中東断章

中東問題よこにらみ

中東の空の下

2009年03月05日 | イスラム - この難しきもの
 イスラム世界の上空には「知的荒廃」という厚い黒い雲が垂れこめている。その下には、知の光が射し込むことのない薄暗い荒涼とした風景が広がっている。少なくとも、極東の島国から遥か彼方の中東の方角を眺めると、そのように見えるのだ。

 産業革命をおこし、近代の学問、科学技術を開いた欧米人は、まことに傲慢で暴力的である。反面、乞われれば自分たちの経験を余すところなく教えてくれる気のいい教師でもある。そこに、極東の小さな島国は、19世紀末にいち早く追随を開始し、その後思い上がって戦争を仕掛けたはいいが、アメリカ軍の焦土作戦にあい、原子爆弾をふたつまで落とされて、二百万人になんなんとする国民を失った。それにもかかわらず、生き残った国民一人一人は心中の葛藤を克服して再度追随をはじめ、ぴたりと西洋の背中に張りつき、いつか乗り越えんものと努力している。戦後、多くの日本人がアメリカに渡って新しい学問を学び、新しい産業をおこして新しい生活を切り開いた。となりの大陸の大国の民衆も今や重い腰を上げ、その先のインド人もようやく目覚めてきた。イスラムの東漸に対する覚醒の西漸である。

 しかるに、その先の中東イスラム世界はどうか。そこでは、人々は考えることを放棄し、理屈もなければ議論もない。あるのはただ思い込みと思いつきと衝動だけである。人々は、口々に思いのままを声高に言いつのり、ののしり合い、感情のおもむくままに突っ走る。アメリカが憎いといって、無防備の旅客機を四機まで乗っ取って、乗客もろとも高層ビルや役所に突っ込んでこれを破壊するというくわだては、それ以外の数えきれないさまざまな類似の行為とあいまって、彼らイスラム教徒の本態をよく示しているであろう。外界に対してのみならず、イスラム世界内部でも同様である。現状認識と将来への展望をもつことなく、理屈にもならない理屈をわめき散らし、戦いにもならない戦いを続け、衝動のままに突っ走るのを見ていると、そう考えざるを得ない。

 些細なことを言えば、「極東」といい「中東」ということばである。いずれもヨーロッパ語の翻訳であるが、我が国では長い議論の末に、「極東」の語を使うことを潔しとせずとし、戦後までよく使われたこの語を今では見たり聞いたりすることはなくなった。しかるに「中東」の方は、中東人は無反省にこれを受け入れ、マスコミには中東の語があふれ、中東アラブ諸国を代表する有力紙の紙名にまでなっている。それは、あたかも、宗主からいただいた有難い贈りものとしているかのようである。中東諸国の人々が「中東」の意味をかえり見る気配はない。

 話は飛ぶが、1798年、ナポレオン・ボナパルト率いる3万人のフランスの軍隊がエジプトに遠征した際、160余人におよぶ多方面の分野の学者や画家を引き連れていった。この学者たちによるエジプト研究報告が「エジプト誌」となって、人類の至宝のひとつとなっている。それがシャンポリオンによるエジプト古代文字の解読やレセップスによるスエズ運河の開削につながった。それまでヨーロッパにほとんど知られるところのなかったエジプトが大規模な研究に値する国であることをだれがナポレオンに教えたのか。「暗黒の中世」を抜け出したばかりであるはずのヨーロッパ人がどうしてこのようなことを思いつき、巨費を投じて実行したのか不思議ではある。 (今パリのアラブ世界研究所で「ナポレオンとエジプト」展が開催中の由。)

 さらに飛躍すれば、ナポレオン遠征を嚆矢として、それに続く数限りない欧米からの中東イスラム世界に対する軍事的、政治的、経済的、文化的攻勢へのお返しが、あの「9.11」であった。西側からの最大の攻撃が北アフリカの植民地化であり、イスラエルの建国である。ナポレオン遠征以来200年の間にたまりにたまったアラブ・イスラム世界の怨念があのような形で噴出したのであろう。この200年間、イスラム世界は反撃らしい反撃をすることができなかった。欧米に戦争をしかけることのできないイスラム世界に、ほかに何ができるだろうか。イスラム世界からは「9.11」のような形でしかお返しができなかったし、またこれが最後ではない。(イランをはじめ、資金力をもつアラブ諸国も何とかして核兵器を手に入れたいところであろうが、こればかりは許してはならないことは明らかである。)

 イスラム教徒は、筋道を立てたしっかりした考えをまとめることができず、従ってそれにもとづいた対話や議論をすることができない。イスラム世界の内部でも外部世界との間でも、対話や議論が成り立っていない。 人と人との間のことばのやりとりから新しい発見が生まれ、高みの結論に至る。一方的に言い立てるばかりでは何ものも生まれない。そこからこぼれ落ちてくるものが「憎悪」である。

 以下は苦しまぎれの妄想であるが、ひとつには、これは、どうも、コーランによる影響が大きいのではないか。誤解のないように言うが、コーランの内容ではなく、その組み立てである。コーラン研究が示すところによれば、コーランは、預言者の口をついて出た神のことばが周囲の人々によって書きとめられ、それが預言者なきあと後継者たちによる編集作業を経てまとめられたものであるという。そのコーランは、編集作業が終了しなかったためか、ひどく脈絡を欠いている。話題があっちに飛びこっちに飛びと、切れ切れなのだ。イスラム教徒は、これを小さな子どもの時から徹底的に刷り込まれるわけで、その結果、脈絡のない考えしかできない大人ができあがる・・。

 もうひとつは、言うところのイスラム哲学である。その昔、コーランを教えられたアラブの子どもたちや、コーランをポンと渡されたアラブ・イスラム軍によって征服された異民族の人たちは、何とかそれを系統的に理解しようとして懸命の努力をした。そのための手がかりとして目をつけたのがギリシャやローマの哲学であった。彼らは、それを援用して、ジャングルのごとき壮大なイスラム哲学を築き上げた。言うところのファルサファ(フィロソフィー)である。しかし、宗教哲学といえば聞こえはいいが、これは簡明で素朴なイスラムに荘厳衣装をつけただけのものではないのか。しかも脈絡のない空虚なことばの羅列に過ぎないのではないか。ギリシャやローマの哲学とは似て非なる牽強付会の「護教」説のかたまりではないのか。それに浸っているのがイスラム社会を導くウラマー(識者)たちであるとすると・・。 

 現実に戻ってイスラム世界を眺めると、そこには、日々至るところで、すさまじいばかりの激しいことばの応酬がある。そうして人々は、国家(?)から個人に至るまでのさまざまなレベルで離合集散を繰り返して、果てるところがない。これは、どうやら、コーランを刷り込まれたイスラム教徒一人一人が、それぞれの限りなく強大な神をもっているせいではないのか。つまり、神は唯一であるが、その神を仰ぎ見る信者一人一人はそれぞれの思いを神に託している。つまり、自分だけの神をもっている。そこで一人一人が神による義はこうだと主張する。当然、他の人の主張する義は誤りである。両者の議論はどこまでも平行線をたどる。もし不義を認めると、最後の審判がまっていて、神の裁きによって永劫の地獄に落ちる。

 イスラム教徒の子どもたちは、幼児のときからコーランを教えられる過程で、それぞれが心の中で自分の神を形成し、自分とその神との間で隠微な関係を結ぶ。百家争鳴の根源はこの辺にあるであろう。百家争鳴が収斂しない理由も、またここから出発している。

 われわれの言う「知」の光は、もちろん世俗知の光である。俗の極みに言えば、幸福になるための金儲けの光である。天上界とは関係がない。一方、イスラム世界には叡知の光がさんさんと降り注いでいる。彼らは叡知の世界にいる。ところが、数百年のあいだ、何ものにも煩わされず、崇高な叡知の世界でひたすら神の栄光を称えて暮らしていたところに、突然、ナポレオン軍がやってきた。続いてイギリス軍がやってきた。アメリカ軍も来た。いまイスラム世界は、ことばの真の意味においてパニックの状態にある。そこから立ち直る見込みは、当分、ない。


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