演劇に関しては、イスラムでは特にこれに触れた文言はないという。このことはイスラム以前に演劇が行なわれていなかったということを意味しない。盛んに音楽が行なわれていたとされているのに、それに対して明確な言及がないこと見てもわかる。映画は、もちろん新しいので、ない。ということは、演劇や映画については、一般的なイスラムの枠組みの中でとりあつかわれることになる。
比較のために、ざっとわが国の状況を見ておきたい。日本では、中世以来、能、狂言、文楽、歌舞伎などが行なわれてきたが、演ずるのはいずれも男だけであった。歌舞伎では男の役者が女を演じる。出雲のおくにを最後に女が舞台に立つことはなくなった。明治になって、西洋から新しい演劇が入ってきた。新劇である。ここではじめて職業女優が誕生し、以来演劇に映画に、ひとつの舞台で男女の共演が当たり前のこととなった。さらには男装の麗人が歌って踊る宝塚歌劇団まで出現した。
アラブ・イスラム世界はどうか。直感的に言えることは、男でも女でも、観衆の前で舞台に立ち、何かを演じて人々をおもしろがらせる、感動を与える、ということはとてつもなく難しかったであろうし、今もそうであるに違いないということだ。イスラム以前は何でもありの世界であったとしよう。音楽もあり芝居もあった。そこに7世紀になってイスラムが出現して、強烈な締めつけが始まった。六信五行のみ奨励されて、それ以外のものは原則禁止である。さしずめ、仮構の世界を演出する芝居などは最初に槍玉にあげられたに違いない。
時間が経過し、イスラムが地域的に広がると、当然変化が生まれる。特に演劇の伝統を持つ地域では、あるいは進取の気風をもつ地域では、何らかの形で、たとえばトルコの影絵芝居のような形で、演劇的な活動が起こることも理解できる。西洋の膨張とともに、日本と同じく西洋からいわゆる新劇も入ってきた。しかし、その演者や題材、シナリオはきわめて限定されたものであろうことは論をまたない。
日本の場合を見ても分かるように、女が舞台に立つのは容易なことではなかったが、これがアラブ・イスラム世界となると、まったく実現不可能である。日常の社会活動から女性を隔離して家の中に閉じ込めてしまう世界では、スカーフを被るとか、頭からすっぽり全身を覆う黒い着物(アバーヤなど)を着せるとかの問題ではなく、女性を人前に出すこと自体があってはならないことなのだ。まして、ひとつの舞台で男女が共演することは、イスラムのもとではありえない。
では、歌舞伎スタイルの男だけの演劇はないのだろうか。これもなさそうである。多数の武者がそろい踏みで剣を空に突き上げるスタイルの剣舞はあったが、とても舞台芸術ではない。女形はともかく、男が男ばかりを演じる芝居も考えにくい。イスラムでは、人間が役者となって、他人や架空の人物に扮する、あるいはなり代わるということ自体を問題にするのかもしれない。
ところで、アラブの女性歌手は、ラジオ以前は、聴衆の前で舞台に立って歌っていたのだろうか。音楽なら許されたのだろうか。そのような舞台があったのだろうか。それとも女性歌手の出現はラジオ以降のことなのだろうか。いまのところ、これらの疑問に答える手段がない。レバノン人の名歌手フェイルーズは、写真では、スカーフを被って舞台に立って歌っていたようだ。しかし、エジプト人のウンム・カルスームは被らなかった。ただウンム・カルスームは、常に黒めがねをかけていた。トレードマークであるが、これで何か宗教的な免罪を得ようとしたのかも知れない。
役者が神(アラー)に扮することは、これだけは絶対にない。では、預言者ムハンマドはどうか。預言者は、神に選ばれた人ではあっても、ただの人間であるが、これまただれかが扮することが宗教的に許されるかどうか。文書的な根拠があるかあるかどうかはともあれ、容易に予想されるが、まずまったく難しい。いわゆる不敬罪に当たるとされると考えられる。預言者に続く正統カリフたちはどうだろうか。この辺になると許されるかも知れない。
演劇らしきものがあったとして、ストーリーは、憎き異教徒を征伐する武勇劇くらいしか考えられない。お笑いも考えにくい。
大体、アラブ世界には劇場がなかった。大きなモスクは作ったが、劇場建築は知らなかった。寄席がなかったのである。地中海周辺のアラブ国ではギリシャやローマ遺跡を多く抱えており、たとえばヨルダンのアンマンにはそのまま使えそうな立派なローマ時代の半円形の劇場が残っているが、後から来たアラブ人がそれを利用して何らかのパーフォーマンスを行なった形跡はない。
日本の小学校には昔から講堂がついていた。そこで学芸会が行なわれ、だれもがはじめて演劇体験をする。アラブの小学校には講堂がない。しかも男女別学である。学芸会などという発想もない。
以上のようにイスラム原理主義的原理にそって考えると、アラブ・イスラム世界には演劇は存在しなかったことになる。現代になってアラブ世界に入ってきた新劇やオペラなどと、どのようにイスラムとの折り合いをつけて、それらを受け入れているのだろうか。無邪気なお笑いひとつにしても、神への想念を乱すものとして、厳しい非難が避けられないはずである。
現在のアラブ世界では、芸能は、演劇よりほとんど映画に流れているようだ。エジプトのドタバタ喜劇映画が代表である。同工異曲のお笑い映画が山ほど作られている。演劇より映画のほうが、商業的に成り立ち、いろいろな意味で、宗教的な問題に対応しやすいように思われる。しかも、この問題含みの映画は、不思議に原理主義者の攻撃を免れている。映画は、娯楽の乏しいアラブ世界における唯一の娯楽らしい娯楽であるので、アズハルのウラマーもムスリム同胞団の原理主義者も見て見ぬふりをしているのであろう。
サウジアラビアには、おそらく、まだ映画館も劇場もない。解禁が検討されているというニュースを聞いたこともない。ただし、時には、日が暮れてから砂漠でドライブイン式の野外上映会はあるようだ。当たりさわりのないエジプト映画などをやっているのであろう。
近年、日本でもときたまアラブ映画の上映会があって一度に何本か見ることができる。厳しい検閲をくぐり抜けてきたものばかりで、ドキュメンタリー風のものが多く、もちろん宗教や政治にふれるところは回避している。アラブの映画人は、世界でもっとも厳しい環境で、懸命に映画を作っている。