新しくはインターネットであるが、イスラム世界はこれまで、書籍、新聞、ラジオ、映画、地上テレビ、衛星テレビなどの西側世界からもちこまれるさまざまな情報メディアにふりまわされてきた。それらをすんなり受けいれたことがない。受けいれることができないのである。その理由は簡単で、言うまでもなく、「イスラムの価値」を損なうような情報、および国の独裁体制を脅かすような情報を流通させるわけにはいかないということだ。これは、とりもなおさず、イスラムも独裁体制も規制のない情報流通には非常にもろいということを示している。これらには今もって宗教界や政府による厳重な規制と検閲が行われている。(このことがアラブ・イスラム世界を今日の惨状に陥れている主な原因であると思われるが、これは別問題である。)
映画がアラブ世界に入ってきた20世紀初頭は、幸いなことにサウジアラビアはまだ国の体をなしておらず、イスラム原理主義者もいなかったので、映画とイスラムの関係について表立って面倒な議論が行われたとは考えにくい。原理主義的な「ムスリム同胞団」がエジプトに生まれるのも30年代に入ってからである。宗主国のイギリスやフランスがもち込む娯楽映画のお下がりをありがたく見せてもらっていたのであろう。時に「イスラムの価値」に反する場面は、切り取るなりしていたであろう。その後、厳格主義のイスラムを国是とするサウジアラビアが、石油の富を背景に、厳しいことを言い始めるが、さすがにサウジアラビアにはいまだに映画館はない。サウジアラビアでテレビの導入をめぐって行われたかんかんがくがくの議論は、部外者の目には不毛以外の何ものでもなかった。いまではそれなりの用心をして、ちゃっかりとりいれている。
イスラムでは、最初は原則論がまかり通るが、時間がたつにつれてご都合主義がはびこり、何でもなし崩しにとりこんで行く。アラブ世界は、理工学や産業はほとんどゼロであるから、ここからここから新しいものが生まれたこともないし、今後も考えられない。いつまでも外部世界にふりまわされ続けることであろう。
さてインターネットである。アラブ諸国では、これまたどこでもはれ物にさわるような扱いである。宗教家や政治家は、西側世界はイスラムや独裁国にとって究極のやっかいなものを生み出してくれたものだと嘆いたに違いない。例によって、原則禁止のがんじがらめの規制を行っている。ところがである、実に思いがけない形でインターネットがイスラムにフィットしたのである。イスラムの本質的な性格である「百家争鳴」性とあいまって、極端な言い方をすれば、ムスリムひとりひとりがサイトを開き、自分こそ「真のムスリム」であると主張を始めたのである。それも、アラブ国では厳重な規制と監視があって言いたいことが言えるわけもなく、アメリカやヨーロッパにサーバーをおいて活動を始めたのである。しかも、このインターネットの特性に気づくのも早かった。
ちなみに、「岩波イスラーム辞典」は2002年に刊行されているが、その「インターネット」の項目は、ネット上の情報がイスラムの伝統的価値に抵触したり、各国政府にとって都合の悪いものだったりすることがあるため、当局により何らかの規制を受けているということを指摘するだけの、まことに皮相な解説にとどまっているのは残念である。