中東断章

中東問題よこにらみ

イスラムと演劇・映画

2005年02月26日 | イスラムと芸術

 演劇に関しては、イスラムでは特にこれに触れた文言はないという。このことはイスラム以前に演劇が行なわれていなかったということを意味しない。盛んに音楽が行なわれていたとされているのに、それに対して明確な言及がないこと見てもわかる。映画は、もちろん新しいので、ない。ということは、演劇や映画については、一般的なイスラムの枠組みの中でとりあつかわれることになる。

 比較のために、ざっとわが国の状況を見ておきたい。日本では、中世以来、能、狂言、文楽、歌舞伎などが行なわれてきたが、演ずるのはいずれも男だけであった。歌舞伎では男の役者が女を演じる。出雲のおくにを最後に女が舞台に立つことはなくなった。明治になって、西洋から新しい演劇が入ってきた。新劇である。ここではじめて職業女優が誕生し、以来演劇に映画に、ひとつの舞台で男女の共演が当たり前のこととなった。さらには男装の麗人が歌って踊る宝塚歌劇団まで出現した。

 アラブ・イスラム世界はどうか。直感的に言えることは、男でも女でも、観衆の前で舞台に立ち、何かを演じて人々をおもしろがらせる、感動を与える、ということはとてつもなく難しかったであろうし、今もそうであるに違いないということだ。イスラム以前は何でもありの世界であったとしよう。音楽もあり芝居もあった。そこに7世紀になってイスラムが出現して、強烈な締めつけが始まった。六信五行のみ奨励されて、それ以外のものは原則禁止である。さしずめ、仮構の世界を演出する芝居などは最初に槍玉にあげられたに違いない。

 時間が経過し、イスラムが地域的に広がると、当然変化が生まれる。特に演劇の伝統を持つ地域では、あるいは進取の気風をもつ地域では、何らかの形で、たとえばトルコの影絵芝居のような形で、演劇的な活動が起こることも理解できる。西洋の膨張とともに、日本と同じく西洋からいわゆる新劇も入ってきた。しかし、その演者や題材、シナリオはきわめて限定されたものであろうことは論をまたない。

 日本の場合を見ても分かるように、女が舞台に立つのは容易なことではなかったが、これがアラブ・イスラム世界となると、まったく実現不可能である。日常の社会活動から女性を隔離して家の中に閉じ込めてしまう世界では、スカーフを被るとか、頭からすっぽり全身を覆う黒い着物(アバーヤなど)を着せるとかの問題ではなく、女性を人前に出すこと自体があってはならないことなのだ。まして、ひとつの舞台で男女が共演することは、イスラムのもとではありえない。

 では、歌舞伎スタイルの男だけの演劇はないのだろうか。これもなさそうである。多数の武者がそろい踏みで剣を空に突き上げるスタイルの剣舞はあったが、とても舞台芸術ではない。女形はともかく、男が男ばかりを演じる芝居も考えにくい。イスラムでは、人間が役者となって、他人や架空の人物に扮する、あるいはなり代わるということ自体を問題にするのかもしれない。

 ところで、アラブの女性歌手は、ラジオ以前は、聴衆の前で舞台に立って歌っていたのだろうか。音楽なら許されたのだろうか。そのような舞台があったのだろうか。それとも女性歌手の出現はラジオ以降のことなのだろうか。いまのところ、これらの疑問に答える手段がない。レバノン人の名歌手フェイルーズは、写真では、スカーフを被って舞台に立って歌っていたようだ。しかし、エジプト人のウンム・カルスームは被らなかった。ただウンム・カルスームは、常に黒めがねをかけていた。トレードマークであるが、これで何か宗教的な免罪を得ようとしたのかも知れない。

 役者が神(アラー)に扮することは、これだけは絶対にない。では、預言者ムハンマドはどうか。預言者は、神に選ばれた人ではあっても、ただの人間であるが、これまただれかが扮することが宗教的に許されるかどうか。文書的な根拠があるかあるかどうかはともあれ、容易に予想されるが、まずまったく難しい。いわゆる不敬罪に当たるとされると考えられる。預言者に続く正統カリフたちはどうだろうか。この辺になると許されるかも知れない。

 演劇らしきものがあったとして、ストーリーは、憎き異教徒を征伐する武勇劇くらいしか考えられない。お笑いも考えにくい。

 大体、アラブ世界には劇場がなかった。大きなモスクは作ったが、劇場建築は知らなかった。寄席がなかったのである。地中海周辺のアラブ国ではギリシャやローマ遺跡を多く抱えており、たとえばヨルダンのアンマンにはそのまま使えそうな立派なローマ時代の半円形の劇場が残っているが、後から来たアラブ人がそれを利用して何らかのパーフォーマンスを行なった形跡はない。

 日本の小学校には昔から講堂がついていた。そこで学芸会が行なわれ、だれもがはじめて演劇体験をする。アラブの小学校には講堂がない。しかも男女別学である。学芸会などという発想もない。

 以上のようにイスラム原理主義的原理にそって考えると、アラブ・イスラム世界には演劇は存在しなかったことになる。現代になってアラブ世界に入ってきた新劇やオペラなどと、どのようにイスラムとの折り合いをつけて、それらを受け入れているのだろうか。無邪気なお笑いひとつにしても、神への想念を乱すものとして、厳しい非難が避けられないはずである。

 現在のアラブ世界では、芸能は、演劇よりほとんど映画に流れているようだ。エジプトのドタバタ喜劇映画が代表である。同工異曲のお笑い映画が山ほど作られている。演劇より映画のほうが、商業的に成り立ち、いろいろな意味で、宗教的な問題に対応しやすいように思われる。しかも、この問題含みの映画は、不思議に原理主義者の攻撃を免れている。映画は、娯楽の乏しいアラブ世界における唯一の娯楽らしい娯楽であるので、アズハルのウラマーもムスリム同胞団の原理主義者も見て見ぬふりをしているのであろう。

 サウジアラビアには、おそらく、まだ映画館も劇場もない。解禁が検討されているというニュースを聞いたこともない。ただし、時には、日が暮れてから砂漠でドライブイン式の野外上映会はあるようだ。当たりさわりのないエジプト映画などをやっているのであろう。

 近年、日本でもときたまアラブ映画の上映会があって一度に何本か見ることができる。厳しい検閲をくぐり抜けてきたものばかりで、ドキュメンタリー風のものが多く、もちろん宗教や政治にふれるところは回避している。アラブの映画人は、世界でもっとも厳しい環境で、懸命に映画を作っている。
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イスラムと音楽

2005年02月19日 | イスラムと芸術

 アラブ・イスラム諸国を旅行すると、アラブでもトルコでもイランでも、どこでも、特に賑やかな都市中では、四六時中、異国情緒あふれる独特の音楽が耳を打つ。しかし、この音楽も、絵画や彫刻と同じく、宗教的には大いに問題ありというから驚く。

 問題ありという意味は、コーランやハディースに照らして、音楽がイスラムで許されているのかどうか、つまり合法か非合法か、議論が絶えないということである。決着がついていない。それにもかかわらず、音楽は、絵画、彫刻とは比較にならないほど寛容にあつかわれ、生活に密着して盛大に行なわれたきた。

 その理由は、人間の本性とか民族の伝統とかいろいろあるであろうが、それらに加えて、絵画や彫刻が「偶像崇拝の禁止」といったイスラムの根幹にかかわる問題に直接関係するのに対し、音楽問題はやや周辺の問題と考えられてきたためではなかろうか。比重が軽かったということである。

 それでもイスラムの宗教原理にもっとも厳しかったタリバン治下のアフガニスタンでは、音楽も禁止された。しかし、たとえば、音楽は空気のようなもので、これがなければやってられないトラック運転手たちは、税関などのチェックポイントに来ると手前でテープを止めてカセットをはずし、それを隠して通過した後でまたガンガン鳴らしたという。もちろん町では闇で音楽カセットが取引きされていたであろうが、命がけであったに違いない。

 音楽がイスラムの原理(コーランとハディースなど)レベルで解釈が分かれるのであれば、原理主義者が音楽を禁止することは理屈に合わない。しかし、イスラム原理主義者は、同時に厳格主義者で、疑わしきは禁じ、罰する方向にあるようである。


 アラブ音楽は、ほとんど、数人の楽員が演奏する器楽に合わせてひとりの歌手が唱歌する形式である。これがいつ果てるともなく延々と続く。おそらくラジオが登場してからであろうが、熱狂的な人気をもつ国民的歌手、いや民族的歌手が何人も生まれた。とても美空ひばりの比ではない。アラブ人はこの歌に酔い、陶然となって踊りだす。生活に溶け込んでいるどころの騒ぎではなく、この音楽は彼らの魂に根ざしている。

 それほどの音楽が、アラブ人(イスラム教徒)の存在の根底であるイスラム教上、問題があるというのであるから驚かされる。一方の論者によれば許容範囲にあると言い、一方では禁止となる。議論のベースは、コーランとハディースであるが、単に問題の輪郭を知る意味で、関連するとされるコーランの一部の章句を見てみよう。どの問題についても言えることだが、イスラムの議論は、博引旁証限りなく人知の限りを尽くして論理を展開する類のもので、トバ口を覗くことすら難しい。(以下コーランの訳は「コーランⅠ・Ⅱ」中央公論新社2002による。)

(17:55)汝の主は、天と地にあるいっさいのものをもっともよく知りたもう。われらは預言者たちのある者には他にまさる恩恵を授けた。ダビデには詩篇を与えた。
〔「詩篇」を音楽ととって、合法説〕

(17:64)おまえの声によって、できるだけの人間を脅かせ。おまえの騎兵や歩兵によって、彼らに叫びたてよ。財産や子どもも彼らと共同で造れ。彼らと約束せよ」。サタンのする約束など欺瞞にすぎない。
〔非合法説〕

(31:6)人々の中には、興味本位の話を買って、知識なくして神の道から迷わし、神の道を笑い草にしようとする輩がいる。このような者は、辱めの懲罰を受けよう。
〔「興味本位の話」を、単なるおしゃべりではなく、歌うこと、唱歌、またそれを聞くこととすると非合法となる〕

(38:41-42)われらの僕ヨブのことを思いだせ。彼が主に、「サタンは苦痛と災難で私を痛めつけます」と訴えたときのこと、おまえたちの足で地を打て。これが涼しい洗い場と飲み水だ」
〔合法説〕

(53:59-62)おまえたちは、この話を聞いて驚いているのか。
嘲り笑うばかりで、泣こうとしないのか。
陽気にふざけているとはなにごとか。
神に跪拝して、ひたすら崇拝してたてまつれ。
〔「ふざけている」を、歌うことも含めて解釈すると非合法となる〕


 これらコーランの章句と関連するハディースをもとに、百家争鳴である。おそらく歌舞音曲がさかんに行なわれていた長い時代の後、7世紀にいたって預言者が現われ、音楽についてもいくつか発言したが、それらは後の時代の人間にはさまざまな解釈を許すものであった。

 ここは、平凡社「イスラム事典」(電子版)の前嶋信次氏による「歌舞音曲」の解説をもって当面の結論としたい。
「イスラム時代になると,歌舞音曲がシャリーア(イスラム法)に合するのか,それとも禁じられているかについて,さまざまな議論が行われた。コーランには,これについての明文はない。ハディースには,合法だとするものと,否定するものとの双方があって,いずれとも決し難いが,結局,ハラーム(禁止)ではないが,推奨はできぬもの(マクルーフ)とする説が圧倒的のようにみえる。」

 カイロやベイルートでも、アラブ国ではどこでも、普通のイスラム教徒は(キリスト教徒も)うっとりしてアラブ音楽に浸っている。ウラマーも苦虫を噛みつぶしたような顔で音楽を聞いているとは思えない。その音楽が、イスラム的には五段階評価で下から二番目の「推奨はできぬもの(マクルーフ)」とは不思議な話ではある。

 今後、考えにくいことだが、何か新しい決定的な文書やロジックが出てこない限り、大多数のムスリムが承服する結論が出ることはない。イスラムで言う最後の「審判の日」まで論争を続けるのか、それとも他の宗教のように、イスラムもいつか枝葉を落として枯れてきて、この問題を問題ともしない日が来るのか、まことに悩ましい。
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イラクでの記者誘拐事件

2005年02月18日 | フランス人記者誘拐事件(2)

1)仏・リベラシオン紙フロランス・オブナス記者、ハヌーン運転手

 相変わらず犯行声明はない。

 2月17日づけリベラシオン紙記事によれば、以下の動きがあった。(要約)

 政府はずっと沈黙を守っていたが、2月16日、すべてのメディアの編集長、オーナーなど50人がマティニョン館(首相府)に呼ばれ、ジャン=ピエール・ラファラン首相から状況説明を受けた。
 首相はいくつかの情報を提供し、政府は「不確実で心配な状況に直面している」と述べた。
 オブナス記者とハヌーン運転手が生存しているということをうかがわせる情報もあるにはあるが、16日の時点で確実な生存の証拠はない。誘拐犯と思われるものとの安定的なコンタクトはない。
 首相によれば、この事件は、イタリア人女性記者ジュリアナ・スグレナ氏の誘拐や前回のシェノ、マルブリュノ記者誘拐事件とはまったく関係がない。

 フランス外務省や情報機関の力量が問われる事態になっているが、どうやら政府は記者の生存をつかんでいるように思われる。かなり確実になってきたので、16日の説明会になったのではなかろうか。身代金の交渉になっているのかもしれない。


2)伊・イル・マニフェスト紙ジュリアナ・スグレナ記者

 2月4日(金)、イタリアの左翼紙「イル・マニフェスト」の女性特派員ジュリアナ・スグレナ記者(56歳)が白昼堂々バグダード大学構内で誘拐された。

 2月6日(日)、今まで知られていなかった「ラフィダイン(メソポタミア)の国におけるジハード機構」を名乗る組織から、第2の犯行声明がアルカイダに近いサイトで公表された。「もし犯罪的なベルルスコーニ政府が48時間以内にイラクからのイタリア軍の引き上げを発表しなければ、イタリア人女性捕虜に対する神の判決が実行される」と告げている。

 しかし、誘拐当日の4日に他のサイトで発表された「イスラム・ジハード機構」のコミュニケによれば、こちらは72時間以内にイタリア軍の撤退を要求しており、イタリア当局は新しい犯行声明の正当性に疑問を示している。

 2月16日(水)、ローマのAP通信(米系テレビAPTN?)に1本のビデオテープが送られてきたが、それにはスグレナ記者が数分にわたって助けを求める姿が写っており、直ちに放映された。「この国の国民が苦しむのはもう十分です。イラクから撤退してください。それが私の命を救う唯一の方法です・・・」

 両手を前で組んで涙ながらに切々と訴えるスグレナ記者の画面の左上に、アラビア語で「国境なきムジャーヒディーン」と書かれているという(写真では「国境」の部分が見えない)。国境なき医師団、国境なき記者団をもじったもので、「国境なきジハード戦士」とはテロリストのユーモアのセンスもなかなかのものである。
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イスラムと美術

2005年02月15日 | イスラムと芸術

 イスラム世界は、美を表現する手段として絵画と彫刻を欠き、表現する主題として人間と動物を欠いている。ということは、イスラム世界にはわれわれが考える美術活動全体の大半が存在しないということだ。全体の何割にあたるのか知らないが、半分以上、いや8割、9割に達するような気もする。

 イスラム教徒は美術の建設者、製作者ではなく、逆に史上最大の美術の破壊者であった。最大の被害者は、言うまでもなく、ギリシャ、ローマ美術である。完膚なきまでに破壊された。現在見られるものは、破壊のあとの残骸か、かろうじて破壊をまぬがれたものばかりである。その昔、進軍してきたイスラム軍の兵士が、ギリシャやローマの彫像の列を見るや、アラーの名を唱えながら憤怒にかられて斧を振るって片端から彫像の首を叩き落している様を想像すると、鬼気迫るものがある。ペルシャやアフガニスタンの美術も同様である。

 数ある世界美術全集の中で、イスラム美術は、必ず1冊を占めるが、1冊以上ではない。世界人口の5分の1とか6分の1を占めるイスラム世界にとって寂しくはあるが、上記の事情を考えれば、妥当なところかも知れない。

 しかし、こうした大まかで乱暴な言説には多くの反論が予想される。イスラム軍は、進軍して行った先で地元の文化と結びついて、各地に美術品を含む独特のイスラム文化を残してきた。スペイン、北アフリカ、西南アジア、至るところに珠玉のような美術品がある。たくさんのイスラム風細密画があるではないか。それには違いないのだが、それらを取り上げて個々に論じると大冊になるが、世界美術全集の中では1冊分に過ぎないのである。それもページ毎にかわり映えのしない単調な1冊である。単調さこそ、しかし、イスラムの論理の帰結なのだ。

 さらに、西洋人や日本人がイスラム世界に対して抱くエキゾチズムがこの世界にオブラートをかけて、その厳しさ、激しさを見えにくくしている。「光り輝くイスラーム文化(平山郁夫氏)」などという標語が人を引きつける。実際、どこの国にも異邦人を身震いさせるような、心を捉えて離さないシーンがあるが、アラブ国であればさしずめ次のような場面である。

 「ものういアザーンの声が流れる中、ふと見上げると抜けるような青い空のもとにモスクの金色のドームが輝いている。誘われるように入ってみると、幾何学模様にいろどられた青いタイル張りの回廊にとり囲まれた四角い中庭に出る。磨きこまれた白い大理石の床がまぶしい。手に履物を下げて礼拝所に向かう人影がひとつふたつ。中ほどにある小さな噴水からあふれ出た水が水路をさらさら流れている。日蔭に入るとそよぐ風が汗ばむ肌に心地よい。外にはスークのざわめき。かすかな羊の肉を焼く匂い。」

 イスラム美術は、モスクを代表とする建築、それに付随する建築装飾、幾何学模様の装飾タイル、壁面を飾る模様化されたアラビア文字、工芸品、陶器、などに限られる。


 現代美術はどうか。

 サウジアラビアまで画家の養成を言い出す時代であるが、宗教勢力との折り合いはついているのだろうか。イスラム国では、画家を育てるのは、手足を縛って泳がせるようなものだ。ここでもイスラムとの距離のとり方が決定的な問題である。それは、スポーツ選手や科学者と同様、画家個人の判断にまかされる。

 静物画や抽象画ばかり描くわけにもいかず、人物をぼかして描くとか、顔を描かないとか、いろいろ工夫してでも描かないわけにはいかないであろう。その都度言い訳を考えなければならない。モデルの女性はムスリムでないと強弁して、裸婦を描くかもしれない。芸術であればウラマーは沈黙するのかどうか。原理主義者は何と言うのだろうか。

 遥か彼方の東洋の多神教国から不道徳なアニメ・マンガが電子メディアに乗ってイスラム世界にやってくる。イスラムの子どもたちを守るために、これに対抗して、イスラム・アニメを作らなければならないとの声が上がっているという。画家の出番が増えて結構だが、サウジアラビアでもエジプトでも、実際にひとつ作って見せてほしい。掛け声ばかりで、何ひとつ実行できないのがアラブ国だが、これはまた別の問題だ。
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絵本、人形、縫いぐるみ

2005年02月13日 | イスラムと芸術

 イスラム教徒は、人や動物の像を作らず、それらの絵を描かず、もちろん装飾として飾ることはなく、異教徒が作ったものでも領土内にあるものはすべて破壊した。

(ただし、これら禁止や命令の宗教的な根拠はひとつではなく、コーランやハディースの中にばらばらと述べられている。また、いずれ総括するが、イスラムにおけるこれらの数多い「しなさい(=DO)」や「してはならない(=DON'T)」は、それをどうとるかは読み手の判断にゆだねられており、さまざまな解釈が生まれたり、百家争鳴の原因となっている。ちなみに、像を作ったり絵を描いても、それを拝まなければいいのだという意見もあるようである。)

 ところで、絵心とかものづくりといったことばがあるように、絵を描いたり像のようなものを作ることは人間がもって生まれた本性のひとつであるはずである。ということは、イスラムは、人間がもって生まれた絵を描き、ものを作る本性を無理に封じるもので、敢えて言えば、人間性に反するものである。人間の描画や造形の本性を封じてしまっていいのかという深刻な問題につながるのである。

 アラブ・イスラム世界にも、もちろん、絵を描くことや粘土細工が好きで上手な子どもはたくさんいるはずだ。しかし、その才能は子ども時代に封印され、開花させてやることができないのである。アラブ・イスラム世界には「画家」もいなければ「彫刻家」もいない。ミケランジェロもセザンヌもピカソもロダンもいない。イスラム画家ということばは熱い氷というほどにナンセンスなのだ。まことに荒涼とした世界である。

 では、アラブ・イスラム世界に子どもの絵本はないのかといえば、それはあるようである。東京でも、たとえば「いたばしボローニャ子ども絵本館」で、モロッコ、エジプト、ヨルダンなどのアラブ国の絵本を手にとって見ることができるが、動物の首が一部分切れているとか、頭がないということはなく、ごく普通の絵本である。普通の絵本を選んでもってきたのかもしれないが。ともあれ普通の絵本を見て育つ子どももいることがわかる。

 時折、パレスチナや最近ではイラクの子どもたちの絵画展なるものがわが国でも開かれる。主に反戦団体が開くもので、戦禍の悲惨さを描いた絵が並べられるのであるが、これらを見ると小学校では図画の時間があって、絵を描いていることがわかる。しかし、何年生まで図画の時間があるのか、サウジアラビアの小学校に図画の時間があるのか、などはわからない。美術学校や芸術大学は、もちろんない。

 ともあれ、アラブ・イスラム世界の子どもたちは、成長過程のある時期に、絵を描くことと縁を切ることを強制される。しかし、図画だけではないのである。どの世界でも、小さな女の子は人形や動物のぬいぐるみをもって遊ぶ。アラブ・イスラム世界では、この人形やぬいぐるみも、幼い間は大目に見られるが、いずれ取り上げられる運命にあるのである。実際に、女の子が何歳になったら人形を取り上げられるのかは知らない。想像するところ、恐らく外出の際にスカーフをかぶるようになると、家の中でも人形やぬいぐるみとの生活を清算するよう迫られるのではないだろうか。愛着があって捨てがたく、隠しもっていたとしても、それはあくまで神の命令に背いて隠しもつという難しいことになる。

 余談にわたるが、アラブ世界ではアメリカ生まれの「バービー人形」と日本製の「ポケモン」をめぐってひと騒動があった。アラブの子どもたちも例外ではない、これらに飛びついた。ところが宗教界から物言いがついて、輸入禁止となり、イスラム路線に沿って修正を迫られた。これは偶像問題だけではなく、イスラム道徳の退廃を狙うユダヤ人の陰謀だの、西側世界の悪徳を体している、反イスラム的である、ギャンブル性がある、進化論にもとづいているなどと、いつもながらの被害妄想的なさまざまな理由がつけられた。
 ポケモン騒動については、「あらびあご どっとこむ」サイトの「アラブ世界で起きたポケモン騒動について」に詳しく紹介されており、アラブとイスラム理解のためにたいへん参考になる。

 人形や動物のぬいぐるみを禁止する根拠は、さきに述べた彫像や塑像についても同様であるが、非常に包括的な論理で、逃げ場がない。一般に言われているところでは、神が人間や動物をつくったが、それに似せたもの(彫像や人形やぬいぐるみ)をつくるのは神の行いを真似る行為、あるいは神に挑戦する行為であるからいけない、というものである。
 以上はイスラム原理主義である。イスラムの原理にもとづくとこうなるということである。これがアラブ・イスラム世界のどれだけの地域で、どれくらい厳格に、あるいは緩やかに適用されているのかはわからない。タリバン治下のアフガニスタンではおそらくもっとも厳格に行なわれていた。原理主義が広がる現代では厳格適用が広がっていると思われる。
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バーミヤン石仏の破壊と修復

2005年02月08日 | イスラムと芸術

 文化庁のホームページに「アフガニスタン文化財保存・修復協力の推進について」と題する記事がある。

 非常に力の入った長大な文書で、わが国政府、関係者のこの主題にかける並々ならぬ熱意が伝わってくる。いろいろ幅広い事業内容が述べられているが、その中心となるものはやはりバーミヤン石仏の修復にあるようである。
 ここには協力項目としては「バーミヤンの地下遺跡の探知」としか出てこない。しかし、具体的な検討事項として「バーミヤン遺跡においても平成13年3月のタリバーンの爆破を受け、石窟内の壁画も破壊や盗難により被害を受けており、その保存・修復については緊急に対応する必要がある」となっている。
 さらに、この事業の意義として「文化財分野の協力は、平和の構築と維持に重要な役割を果たし、アフガニスタン国民の誇りを取り戻すことに繋がる」とある。

 しかし、ここにはイスラムについての大きな理解不足があるように思われる。これではアフガニスタン人から見る異教徒日本人のひとりよがりにすぎない。何より、イスラムには、仏教のような異端の宗教の遺物や遺跡を文化財として尊重する土壌がない。がらくたに過ぎないのである。しかもせっかく壊した仏像を修復してくれるとは何たるおせっかいか。イスラムの土地に偶像はあってはならないのである。破壊あるのみである。アフガニスタン国民の誇りを取り戻すこととは何の関係もないどころか、逆に彼らを宗教的に挑発することになるのである。

 この事業推進の根拠として、わが国政府、関係者は、ユネスコおよび現地(暫定)政府からの協力要請をあげるかもしれない。ユネスコは、「人類の貴重な文化遺産」の保護のために何かをしなければならない立場の役所である。そのとき、カネもある、技術もある、「顔の見える」貢献をしたくてうずうずしている仏教国日本にちょっと声をかけるのは悪くない話ではないだろうか。
 アフガン政府はどうか。国土は麻のように乱れ、国民は食うや食わずであるこのときに、異教徒の遺跡の修復を要請するなどとは考えることもできない。そのような政府はあってはならないのである。もし要請らしきものがあったとすれば、だれかが知恵をつけたに違いない。それは、バーミヤンを観光名所にして世界中から観光客を呼び込み外貨を稼ぎなさい、というものである。「エジプトのスフィンクスをご覧なさい、あの巨大な偶像のおかげでエジプトはどれだけ助かっているかしれませんよ」。

 バーミヤン石仏は、首都カブールの西方150キロ、ヒンズークシ山脈を背景とし南面する懸崖に彫り込まれた東西2体の巨大仏像であり、6~8世紀に建造され、数多い摩崖仏の中でも最大のものとされる。しかし、これらは、当然のこととして、すでにイスラム教徒による破壊を受けていた。両大仏とも顔面はそぎ落とされ、体に沿って両腕を下ろし、肘のところで前腕を前に突き出していたと思われる両腕は打ち落とされされていた。その上に、今回、ダイナマイトと砲撃による二度目の破壊を加えられたのである。イスラム原理主義者は、すでに宗教的なみそぎの済んでいる彫像に対して、さらなる破壊を行なったことになる。ここにイスラム原理主義者による強烈な宗教的、政治的メッセージを読みとる必要がある。

 いまバーミヤンの渓谷に大量の鉄とセメントとガラスとプラスチックを運び込んで、似て非なる仏像を再現したところでどれほどの意味があるというのであろうか。その修復は、原理主義者のみならず、一般のイスラム教徒にとっても宗教的な挑発である。嫌がらせ以外のなにものでもない。言うまでもなく、イスラム原理主義の深化と広がりも、アフガニスタンにおけるタリバンの成立も、アメリカでの9月11日事件も、(やや飛躍するようだが)パレスチナ問題も、これらはすべて1本の糸で繋がっているのである。バーミヤン石仏の問題は、この流れの中で考えるべきである。

 西暦630年、預言者ムハンマドに率いられたイスラム軍は、メッカの町とその中心であるカーバ神殿を征服したとき、神殿にあった数百体のすべての偶像を破壊したと言われる。偶像崇拝の禁止がコーランでうたわれ、そこからイスラム軍の向かうところ彫像、塑像、画像などありとあらゆる「像」の破壊が始まった。西洋語でいうところのイコノクラスムであるが、いわゆる聖像に限らず、人間や動物の姿をかたどったものは、目に入ったものはことごとく破壊していった。数があまりに多いためか、実際には人物像であれば首を打ち落とすことで済ませている。中東や地中海周辺のイスラム国の遺跡や博物館、美術館へ行くと、そこにある像にはどれも首から上がない。あるいは首から上だけが台に据えられている。イスラム教徒の仕事である。いつかそれが当たり前のような気になって、たまに首が残っているものがあるとかえって不思議な気がするのも不思議なものである。

 エジプトのカイロ郊外にある人面獣身の巨像スフィンクスも、これはイスラムがこの地に来る遥か何千年の昔の像であるが、無傷ではない。鼻をそぎ落とされ、両目玉がえぐられたような損傷を受け、両方の耳の一部が欠けている。もちろん自然崩落によるところもあるであろう。目の部分を傷つけたのは、これは預言者がそのようにしたという故事にならって、これでよしとしているのかも知れない。

 いつの日か、イスラム世界と西側世界との先鋭な対立が終息し、イスラム世界が政治的経済的に底上げされ、若者が自信と希望をもって生きることができるような時代が来たときに、イスラム世界の暗黙の了解のもとにバーミヤン石仏の修復を企てても遅くはない。
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誘拐から1ヶ月、音沙汰なし

2005年02月05日 | フランス人記者誘拐事件(2)

 ジャーナリズムに見る限り、まったく音沙汰ない状態が続いている。

 2月1日付けリベラシオン紙電子版によれば、ラファラン首相は記者会見で、「早急に二人を取り戻すために、やらねばならないことはすべてやっている」とした上で、「得られている限りの情報では、前回のシェノ、マルブリュノ記者の件で分かった状況とはかなり違った状況にある。二人の安全確保のためにこれ以上は言えない」と語った。来週、各政治団体のトップを集めて状況説明を行なうとのこと。

 これによれば、首相は二人の生存を握っているような印象を受けるが、どうだろうか。
 一般には、卑劣漢による拉致犯罪ではないかとの見方が広がっている。


 オブナス記者の誘拐とは別に、新たに、今度はイタリア人女性記者が誘拐された。2月4日午後2時ごろ、アルジャドリヤ地区のバグダード大学構内にあるアルムスタファ・モスクを取材をすませて出たところで、1台のミニバスとオペルに道をふさがれ、武器をもった4人の男に車から引き出されて連れ去られたという。イラク人運転手と通訳は連行を免れた。モスクの周辺には破壊されたファルージャの住民117家族、約1000人がテントでの避難生活を余儀なくされており、それを取材に行った。
 今回はネット上で犯行声明が出ており、その信憑性は未確認ながら、「イスラム聖戦機構」の名で、イタリア政府に対して72時間以内にイタリア軍のイラクからの引き上げを要求している。
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イスラムと医学・医療

2005年02月01日 | イスラムと科学

 近年、医学、医療の分野で数多くの目を見張るような進歩が見られる。それらは、単に医学の領域にとどまらず、生命倫理にかかわる問題を含むことが多く、われわれひとりひとりが考えなければならないのはもちろんだが、国家や国際機関がひとつひとつのケースについて対応を迫られる事態になってきている。クローン動物やその延長線上のクローン人間の研究などがその典型である。

 そのことはイスラム世界でも同様で、ひとつひとつの問題について、イスラム世界として対応を決めなければならないことは言うまでもない。イスラムの教義やアラブの伝統にそぐわないものが少なくないと思われるからである。この世界では、いわゆる学識経験者が決めるのはなく、宗教家が決めるところが変わっているが、ともあれ指針を出さないわけにはいかない。なぜなら、ムスリムひとりひとりでは何ごとも決めることができないからである。

 しかるに、こうした問題はいずれもあまりに複雑で、あまりに専門的であるので、イスラムのウラマーが内容を理解するのがたいへんな苦労であるはずである。いや、ひたすらコーランの暗誦にはげんできた理科的な素養のまったくない高齢のイスラム法の専門家に理解を求めることが無理なのだ。しかも、仮に理解が得られたところで、コーランやハディースに言及がなければ、その場合がほとんどであるが、結論を導くことが極端に難しい。ということは、イスラム世界として権威ある決定を得ること自体が不可能ということになる。個々のムスリムはどうすればいいのだろうか。

 ここには、最近話題になることの多い医学、医療上の問題の中から、イスラム世界の対応が注目されるものの一部をこころみに並べてみた。単なる科学技術上の問題であれば、原子爆弾を作られては困るが、イスラム世界の対応が外部世界に影響することはほとんど考えられない。しかし、医学、医療上の問題となると、直接われわれに影響が及んでくるので、無関心でいることはできないのである。どのような回答がイスラム世界から来るか、期して待っている。


1)輸血・移植
輸血
 輸血の歴史は長いので、いろいろな議論があったようであるが、現在は輸血を受けることは認められている。ただ非ムスリムの血液を受けることについては議論が分かれるらしい。献血も奨励されている。非ムスリムに対する献血もムスリムの寛大さを示す意味で認められている。ありがたいことだ。

臓器移植
 以下の各場合について、ムスリム、非ムスリム間のやりもらいに伴う4通りのケースがある。やはり非ムスリムから臓器を貰うことができるかは議論が分かれるようである。また、近親者・第三者の別、有料・無料の別、等でイスラムの対応は分かれると思われる。

1.生体移植
2.脳死移植
3.死体移植
4.動物の臓器を移植
  極端な場合だが、豚の心臓弁の移植は認められるか。
5.人工臓器移植

2)家族計画
避妊
 イスラムでは、結婚は子どもを生むことが、多分、本来目的とされていると了解するが、そうであれば夫婦が避妊をする理由やその方法について議論があるように思われる。

堕胎(妊娠中絶)
 まず堕胎する理由が問われるであろうし、当然のことながら、殺人は許されないので、成長する胎児をいつから人間とみなすかにかかってくるのではなかろうか。

不妊手術
 イスラムでは男女いずれに対しても認めないというが、その理由は何か。

生殖補助医療
 子どものできない夫婦に対して、第三者の参加を得て、子どもをもたせようとする医療で、おおよそ次のように5類別されている。それぞれの場合について、イスラムの見地からの対応はどうか。

1.第三者の女性に出産してもらう。
1-1夫の精子と妻の卵子で、第三者が出産(借り腹=ホストマザー)
  (遺伝上:夫は父、妻は母、法律上:夫は父、妻は第三者)

2.第三者の女性から卵子の提供を受ける。
 2-1夫の精子で妻が出産
  (遺伝上:夫は父、妻は第三者、法律上:夫は父、妻は母)
 2-2夫の精子で第三者が出産(代理母=サロゲートマザー)
  (遺伝上:夫は父、妻は第三者、法律上:夫は父、妻は第三者)

3.第三者の男性から精子の提供を受ける。
 3-1妻の卵子で妻が出産
  (遺伝上:夫は第三者、妻は母、法律上:夫は父、妻は母)
 3-2妻の卵子で第三者が出産(代理母=サロゲートマザー)
  (遺伝上:夫は第三者、妻は母、法律上:夫は父、妻は第三者)

着床前診断(受精卵診断)

3)再生医療
 臓器には固有の幹細胞がある。この幹細胞からその臓器に必要なすべての細胞が作られる。ところが、受精卵が数回分裂したところで得られる胚性幹細胞(ES細胞)からはすべての臓器の細胞が作られる。従ってこれを使うことにより非常に有利となる。
 朝日新聞(2004/7/4)の記事「衝突恐れず文化の創造を」の中で、筆者の理化学研究所発生・再生科学総合研究センターの西川伸一氏は、ひとつの生命体において「全体の生命と部分の生命」ということを考えなければならなくなったとして、「単細胞生物なら全体と部分はひとつで分離できない。しかし多細胞生命体では全体の生命と部分の生命を分離して取り扱うことが可能となった。こうなると文化の伝統との衝突が避けられない」と述べておられる。これはわれわれ日本人への問いかけであるが、同時にイスラムの見解を知りたいものである。

4)遺伝子治療
 体外から遺伝子を組み込んだウィルスや細菌を患者の体内に入れ、病気のもとになっている遺伝子の働きを抑えたり補ったりして病気を直す方法。

5)死・死体
 イスラムの見地からは非常にデリケートなところと思われる。それぞれについてイスラムの対応を聞きたい。

延命治療
安楽死
自殺
死体解剖(教育、学術的な)
検視解剖(変死の際等の死体解剖)
 
6)性転換手術
 神の被造物に変更を加えることになると思われるが、イスラムはどう対応するのか。

7)(美容)整形手術
 単なる美容目的と、病気や事故による、或いは生れつきの身体的異常を矯正するためと、ふたつのケースがある。イスラムはどう絡んでくるのか。

8)クローン動物・クローン人間
クローン動物
 1997年、イギリスで世界初のクローン動物(ヒツジ)が作り出され「ドリー」と名づけて発表された。これは「体細胞クローン」という方法でつくられ、雄のヒツジは関係がないことが特徴であった。クローン動物の作り方にはもうひとつ「受精卵クローン」という方法があり、これは通常の交配によってできた受精卵を使ってつくられる。ドリー以後、両方の方法でたくさんのクローン動物がつくられるようになり、アメリカではすでにクローン家畜が産業的に生産されるところまできて、食品医薬品局(FDA)が食肉として食べた場合の安全性の検討に入っているという。
 これに対してイスラムはどのような対応をとるのか。

クローン人間
 クローン技術を応用して、人そのものを作成する研究を進めるかどうか、その進め方について、政治を先頭とする深刻な議論が起こっている。すでにアングラではあちらこちらで実行に移され、誕生が間近との噂も聞かれるようになった。3年前に次のような趣旨の報道があった。

 不妊治療で有名なイタリア人医師セベリノ・アンティノリ氏が、02年4月、アブダビとドバイでの講演や会見で明らかにしたもので、さるアラブ国でクローン人間づくりの実験を行なっており、アラブ人の大金持ちのVIPの核を用いた人クローン胚が女性の胎内に入れられ、女性は現在妊娠8週を迎えている。また別に、ロシアとイスラム教国でクローン技術により3人の女性が妊娠しており、いずれも妊娠6-9週間と報告した。この医師は、イタリアではこの研究はできないが、イスラム文化はオープンで、科学の進歩を助長するものであるという。

 これに対して、同じ記事で、サウジアラビアの不妊治療協会会長が、かなり以前に宗教当局がこの研究を禁じており、これに携わったものは厳罰に処せられる、と語ったとしている。

 わが国では、「クローン技術規制法」により人クローン個体を生み出すことを禁止ししている。しかし人クローン胚作りは、03年7月、生殖医療研究目的に限り容認した。フランスとドイツは人クローン個体作りを「人類に対する罪」として禁止することはもちろん、クローン胚作製も禁止している。一方、英国は研究目的にはクローン胚作りを認めており、日本は英国にならっている。アメリカは、人クローン胚の研究および人クローン個体を禁止する法案が下院を通過している。

 イスラムはこれに対してどう答えるつもりだろうか。仮に神の領分を侵すものとして禁止するにしても、ただ「禁止」と叫ぶだけでなく、イスラムと近代科学のあり方を踏まえた説明が必要である。
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