか。そうとでも考えないことには状況を理解できない。

 思い当たることのひとつは、パレスチナ戦争の「日常化」である。だれもが、60年もの長い間、日常と化したものを壊すことが難しくなっているのである。その先がどうなるか分からないので、恐ろしくて壊せないのである。サラリーマン的日常を送っている人であれば、身につまされて分かるであろう。イスラエルと和平なんかすればもっと悪くなるかも知れないではないか。これは、さしずめ、外資系への転職である。たとえ悪くならなくとも、激変がおとずれるのではないか、それはお断りだ、というわけだ。

 国際社会やアラブ産油国や野心のある国々からの援助は、末端の住民一人一人には一日のパン代にしかならず、ほかはすべて途中で蒸発していても、とにかくパン代だけはどこからかやってくる。そのなま暖かい日常をどうして壊せようか。羊を飼いオリーブを作り続けてきた記憶をもつ人も少なくなった。大多数の住民にとっては、生まれたところが戦場だったのである。難民キャンプだったのである。銃声が子守唄だった。

 子どもが大きくなれば仕事をしなければならない。しかしパレスチナのどこに給料のとれる仕事があるのか。増え続ける若者を吸収するところ、就職口などどこにもない。いや、60年来、若者たちの主な働き場所、就職口となってきたのが数多い武装抵抗組織である。武装組織にも時代による消長が激しいが、いまはハマスとファタハが全盛らしい。二大企業のようで、どちらに属するかは一生を決める難しい選択であり、三菱銀行にしようか住友銀行にしようかと悩むようなものであろう。とにかくそういう構造ができあがっていると考えられる。

 周辺諸国にとっても同じことだ。パレスチナを取り囲むシリア、ヨルダン、エジプトにとってはパレスチナの「現状維持」は、おそらく、もっとも切実な課題である。それが唯一最大の政治目的であるはずだ。これらの国では、揃いも揃って、どうしてそうなったのか分からない「国王」や「(終身世襲)大統領」が、何十年もの間、保身と体制維持のためだけの厳しい統治を続けているではないか。彼らにとって、パレスチナ戦争は、なくてはならない体制維持装置となっている。パレスチナ戦争が強権政治に対する一部の国民の不満のガス抜き栓となっている。これら国王や大統領にとっては、パレスチナ戦争の終焉、戦争のないパレスチナ、など想像することもできないに違いない。

 先に引用した「マイライフ クリントンの回想」によれば、クリントン大統領は、自らの提案をイスラエルのバラク首相が呑んだにもかかわらず、アラファト議長が受け入れないのを見て、アラファトを説得するようアラブ各国の首脳に対して直接電話したという。

「アラファトは言葉を濁し、『明確な説明』を求めた。しかしこの基本指針に不明確なところはない。このなかで交渉するか否かの問題だ。いつものように、アラファトは時間稼ぎをしている。わたしはエジプトのムバラク大統領に電話して、提案の内容を読み上げた。ムバラクは、歴史的な提案だと述べ、アラファトが受け入れるよう促してみると言ってくれた。・・わたしは毎日のようにほかのアラブ国家の指導者たちに電話をかけ、アラファトが承諾するよう圧力をかけてほしいと頼み込んだ。指導者たちはみな、イスラエルが提案を呑んだことに感銘を受け、アラファトはこの提案をまとめるべきだと思うと言ってくれた。彼らがアラファトに対して実際にどんな話をしたのかは知るよしもないが、・・」(下巻p.733-4)

 もしこの通りで、アラブの指導者たちがアラファトの説得にあたっていたら、ことは違った方向に展開していたかも知れない。クリントンからの電話を受けた首脳たちは、受話器をおいたあと、アラビア語に豊富な猥雑で過激な罵倒語をつぶやきながら、パレスチナ戦争の長からんことを叩頭して神に祈ったことであろう。

 いままたブッシュ大統領が、前大統領と同じように、任期満了を前にして偉大な大統領たらんとしてパレスチナ和平を試みている。

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パレスチナはいま3

2007年11月22日 | パレスチナはいま
<やはり降伏しかない>

 イスラエルは、如何にひいき目に見ても、無理筋の不義の国である。時に言われるように、土足でひとの家の庭先に入り込んできて、腕力で住人を追い出して母屋をぶんどった図そのものである。軍人や政治家はいざ知らず、ふつうのイスラエル人であれば、長くこの負い目を負って生きて行くことになることであろう。パレスチナ人の地主から土地を買い取ったケースもあったであろうが、とても平時の正常な取引きとは言えなかった。たとえ買い取ったところで、そこに新たな国を作るなど、世界を覆う極度の混乱の中で不法が行われた。

 しかし、弱肉強食の世界である。われわれは、目の前で、理のない建国の戦いを見てきたので驚くのであるが、遠い昔にさかのぼれば似たようないきさつで建てられた国は少なくないに違いない。極端なことを言えば、豊沃な無人の草原にすんなり成立した国が今日に続いている例があるだろうか。イスラエルの建国のごときは、おそらく常態であったと考えないわけにはいかない。特にこの地では。もちろんパレスチナ人も、子羊のようにただ打たれて出て行ったわけではなかった。ともかく武器をとって戦って破れたのである。

 パレスチナ人にとって不運だったのは、彼らが戦った相手が支配者のトルコ人や周辺のアラブ人ではなく、ヨーロッパ人だったことだ。ヨーロッパ在住のユダヤ人で、近代ヨーロッパから抜け出してきた連中だったことだ。いわば突然ヨーロッパと戦うことになったわけで、戦力でも戦術でも互角に戦えるわけもなく、破れるのも当たり前だったのである。初期には在欧のユダヤ人組織から武器の補給を受け、後にアメリカが加わった。

 こうして60年が経過してみると、正義も不義も遠くにかすんで、イスラエルは強力な最新鋭の兵器で固め原子爆弾を抱える軍事大国となり、一方、パレスチナは相変わらず内紛を繰り返しながら竹槍をしごくだけで、そこには驚くべき落差が生まれてしまった。同じアブラハムの子でありながら、この落差のよってきたるゆえんは何かという点が実に悩ましい。

 パレスチナは、とにかく武器をとってイスラエルと戦争をしてきたのであるから、一度外部勢力との関係を断ち切って降伏し、心機一転、出直しをはかる必要があるであろう。全面降伏、無条件降伏をするほかない。しかも、パレスチナが最も頼りとすべき東の隣国ヨルダンと南のエジプトは遠の昔にイスラエルと和平しているのである。「友邦」が涼しい顔をしている時に、パレスチナがひとり血を流すのはナンセンスである。パレスチナ人が、果てしない内部抗争を続けながら、いつまでも竹槍戦争を続けて被害をたれ流しているのは、正視するにたえない。北の隣国レバノンがそのとばっちりによって壊滅的損害をこうむっているのを見るに忍びない。

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パレスチナはいま2

2007年11月17日 | パレスチナはいま
<アラファト決断できず>

 非力なパレスチナが全面降伏し停戦すれば、当然、その時点での状況が固定されるであろう。境界線(国境)の確定やエルサレムの管理権や各地に散らばったパレスチナ難民の扱いなど、さまざまな問題点がその時の状況のまま固まってしまう。しかし、それ以上悪化することはないので、とにかく一日も早く全面降伏すべきである。

 ところが、一度だけ、パレスチナがイスラエルと和平条約を結び停戦すれば、パレスチナの面子が損なわれることもなく、状況を少し過去に戻して、その時点より有利な状況を得られる願ってもない機会があった。それは、2000年12月のクリントン前米大統領による調停である。

 それに先立つ2000年7月、クリントン大統領はキャンプデービッドにイスラエルのバラク首相とパレスチナのアラファト議長を呼んで調停を試みたが失敗に終わった。これはどうも何の用意もなくやってきた真剣さを欠くアラファトによるものらしく、クリントン大統領も失敗の原因はアラファトにあると公言した。それにも懲りず、歴史に残る大統領になりたいためだと陰口を叩かれながら、大統領辞任を目前に控えた12月に入って再び両者をワシントンに呼んで最後の和平努力を行った。

 クリントンの提案は、詳細は省くが、イスラエルに多大の譲歩を求めるものであった。パレスチナの領土も十数パーセント増えるようになっていた。エルサレムの管理もパレスチナが優位を占めるようになっていた。イスラエルのバラク首相は、一挙に和平を実現して、国内的な政治基盤の弱さを強化したいという思惑もあって、クリントン提案を受け入れた。ところが、アラファト議長は何ひとつ決断できなかった。このときのアラファトの様子について、クリントン大統領の回想記「マイライフ クリントンの回想」は次のように述べている。

「ときおりアラファトは混乱して、すべての事実を把握しきっていないような様子を見せることがあった。少し前からわたしは、彼がもはや完調と呼べる状態にはないのではないか、長年の間、暗殺者の銃弾を避けるため各地を転々として夜を過ごし、数え切れぬほどの時間を機内で、あるいは緊張を強いられる会談の場で過ごしてきたために、疲弊してしまったのではないかと感じていた。あるいは、革命家から政治家になるための最後の一歩が踏み出せなかっただけなのだろうか。飛行機で世界じゅうを飛び回り、パレスチナの職人が作った真珠層の細工物を世界の首脳たちにプレゼントし、いっしょにテレビに登場する、そんな生活にアラファトは慣れてしまった。紛争が終結してパレスチナが新聞の見出しから消え、雇用確保や、学校や、基本的な生活の便について頭を悩ませるようになったら、これまでとは違った生活になるだろう。パレスチナ側交渉団の若い人たちは、ほとんどがアラファトにこの条件を受け入れてほしいと望んでいた。アブ・アラとアブ・マゼンもおそらくそれを望んでいたと思うが、このふたりはアラファトと対立しようとはしなかった。」(朝日新聞社2004 下巻p.742-3)

 こうしてアラファトは、クリントンの提案を、一度も拒否の言葉を口にすることなく、ただ受け入れることをしなかった。クリントン回想記は、不成功に終わった自身の中東和平努力を次のことばで結んでいる。

「アラファトが私からの提案を、バラクも呑んだ提案を断ったのは、歴史的な過ちだった。しかし和平を達成しようと懸命に努めるパレスチナ人、イスラエル人はまだおおぜいいる。平和はいつの日か訪れる。そのときの最終合意は、キャンプ・デイヴィッド及びそのあとの長い六ヶ月のなかから生まれたものと、さほど変わりないはずだ。」(下巻p.744)

 その後イスラエルは、パレスチナ人のテロを防止するためとして、高さ8メートルに及ぶコンクリート壁の建設を始めた。これによってパレスチナは、また十パーセントを越える領土をへこまされた。

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パレスチナはいま1

2007年11月10日 | パレスチナはいま
<全面降伏あるのみ>

 さきのパレスチナ暫定自治政府の長官ヤセル・アラファト氏がなくなって3年が経過した。2004年10月、体調を崩して政庁のあるラマラからパリの病院に運ばれたが、間もなく意識をなくしたのか、パレスチナ人民に対する最後のメッセージを残すことなく、11月11日あっけなく死去した。寡聞にして、まだまとまったアラファトの評伝は出ていないようであるが、どうなっているのだろうか。評価が定まらないのか、書くに値しないのか、大きすぎて書き切れないのか。日本でも、はやりの新書版で軽い解説本が出てもよさそうであるが、こちらもどうなっているのだろうか。

 これは、アラブ人には絶対に書くことはできず、欧米人によることになるが、やはり現場百遍の年季の入ったジャーナリストの仕事ということになるのだろうか。いや、岡目八目ということばもある。遠くロンドンやパリの学窓から中東を眺めている現代のオリエンタリストの出番かも知れない。西洋のオリエンタリストも、つまらないアラブ人にけなされて元気をなくしていなければ幸いである。

 ところで、そのアラファトが生涯を解放のために捧げたパレスチナが最悪の事態に陥っている。史書によれば、第二次大戦の終戦前後から、欧州にいた多数のユダヤ人がパレスチナの地に流れ込み始め、1948年からアラブ人住民との間で大規模な武力衝突が始まったとされる。とすると、来年はちょうど60年という節目の年となる。この間、パレスチナの住民にとって事態は悪化の一途をたどってきた。ことあるごとに常に敗者の立場におかれ、住民は殺され追放されて、住居は破壊され、住地は次々に取り上げられていった。その結果、今日見るように領土(?)はガリガリにやせ細り、ユダヤ人入植地で虫食い状態になって、残った住民は困窮のどん底に追い込まれ、いったいどうして生存が成り立っているのか、だれにも分からないような状態になっている。暫定政府はなすところがない。

 いまパレスチナが最悪の事態に陥っていると言ったが、この地では1948年以来事態が悪化の一途をたどってきたとすると、どの時点をとってもその時が最悪の事態にあったことになる。明日になるとまた事態がさらに悪化して、最悪の事態を更新するだけである。60年間、こうして坂道を転がり落ち続けてきた。その行く先は谷底への転落であり、パレスチナの消滅である。これは理の当然で、単に時間の問題に過ぎない。

 しかし、イスラエルにとっては、パレスチナの土地だけとれるなら万々歳だが、住民ごと取り込んでもろくなことはないので、ぎりぎりのところまで追い込んで、鉄壁を築いて反攻の根を封じ、生かさず殺さずの状態を維持して行くことがとるべき策ということになるであろう。パレスチナ人には、湾岸から石油の金を引いてきて、勝手に食ってくれということになるであろう。今がその限界点か、もっと絞り込まれるのか、これはイスラエルの腹づもりひとつである。

 さて、もし上記のような事態の認識が正しいとすれば、パレスチナにとってなすべきことはただひとつ、一日もはやい停戦と全面降伏あるのみである。ともに天を戴くことのできない敵、不義の国イスラエルに対する復讐と攻撃は、30年後、50年後に果たすことを心に誓って、今は、一旦、戦いにもならない戦いはやめなければならぬ。「負けました」と言えないのであれば、「やーめた」でもいいのである。最悪の事態の更新はその時点で止まり、そこからはアラブ・イスラムの友邦や国際社会の支援によって、急速な事態の改善が期待される。アラファトにはこの認識と度胸を欠いたことが惜しまれる。

 パレスチナの地の戦火がおさまれば、武器商人以外は、西も東もわが国も、ほっと安堵の吐息をもらすであろう。連鎖的に中東地域やその他の関連する紛争も、当面、沈静に向かうことが期待される。石油の値段も暴落してくれる。

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